鯛焼き、頭から? しっぽから?
『あ、優子? 今日、暇?』
それは、自分に不幸な事があると連絡をしてくるユリからの電話だった。便りがないのは元気な証拠、と言うものだが、彼女に関してはそれが見事に当てはまってしまう。もっと普段から色々と、楽しい事もメールしてくれればよいのに。何故か彼女から来るメールや電話は、不幸の色に満ち満ちているものばかりだ。
「まぁ、暇だけど」
優子は淡々と答え、しかし何処か楽しそうに唇を綻ばせた。壁の時計を見て、時間を確認。午後二時少し前。ランチではなく、ティータイムになりそうだ。行きたいなと思っていた店を数件、脳内で素早くピックアップしておく。いいキッカケができた。
『聞いてもらいたい事があるんだけどな』
そんな事は分かっている。
ほくそ笑みながら、ウンウンいーよ、と軽く返事。
「何処でお茶する? あたし、行きたい店あるんだけど」
『それでいい。場所は?』
「新宿」
『んー……じゃあ、南口に……何時?』
「三時でどう? 早い?」
『おっけ。三時に南口ね、了解』
「はいはい、じゃ、その時間にまたー」
『じゃねー』
軽く会話を交わすと、優子は携帯をベッドに投げ出して準備を開始した。今日は一度近くのコンビニに出たから、化粧は少し直すだけ。服は……確か、まだ着ていない新入り達がクローゼットに入っていたはずだ。それを何着か取り出してから外の風景を見て、しばし逡巡。
使っていたパソコンで、天気予報確認。思ったより最低気温が低い。夕方は少し肌寒いかもしれない。淡いピンク色のカーディガンを一着バッグに詰め、ついでに折り畳みの傘を一本。ここ最近は雨が多いから、保険のために持っていく。
着替え、窓の施錠、ガスの元栓を確認。まだ早いが、さて出ますか、とスニーカーを履いていた時だ。携帯がピロリッと軽快な音を立てた。見ると彼氏からメール。
〈今日、暇?〉
急遽バイトが早く終わったらしい。残念、先約アリ。その旨を手早く返信して、家を出る。携帯をバッグの外ポケットに入れ、スニーカーで軽快に駅へ向かった。
ユリとは高校からの付き合いで、もう七年目の付き合いになる。特別仲が良かった訳でも、逆に悪かった訳でもない。しかし、時々思い出したようにやって来る彼女からの誘いを断らないのは、理由があった。
他人の不幸は蜜の味、と言う。
何とも嫌な響きを持つ言葉だが、優子は真理だ、と心底から思っている。何故なら、自分自身がそう思っているから。それは何も、単純に不幸を嘲笑うためではない。
人の不幸を聞く事で、自分が幸せな位置にいる事を確認するから楽しいのだ。優越感とでも言えばいいのだろうか。口では大変ね、などと言いながら、人は心の中で自分に関係のない事でよかった、と胸を撫で下ろす。
これが本当に仲の良い、自分が友達だと断言できる者が相手なら話は別だ。一緒に現状の打開策を考えてあげるに違いない。だが、ユリは違う。ただ高校が一緒だっただけ、誘いがあれば遊びもするが、自分からは誘わない。その程度の友人だから、当然話を聞く姿勢も変わってくる。
大体、ユリも悪い。楽しい話題を持ってこないから。
そう自己弁護しながら、優子は電車を降りた。平日の昼間でも、新宿の南口は酷く混雑している。携帯で三時を確認し、ここにいるだろうユリに電話をかけた。彼女はすぐに見つかった。久しぶりだね、と何て事はない挨拶を交わしながら、目当てのカフェへ。
今日も幸せの再確認だ、そう思えば足取りも軽い。
目を付けていたカフェは、思っていたよりもレベルの高い所だった。
やや照明を落とした店内。店員さんはギャルソン姿の男のみ、と言う所も優子としては嬉しい所。テラスにも席はあったが、そこから程近い店内の一角に二人は腰を下ろした。共にアイスティーと、ショーケースに並んでいたケーキを一つずつ注文する。
品物が来るまでの間、ユリも優子も黙ったまま店内を見回している。
高めの天井には、シンプルな白く丸い傘を被った灯りが吊り下げられている。一見すると提灯のようで、それだけで店内が和風に見えてくるから不思議だ。和の空間の中で働くギャルソン達……なかなか妙で、良いではないか。
優子はボーッと外などを眺めていたが、何か言いたげにしているユリに気が付いてゆったりと視線を元に戻した。そんな風に訴えられては、無視もできない。
「それで……今日はどうしたの? また、逃げられたか」
ユリの不幸は、男絡みである場合が多い。曰く金だけ持って男が逃げた、曰く四股をかけられていた、曰く彼氏の車で事故にあった……など。男が絡むと、これでもか、と言うくらい嫌な終わり方をするのは、きっと運命の巡り合わせに違いない。そうクールに思えてしまう程、ユリは男運がない。
「あのね……」
大きな目を伏せて、ユリが口を開いた。滴の浮かんだ水のグラスを見つめていたかと思うと、ふっと視線を上げ、こう真剣に尋ねてくる。
「鯛焼きって、何処から食べる?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
鯛焼きと言えば、あの鯛焼きしかなく……しかし、不幸話に関係があるとは思えなかった。いや、不幸話と思いこんでいたのは自分の偏見。今日は、まともな話なのかもしれないな、と少し心の中で落胆する。
「鯛焼きって……」
「優子は何処から食べる? 頭? 尻尾?」
「そう言うユリは何処からよ」
「あたしは頭に決まってるじゃないっ」
パンッと軽くテーブルの表面を叩き、ユリは心外だ、と言いたそうな強い口調で断言した。それに反論しようとした時、注文した品が届いた。優子の前にはマンゴータルト、ユリの前にはオペラ、と言う名のチョコレートケーキが置かれる。最後にアイスティーのシロップとミルクを置いて、店員は優雅に席を離れていった。
「ねぇ、鯛焼き。何処から?」
「何か関係あんの、ソレ……」
「あるから聞いてる」
ケーキの端をフォークで切りながら、少し不機嫌そうに言うユリ。優子も同じようにタルトにフォークを突き刺し、それを口に運んで味わってから「鯛焼き……」と呟いた。マンゴーの爽やかな甘酸っぱさを堪能していると言うのに、何故もったりとした餡の事など考えなければならないのか。そもそも、自分が何処から食べるかと言う記憶がない。
「たぶん、色々。持った時の向きによるって言うか」
「……あたしはさ、頭から食べるのね」
「うん」
「でも、元カレは尻尾からだって譲らない」
「……うん……え、元カレ?」
違和感を覚えて聞き返すと、
「別れたの」
と眉間に皺を寄せてユリが呟く。
「はぁあ?」
あまりにも突飛な話で、思わず優子は乱暴に聞き返していた。まさか、ラブラブだとつい先日まで言っていたではないか。それなのに、よもや鯛焼き如きが原因で……いや、鯛焼きだけが原因ではないだろう。きっと、それまでに積もり積もった何かがあったのだ。
優子は無理矢理自分を納得させた。
「でも、何でまた鯛焼きの食べ方でケンカしたのよ」
「人生に関わる大問題だからよ」
「……鯛焼きが?」
「だって考えてもみてよ。鯛焼きって、尻尾の方は餡が少ないでしょ? それでもって、頭の方は餡がたっぷり」
「うん……」
「つまり、楽しみを後にするか先にするかって事なのよ」
「それで?」
「あたしは、今が大事なタイプなのね。だから、結婚の事も全然考えてなかった。でも、元カレは違ってたのよ。要は人生観の相違ってヤツよね」
よく分からなかった。
つまり、まだしたくもない結婚を押し付けられそうになったから……だから別れたのだろうか。鯛焼きはあくまで例えでしかなく。そう、無理矢理に原因を考えていると、ユリは大きな溜息をついて首を振った。それだけじゃないの、と深刻そうに言う。
来た。
そう、いくら何でも鯛焼きが直接の原因な訳がない。
少し気を持ち直して優子が身を乗り出した時だ。携帯がピルリッと音を立てた。彼氏からだ。いいよ、とユリが言うのでメールを見ると、
〈ゲーム、まだお前の家?〉
その言葉に、あー……と眉根を寄せた。再三返せと言われて、会う度に忘れた、と言い続けているゲームがある。きっと、それの事を言っているのだろう。今度ね、ごめんね、と返して、ユリに向き直る。彼女はつまらなそうにアイスティーを一口飲むと、
「それだけじゃないの」
ともう一度繰り返した。
「ごはん食べた後に食器を洗うでしょ」
「当然」
「でさ、信じられる? お箸の食べる方を下にした刺すんだよ?」
「……え?」
「コップとかに洗ったお箸刺すじゃない。でもさ、それってあたしは汚いと思うの。洗ったばかりだから平気とかじゃなくて、何か汚いって思うのよ。優子もそうでしょ?」
「あー……でも、確かにウチも食べる方は上にして刺す……」
「元カレは、下にするのよ……」
「…………」
何と返事をしたら良いのか迷っていると、またまた携帯が鳴いた。ユリには悪いと思ったが、その空気に堪えきれずにメールを確認する。
〈いつ返してくれんの?〉
それに今度会う時、と簡潔に返すと、ユリが溜息をついて言葉を続けた。
「確かにね、何でもない事なのよ。今まで、あたしが受けてきた仕打ちと比べたらさ。本当に何でもない事。こんなんでイラつく自分にイラつくわよ」
「まぁ……そうだね……」
優子の方も、今日はどんな不幸話が聞けるのかと不謹慎にウキウキしていたくらいだ。それはユリが持ってくる話が毎度不幸に満ちているから……それと比べれば、鯛焼きがどうの、箸がどうのなんて言う決別の原因は、いまいち迫力に欠けた。もちろん、ユリはユリで真剣なのだろうけれど。
それにしても……肩すかし、と言うのはこの事を言うのだろう。ここ最近は、自分もやや低調な日々を過ごしていた。あまりいい事がなかったのだ。付き合って三ヶ月目の彼氏とは、早くもマンネリ。一緒にいる事が苦痛ではないものの、特別楽しいかと問われればそうでもない……けれど、今失ってしまうのは嫌だと思う程度には大事。何とも微妙な関係に、相手も自分も悩んでいる事には気が付いていた。
そんな時にユリからの電話が来たのだ。
自分の幸せを再確認したい。
ただ、それだけのためにユリを利用しようと話に乗った。
けれど……これでは、ただ単純にお茶をしているだけである。これではダメだ。自分より不幸な人間を見つけないと安心できないのは、性根がひねくれている証拠。分かっていてもやめられない。幸せでなくても、幸せであると確認したいからだ。
「ねぇ」
ユリが目を三日月のように細めて笑いながら、不意に声をかけてきた。それに生返事をし、マンゴータルトの一角をフォークで切り崩す。
その瞬間、ユリが言った。
「ごめんね、今日は張り合いのない話で」
「え?」
「優子、分かりやすいからさ。食い付き方が違うんだよね、あたしが深刻な話する時と雑談と。自分じゃ分かってない?」
「…………」
「分からないはず、ないっしょ。友達なんだから」
そう言って笑い、まぁいいけどね、とアイスティーに口を付けるユリ。
優子は思わず、呟いてしまった。
「……私達、長い付き合いになりそうね……」
弾けるような笑い声を上げ、ユリは嬉しそうに目を細めた。