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名刺 ~静かなるドラマ~

作者: 弥生 祐
掲載日:2010/02/20

今作はテーマ企画『名』に参加した作品です。

キーワード『名小説』で検索されますと、他の参加作品も読めます☆


また、一人職業企画として、職業小説企画の企画外作品のつもりで、再投稿した作品でもあります。

「おう、鏑木(かぶらぎ)さんか、ご苦労さん」

 

 幾つかの簡素な机が並ぶ小さな事業所。その一番奥の事務机から、よく通る声が香織の耳に飛び込んできた。なん人かの社員の視線が、声の先にいる若い営業員に向かう。それはただ一瞬の確認。淡いグリーンのスーツに締まる身体を包んだ香織は、所長の挨拶を受けて深々と頭を下げた。

 一秒、二秒…… いささか丁寧過ぎるかな、そう香織も思わないではない。所長の言い様に含まれる鷹揚(おうよう)さに対してだ。しかし所長の親密の度合いが自分ではなく、鏑木という特徴ある自社名に向けられていることを、香織はよく理解していた。


「お忙しいところ失礼します。本日は六月期の点検にトナーの交換と……」

 そこで香織は溜めを作り、清潔に整えられた短い髪を肩の上で揺らした。

「新しい機種のカタログを持参しました。それで五分ほどで構わないのですが、お時間を頂きたく――」

「ああ、それならそこの棚に置いといてくれ。あとで目を通しておくよ」


 簡潔に返答を投げて、所長は香織を阻んだ。ことさら無下に放たれた言葉ではない。言わば常套文句のひとつだ。それでも自分を貫いた言葉の矢尻に、鈍い衝撃を伴う無情の毒が塗られていたように香織は感じた。失敗した。香織はきつく目を閉じて、わずかに唇をかみ締めた。にわかに襲う失調を表面に出さないよう、冷静になれと自分を落ち着かせる。昨日今日、従事している仕事ではないのだ。営業職に着いてから三年の月日が流れている。挨拶と同時に切り出すなど研修中の新人でも犯さない愚を起こしてしまったが、大丈夫。まだ立て直せる。香織は自身を鼓舞した。


「そうですか、分かりました。それでしたら、所長の机の方に置かせて頂きますね」


 まずは承諾して、一旦引くこと。そして真剣な瞳の中に若い人間だけが使い得る、真っ直ぐで憐憫さを伴う瞳を所長を投げかける。これは香織の、浅くない経験から次に繋ぐための仕度だった。

 所長はなにも言わず、なにも言えず、首筋に手をかけた。そんな僅かな隙。香織は足早に事業所の奥まで進み、他より上等の事務机、ではなく、所長の手に直接カタログを渡した。


「この機種なんですけど――」

 カタログに付けられた桃色のクリップ。挟まれている香織の名刺が微動する。

「鏑木さんには敵わんな~」

 名刺は誇らしげに、そして悲しげにも震えているようだった。



*****



 副都心、ビルの合間を縫うように佇む緑林公園。昼時とあってスーツ姿のサラリーマン、OLが目につく。燦々と降り注ぐ真昼の太陽光が、それぞれの姿を眩さに溶け込ませ、陽炎を生み出していた。

 ふう、と息をついて香織は公園のベンチに腰を下ろした。コンビニで買ったサンドイッチを(ついば)みながら、午後に回る予定の法人リストを眺める。あと二十社は訪問する予定だ。今度は、はあ……と深い息を吐いた。軽くこめかみを押さえ、残りのカタログ数を横見する。その時、名刺が数枚しか残っていないことに気づき、香織は沈痛な面持ちで(かぶり)を振った。


「なにやってんだろ、わたし……」

 香織は目頭を指でつまんだ。三度目となる溜め息が漏れる。

 名刺を補充して来なかった自分を恥じたわけではない。幾度となく渡しても、自分の名前を覚えて貰えない悔しさが、じんわりと寂寥感を募らせたのだ。先ほどの会社だけではなかった。ほとんどの訪問先、馴染みの取り引き会社でも、自らの名ではなく鏑木商事の人、そんな認知のされ方で終始されている。

 平凡な姓名ではあった。日本で佐藤、鈴木に次ぐだろう。しかし香織は憂う。同じ人間ではない。営業しているデジタル複合機。そのコピー機能で刷られた複製人間では無いのに、と。


『――営業ってのはな、商品や企画を売る仕事じゃあない。自分を売り込み、買って頂く仕事だ。まずは名前を覚えて貰えるところからだな。頑張れよ』


 入社した当初、ついて教えてくれた先輩の言葉が香織の脳裏に浮かんだ。その助言に支えられて二年あまり。香織は自分の望まない自分を、切り売りしてきた。大好きなアクセサリーはつけない。本来、落ち着いた質感を好むスーツも、若さや元気良さが映える明るい色合いに。そして営業スマイル。それらは社会人として当たり前のことだ。その当たり前を違和感無く、こなさなければいけない。普段から仕事用の装いを馴染ませる。普段から自然な笑みを意識下に刷り込む。まるで恋人に接するような笑顔を作る。作ったことを悟られないように作る。作る。また作る。昨日も笑顔。今日も笑顔。そして明日も―― けれど、それが限界という名の境界線を越えるギリギリまで、いや、越えたかも知れないと、香織は最近とらわれ始めてきていた。


『名前ってのはな、その人間のアイデンティティを示すもんだ。まずは覚えて貰え、そしてお客さんに可愛がって貰え。そうすれば――』

「そうすれば、結果は後からついてくる、か」

 香織は頷きながら、続いた回想を打ち切った。スーツに刻まれた濃緑のしわを整え、背伸びしてベンチから立ち上がる。うん。わたしは、わたしだ。自身にしか納得出来ない理屈で心の内に決着(けり)をつけると、香織は元気よく両腕を伸ばす。そしてうずたかく積まれた熱気をはらむ街中へと、飛び込んでいった。



*****



「こ、これですか」

 香織は渡された名刺…… が並ぶA4サイズの印刷物を見て、怪訝な表情を浮かべた。

「これも不景気ゆえの経費削減ってやつさ。消耗品でもあるしな」

 そう言って業務を担当する上司は、きちんと作られた名刺は今後、発注しないことを伝えてきた。

 香織はデスクに戻りながら、先ほど奮わせた気力が減退していくのを感じた。椅子を引いて下ろした腰も、どこか鈍い。受け取った名刺の元を丁寧に折り畳み、切り分ける。同じ名刺が一枚、また一枚と生まれていった。全く同じ複製品。幅数ミリの側面に刻まれる荒い斜線が、受け取る相手へ送る僅かな品位をも奪っていた。


『いいか、今の若い社会人には分からないだろうが、これからお客さんにする管理職クラス。古い人間ほど、しっかりと作られた真っ直ぐな名刺を好む』

 香織の脳裏に再び、懐かしい先輩の声がよみがえってくる。

『最近、乱造されてる簡易プリント。あれで印刷する名刺には注意しろよ。その側面に斜線や、切り取った時の跡が出来るからな。見る人が見ればすぐ分かるんだ』

「…………」

『いいか、そうゆう細かいところも気をつけるんだ。特に営業の場合は自分を買って貰うための、大切なパスポートなんだ。決して安売りするなよ』

 香織は渇く下唇を噛み潰した。胸中から湧き上ってきたのは、この数年で磨り減らして、なお微かに残るプライドだった。世の中で唯一の存在になりたい。そこまで言わなくても、香織は個性ある一人の、名前のある人間でありたかった。

(わたしは粗悪品や複製品じゃない。わたしは……)

 今でも在籍していたら、先輩は会社の現状を嘆いただろう。香織は独立して起業した先輩を思った。

(なんでだろう。なんで今日に限って、何回も思い出すんだろう)

 自分を安売りするなと教えてくれた先輩。お客さんに可愛がって貰えと、自分を可愛がってくれた年上の異性。疲弊した胸に去来する先輩への憧憬。響き残っている泰然とした声。思い出すことは彼女にとって、それが自分を再確認するための儀式かもしれなかった。


 香織は揃えた名刺をケースに収めて、時刻を確認した。机の片隅に置かれた電話機のデジタル表示で、午後の計画を組み直す。

(途中で先輩の仕事場に寄ってみようかな)

 思わず笑みが透けたような気を自覚して、香織は周りを見渡した。社内の時間は普段通り、たおやかに気を止めることなく流れていた。机の引き出しを開けて、残り少ない真っ直ぐな名刺を取り出す。それを香織は大事そうに、名刺入れではなく、営業用の色あせたバッグの内ポケットに入れた。再び軽さを取り戻し始めた足を規律よく動かし、はず弾み歩く。靴音で奏でるメロディ。香織は凛とした風体をなびかせながら、社外に出た。初夏を感じさせる変わらない陽光は、辺りの群影を溶かし、人々を茫漠然と揺らめかせている。そんな中、香織は歩き続けた。いつか名前だけではなく、自分の存在を覚えて貰うために。その前に自分の存在を意識してくれていた……ように、期待出来る先輩に会うために。

 香織を包む若草色のスーツは、まだまだ新芽の装いを新たにさせるようにビルの谷間へと伸びていく。そんな彼女の姿は遠目から見ても、居並ぶ雑多な人々の中で、確実に存在の輝きを示していた。



2007年の春頃に執筆。再投稿にあたり、多少の加筆を施しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 営業職の苦悩が丁寧に繊細に書かれていました。 それを名刺に重ね合わせるところが良かったです。 まさに「名」小説のテーマにぴったりと沿っていますね。 勿体無いのは、先輩の台詞の”そうゆう細か…
2010/02/20 19:45 退会済み
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