表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

2

   *


 車のウィンドを叩く音がする。ナオがビニール袋を持ち上げてこちらに見せて笑っている。昼の光の下でナオは昨夜の印象とは違って見える。明るい光の下ではどこか不健康そうに見える。ただ、昨夜はどんな顔に見えたかを思い出そうとすると、もう昨夜のナオの印象をはっきりと思い浮かべられない。

「起きたんだね、朝ごはん買ってきたよ。おにぎりとパンでいいでしょ。ちゃんとコーヒーもあるよ」

 ドアを開けてナオが車に入ってくる。若干高揚した調子だった。

「今日は長いドライブだしね。腹ごしらえをせねば」

「ありがとう。気が利くな。金払うよ、いくらだった?」


 食事を済ませた僕らは早速出発した。初めは高速を使うつもりだったが、盗難車であることや僕の手持ちが少なくなってきたことを考え、遠野まで一般道で行くことにした。カーナビが壊れているのか操作の仕方が違うのか上手く起動できず、車のダッシュボードに突っ込まれていた古びた自動車地図を見ながらナオのナビゲートしてもらうことにする。本当にそれで遠野までたどり着けるかという不安もあったが、迷ったら迷ったで構わないとも思った。


   *


 靖国通りから日光街道へ入るとそのまま北上を続ける。台東、荒川、足立と都心から離れるにつれ、建物が低くなり空間が広くなっていく。環七を過ぎ、県境を通り、草加に入る。ナオが草加煎餅を食べたいと言うが、どこかで停車しようかと迷っているうちに、いつの間にか草加を通り過ぎてしまった。

 道は混んでいたが走らないほどではなかった。周りはほとんどが仕事の車だろうか。来年は自分も同じだという考えが頭をよぎるが、すぐに振り払う。今そんなことを考えても仕方ない。


 車の中では、些細なお互いの日常の話をしていた。ナオはポツポツと学校と親の悪口を言った。僕は音楽の話をした。大学に入りたての頃は本当にバンドでデビューしたかったと、自慢にもならない話をした。ナオはそれじゃ自作の曲をアカペラで歌えとからかってきた。そんな恥ずかしいこと出来るわけがない。


 埼玉を過ぎると茨城に入る。日光街道は新利根川橋を渡り、さらに伸びていく。茨城の端を横切ると、栃木である。栃木を進むと、国道四号はいつの間にか陸羽街道と名を変える。しかし、このまま四号を進んでいいのだろうかと疑問がわく。車にあった自動車地図は関東地区のものであり、栃木までしか載っていなかった。ナオは途中で新しくカーナビを買えばとふざけたことを言う。コンビニで地図を買うしかないだろうか。それとも漠然と北へ進んでいけばたどり着けるだろうか。


 国道四号の単調な平野の田舎道に退屈した僕は、途中で道を変えてしまう。盗難カローラは山道を進んでいく。ナオは迷うのではと心配すると思いきや、山道に入っていくことを喜んでいる。


 東京から五、六時間は走ったろうか、腰が疲れてきた僕は栃木北部の川沿いの山道に車を停めた。ナオは車から飛び出すと、田舎田舎とはしゃいで駆け回る。相変わらず大人びているのか子どもなのか分からない女だ。

 ガードレールの横に階段があり、川辺まで下りられるようになっていた。薄暗くなりかけた空の下で僕たちは川へと下りていった。


「ここでいきなり河童が見つかったりしてね」

「そしたらむしろショックだな」


 下まで降りたナオは跳ねるように岩から岩へと飛び移り、水に手が届くところまで行ってしまう。僕は足元を見ながら慎重に彼女の後を追う。

「何してんの。グズ。早くきなよ。水、気持ちいいよ」

 ナオの座っているのっぺりと大きな白い岩までたどり着くと、ナオはもうスニーカーとソックスを脱いで水に足をつけていた。


「冷たくないか?」

「冷たい。だからいい」


 僕もナオのまねをして靴を脱いで足をつけた。思っていたより冷たかった。足を水につけたまま、僕は岩の上に仰向けに横になり体を伸ばした。


 しばらくの沈黙の後、ナオが低い声を出す。


「ねぇ、何で音楽やめたの? 続けないで就職するの?」

「何でって、結局デビューどころか、ろくにメンバーも集められなかったし、他にもっとすごいやつらを見て、駄目だなと思ったのかな」

「本当にそれでよかったの」

「どうだろ、今でもそのうちひょんなことで運が回ってきて、音楽で食べていけるようになるかもなんて思うことがあるんだ。甘い期待だな」

「ねぇ、何のために就職するの? 嫌なんでしょ」

「だから、食べていくためだよ」

「食べていければそれでいいの」

「そんなことないけど、生きていかなきゃいけないだろ」

「それじゃ、何のために生きてる?」


「分からないよ」


「じゃ、何がしたいの? 何をすれば幸せだと思えるの? どんな人生を送ればよかったと思えるの?」


 次第に日が翳ってきた。寝転びながら見上げるナオの横顔にも陰影が浮かび上がっている。


「例えば、一生楽して暮らせれば満足?」

「楽でも退屈で単調な、ただ死ぬのを待つような生活なら苦しいと思う」

「権力を手にすれば満足?」

「権力自体なんて面倒なだけだと思うよ。もし他にやりたいことがあるときには、それが大きなことなら権力が必要なんだろうな、きっと」

「綺麗な女の子とやれれば満足?」

「そのときはね。でも繰り返されればそれにもなれてもっと綺麗な子を探すようになるかもしれない」

「苦しむ人を救えれば満足?」

「自分に余裕があればそう思う。出来れば僕に身近な人々を苦しみから救ってあげたい。でもどうすればいいのか分からないし、僕の助けを必要としているかも分からない。そして今の僕に誰かを助けられるほどの余裕があるかも分からない」

「自分の能力が社会的に認められたら満足?」

「もし能力があるなら、認められるよりもそれを自由に使いたい。社会には認められるよりも正当に評価されたい。過大にでもなく過小にでもなく。でも認められることそれ自体が目的じゃないよ」

「神様に愛されれば満足?」

「僕にはそんなこと無意味だよ。それがいいことなのか悪いことなのかは分からないけれど、今の僕にはそんなこと無意味だよ」

「世の中をよりよく変えられたら満足?」

「もし社会のシステムが悪いなら、それを直すことが目的ではなく、よりよくなった社会で生きることが目的になるんだと思う。でも、よりよく生きるということが分からない」

「誰かと心から分かり合えたら満足?」

「それは幸せなことかもしれない。でもそんなこと起こらないよ。そしてもし仮にそうなったとしてもひょっとするとそのときから一人から二人に枠が広がるだけで悲しみも不安も羞恥も変らないのかもしれない」

「じゃ、眠るように苦しまずに死ねたら満足?」

「そうかもしれない」


「なんだ、死にたいの?」


「いや、死にたくないよ」


「それじゃ全然分かんないよ」

「僕にも分からないよ」

「ねぇ、人生って楽しいものなの? 苦しいものなの?」


 しばらく黙り込んだ僕の答えを待たずに、ナオは立ち上がり、スニーカーを片手に裸足のまま岩の上を駆けていった。僕も水から足を抜き、暗闇の中で岩から岩へ飛び階段へ戻っていくナオの後姿を見ていた。何だか喋りすぎた。ゆっくりと羞恥心で全身が染まる。青臭い、感傷的だ。自分のメンタルの弱さが腹立たしい。小娘に唆されたからだ。後ろから石でもぶつけてやろうか。


   *


 車に戻る頃にはすっかり体が冷えていた。ナオはTシャツ一枚で寒そうだった。僕は車の後部座席やトランクに何か着るものでもないかと探した。タオルケットが一枚出てきた。


「嫌だよ、こんなの。汚いじゃん」

「仕方ないだろ、そのままだと風邪引くぞ」

「風邪ひくほうがマシ」


 僕はナオが使わないというので仕方なく、タオルケットを後部座席に投げて、エンジンをかけた。車が走り出し、少ししてからナオは後ろに手を伸ばしてそれを取って肩から羽織った。皮肉の一つも言ってやろうと思ったが、やめにした。不機嫌そうにタオルに包まるナオの姿もそれはそれで可愛らしかったからだ。

 車は道に迷ったらしかった。次第に山へと入っていく。対向車もほとんど通らない。暗い夜道にヘッドライトがぽっと浮かび、道の山側からは圧し掛かるように木の枝が垂れ下がって影を作っていた。


 僕は車を停めた。

「駄目だ、疲れたよ。今日はここで車の中で寝よう」

「まだ九時前だよ」

「運転はもう無理」


 僕は付け忘れていたラジオを付けた。静かな曲が聞きたいと思ってチャンネルを回したが、どこの局にも静かな曲はかかっていなかった。やはり今度どこかの町に入ったら自分でCDを買おうと思った。一番DJらしくない喋り方のパーソナリティのチャンネルでとめた。

 ナオはドアを開けて外に出て行った。僕は追いかけずに、車の中からそれを見ていた。何がしたいのか、うろうろと暗い傾斜のある山の道を登ったり降りたり、走ったり歩いたりを繰り返していた。ヘッドライトがついていなければ、その姿を追うことはできないだろうと思われるほど、田舎の夜は暗かった。

 僕はしばらくそんなナオを見ていたが、ライトを消してエンジンを切り、シートを倒して横になった。ラジオの音も消えて本当に静かになった。


 ゆっくりと目を閉じると一日の疲れが体中に広がっていき、それに応じて下半身がじんわりと熱くなっていく。ドアの開く音がした。冷たい空気が一瞬流れ込んで消えた。ナオの気配がすぐ横にした。シートを倒す音が聞こえた。

 僕は目を開けて上半身を起こした。ナオはシートに仰向けになり僕を見上げていた。ゆっくりとナオに体を近づけて、覆いかぶさるようにナオの上にのしかかった。彼女の体がこわばるのを感じた。


「え、ちょっと」


 そう呟いた彼女の口を僕は自分の口でふさいだ。硬くなった股間を彼女の大腿部に押し付けながら、僕は顔中にキスをした。


「ちょっと、ホントに待って」


 僕は彼女の肩の下に手を回して抱こうとした。


「やめろって言ってるだろ」


 強い力で彼女が僕を下から押しのけた。予想外の強い力に僕はどう言葉を口にしていいか分からず、ナオの上に馬乗りになったまま、彼女を見下ろした。


「早く、どけよ。あんた何考えてるんだよ。やるためにあたしをここまで連れてきたのか? ガッカリした」


 僕は無言で彼女の上から降りて自分のシートに戻った。予想外の反応だった。最初にナオが「待って」と言ったのは本心ではなく、拒絶されているとは思っていなかった。そして、そう思わなかった自分にも驚いていた。なぜ僕は、当然彼女とセックス出来ると思っていたのだろう。ナオが自分を好きでついてきたと考えていたのだろうか。それともナオのことを誰にでもさせる子だと思っていたのだろうか。どちらにしろ、ひどい傲慢だ。僕はナオがどう思っているかなんてちっとも考えていなかった。何てみっともないヤツなんだろう。そしてやらせてくれなかった女に男はどうやって対応したらよいのだろう。

 ナオは隣のシートで横になったまま何も言わない。その沈黙が重苦しい気まずい雰囲気を停滞させる。何か言おうと思う、謝ればいいのだろうか。どう謝ればいいのだろう。

 あぁ、嫌だ、ここから逃げたい。でもここは栃木の山奥で車から逃げても行くところがない。おまけに外は寒いし。このまま、黙って何も言わずに眠れば明日の朝は何事もなかったみたいにすごせるだろうか。

 そしてやらせてもらえなかったくらいで、くよくよしている自分も嫌だ。ちぇっ、ついてねぇなと笑い飛ばせ、そうやってみんなセックスの恥を忘れて生きていくんだ。

 いっそのこともう一回力ずくでやってしまったほうがマシだろうか? 何を言っているんだ、ますますナオのことを考えていないじゃないか。

 そもそもナオは何で僕について来たのだろう、それがさっぱり分からない。この子は何を考えているのだろう。それより今彼女は黙って何を考えているのだろう。外が寒くさえなければ、このままドアを開けて走って逃げたい。

 大したことない、大した恥じゃない、笑ってごまかせることだ、大したことじゃない。


 ふとナオの気配が近づいてきたことに気がついた。彼女の手が僕のズボンに伸びるのが暗い中でも分かった。ナオはベルトを外してジッパーを下げた。ナオの手が僕のペニスに触れる。僕が気がつく前からペニスは反応している。


「ごめんね。別にあんたが嫌いとかそんなんじゃないんだよ。ただちょっと驚いたんだ。今日はこれで我慢してね」


 彼女の口の中の温かさがじんわりと伝わってきた。唾液に濡れた部分が冷たかった。


   *


 ナオのおかげで次の日の朝も気まずい思いをせずにすんだ。結局彼女の方が大人だったのだ。朝飯を買って置けばよかったと話しながら車を動かす。時間は九時過ぎだった。ナオは大きな口で欠伸をしている。なぜかクネクネとしている。寝ぼけているのだろうか。

 昨日のお礼を言いたかった。しかし「昨日はフェラチオしてくれてありがとう」と朝の光を浴びながら爽やかに言うのはどうも変な感じだった。だから、僕はただ信号で止まるたびに彼女の方を向いて、まだうとうとしているナオの横顔を眺めるだけだった。


 道はよく分からなかったが、ただ北へと向かう。山道を下り始めると、少しずつ住宅が見え始める。コンビニを探しながら走っていく。


   *


 結局コンビニを見つけたのは国道294号に出てからだった。もう福島に入っている。

 車から出ると朝の空気がやたらに冷たい。コンビニに入ると、まずATMで金を下ろした。そして朝食を選んだ。ナオはヨーグルトとパンを買っていた。僕はチョコレートとカロリーメイトを選んだ。そして東北の自動車地図を買った。

 店内をうろうろとしているとフリースがあるのに気がついた。Tシャツ姿のナオのためにこれも買ってあげることにした。ナオは色が嫌だと言っていたが、しぶしぶ承諾した。自分で金を払うわけでもないのに生意気なやつだ。

 しかし、外に出て着させてみると確かに彼女の言うとおり、水色のフリースはあまりナオに似合わなかった。

 車に入りカロリーメイトをかじりながら地図を見ると、どうやらもう猪苗代湖の近くまで来ているようだった。


   *


 昨日の運転の疲れが軽く残っている感じだった。それはナオも同じかもしれない。二人ともドライブに飽きてきたみたいだった。猪苗代湖は大きかった。車の窓から見える湖の景色をナオは大袈裟に喜んで見ていた。その喜び方は少しだけ無理をしているような感じがした。本当は案外気を遣う子なのかもしれない。

 そう思った僕は、高速に乗ろうと思った。随分遠くまで来た、そんなにすぐには盗難車だとばれないだろう。金は下ろしたから余裕がある。どうせ東京に帰ってもろくなことで使わないから惜しくもない。東京に帰っても、というところを僕はもう一度心の中で反芻した。この変なドライブを始めてから帰ることを考えたのは初めてだった。


 ナオが喜んでいるので最後まで猪苗代湖の横を通ることにして、それを過ぎるころちょうど正面に現れる磐越自動車道に乗った。高速に乗るのも久しぶりだった。


 磐越自動車道を東北自動車道に乗り継ぐ。疲れのせいか、高速では二人とも無口だ。

 


 途中、仙台を少し過ぎたあたりの鶴巣パーキング・エリアで休憩を取る。PAの食堂のうどんをすすってソフトクリームを食べた。


 大学生くらいの男女が十人ほどたむろしているのを横目で見ながらトイレに入る。トイレの中まで騒ぐ声が聞こえてくる。不愉快な気分になってきた。なぜ若者の集団を見るのが嫌いなのだろう。それが単に羨ましいだけであれば、今の僕は可愛い女の子を連れて歩いているんだから、別にひけ目を感じる必要はない。

 しかし、彼らの声を聞きながら、何かが僕の人生からは欠けている、何かが僕の人生を通り過ぎて行ってしまっているという気持ちを否定することは出来なかった。それは何だろうか、恋愛? 友情? 青春? どれも人並みに経験してきた気がする。それではそれ以外の何か? 何だろうか。河童か? やっぱり河童なのか?

 疲れてきて思考が次第に覚束なくなって来ている。僕は何を言っているんだろう。とくに用は済んでいるのになぜ便器の前にずっと突っ立って考えごとをしているのだろう。



 トイレから出るとナオが行ったり来たり妙なステップを踏みながら待っている。ムーン・ウォークなのか。僕はチラッとその若者たちの集団に目をやる。やっぱり、そこにいた女の子よりナオの方がずっといい。



 車に戻ると僕は疲れたと言って少しだけパーキング・エリアの駐車場で昼寝をする。ナオも一緒に寝ようとしていたが、やっぱり眠くないと車を出て行ってしまう。僕はナオがいなくなるとすぐに眠りについた。どうせ急ぐ旅ではない、遠野に着くのが何時になったとしてもかまわない。

 少しのつもりが起きるともう二時間も過ぎていた。目が覚めるとナオが助手席から僕を見ているのに気がついた。


「寝顔を見るな、寝顔を」

「馬鹿面」


   *


 宮城から岩手に出るともうすぐだった。道も空いていた。北上で高速を降りると、釜石街道へ出た。田舎の道だった。すでに夕焼けになり始めている東北の田舎道を僕らは遠野へ急いだ。しかし、イメージよりも奥深い感じがしない。平野である。


「河童ってどうやって見つけるの?」

「河や沼に唾を吐いて、もし吐いた唾がなかなか消えないなら河童はいないけれど、すぐに四方八方に散っちゃったときには河童が近いっていう証拠なんだって」

「あんたそれ、本気で信じてるの?」

「いや、あの、わりとね」

「それだけ?」

「あと、水がぬるぬるしてたら怪しいらしいね」

「いやだ~、水がぬるぬるしてる沼なんて行きたくない」


 うるさいやつだ、河童を捕まえられるなら、ぬるぬるだってどろどろだってそれがどうしたというのだ。大体この女はついて来たわりに河童のすごさをちっとも分かっていない。


「河童はなぁ、尻の穴が三つあるんだぞ」

「え、マジ? すげえ」


   *


 遠野に着いたのは、もう六時過ぎだった。周りも暗くなっていた。宿を見つけて今晩は休むことにしようと言うとナオは不満そうな顔をする。

「だって、河童探すの夜のがいいんじゃないの?」

「馬鹿だな、こいつは。河童の恐さを知らないからそんなこと言えるんだ。河童の駒引きっていうほど、馬を河へ引きずり込んじゃうくらいの力持ちなんだぞ。それを迂闊に夜中に近づいていったら返り討ちにあうに決まってるだろ」

「はいはい」


 遠野は小さな村だった。そう、村と呼びたいような場所だった。夕闇ではっきりとは分からないが、広い平坦な田んぼや畑の続く、盆地だった。僕が当初イメージしていた山の奥深い草木が生い茂って前も見えないような場所とは違っていた。こんなに平坦で高い建物もなにもないところでは、日中になれば恐ろしく見通しがよくて一キロ先でも見えるのではないだろうか。こんなところで河童の隠れる場所などあるだろうか。


 とりあえずJRの駅まで車を走らせ、そこの観光案内所で泊まれるところを探してもらった。駅も田舎の小さな駅だ。そして思った以上に観光化されていない。観光案内所のおばさんは丁寧に旅館に電話までして空いているか調べてくれた。


 駅からあまり遠くない場所にある旅館が一軒泊まれることが分かり、僕らはそこへ向かった。


   *


 これまた小さな旅館だった。あまり愛想のよくないおばさんが部屋まで案内してくれる。


 板張りの廊下を歩いている途中で、ふと、昨日の夜あそこまで行ったんだから、当然今夜は何とかなるのではという考えが頭に浮かんだ。とりあえず、横を歩いているナオの黒いジャージの腰から腿にかけて、そして白くはりのある脹脛を眺めてみる。

 それに気がついたナオは眉をひそめ、何なの、というような不信そうな顔をする。


 案内された部屋はかび臭く汚い和室だった。嫌な予感がした。昔からかび臭いところは苦手だった。心なしか呼吸が荒くなっている。子どもの頃、旅行先でかび臭い部屋の汚い布団で寝るたびに喘息の発作を起こして親に心配をかけていた。東京に出てからも出来るだけ空気の汚いところで寝ることは避けていた。普段はすっかり忘れているが、こういうときに自分がそれほど健康でないことを思い出して嫌になる。そして、体が弱いことが恥ずかしかった。この旅館汚いからやめようと言い出したかったが、ナオに向かってそんな情けないことを言うのが嫌だった。

 きっと大丈夫だろう、喘息の発作など起きない。こういうのは気のものである。平気だと思っていれば、平気に違いない。具合が悪くなりそうだと心配しているから、実際に具合が悪くなってしまう。


「今は何考えてるの?」

「汚い部屋だなって思って」

「あんた、何でそう日に何べんもぼけっとしてるの、全く何やってんだか」


 食事がお膳に載せられて運ばれてきた。何の変哲もない旅館の料理だった。どちらかというと味付けも大雑把だった。しかし、ちゃんとした夕食をとったのは久しぶりだったので、その意味では満足感はあった。

 ナオはビールをぐびぐびと飲んだ。そして僕にも勧めてきた。酒好きなやつだった。僕は体調が悪くなりそうなときにアルコールを取ると、肺が圧迫されたような気がしてよくないのでやめようと思ったが、ナオに笑って瓶を差し出されるとどうも断れない。

 ナオは酔ったときのちょっとした上目遣いになる顔が一番可愛いなと思った。しかし、今夜どうにかできるだけの体力が僕にあるのだろうか。どうか、発作が起きませんようにとビールを飲みながら思った。


 食事を終えるとそれぞれ風呂に入った。小さな風呂だったし、温泉でもなかったが、気持ちがよかった。しかし、風呂上りにはさらに息が上がってきていた。血中の酸素が少なくなって来ているせいだろうか、体が少し重い。


 浴衣姿で廊下をぷらぷらと歩いて部屋に戻ると布団がひいてある。この布団がまた予想通り汚かった。分かっていたとはいえ、めげる。とりあえず、布団には入らずコップに水を入れて、畳に座りテレビを見ながら飲んだ。


 ナオが帰ってきた。浴衣の襟元から白い肌が赤く染まっているのが分かった。しかもいい匂いだ。ナオはぺたんと正座を崩した形で布団の上に座り込む。

「何か、逃避行って感じだね、ははっ、楽しくなってきたな」

 赤いのは湯上りだからだけではなく、アルコールが残っているからかもしれない。ナオは妙に機嫌がよかった。浴衣から顔を出す足の裏が小さく子どものようだった。

 卓球をやりたいとナオは騒いだが、フロントに電話してみると、この旅館には置いていないらしかった。電話をせずとも、ないだろうと思っていたが。


   *


 しばらく二人でテレビを見て、ドラマにケチをつけていたが、十一時になるともう寝ることにした。ナオはつまらなそうな顔をしたが、他にすることもない。


 電気を消して汚い布団に潜り込んだ。真っ暗は嫌だと、ナオは起き上がって玄関の照明をつけた。オレンジの光がぼんやりと部屋を照らした。その歳で暗いのが恐いのかと馬鹿にすると、恐いのはあんたがだよと返された。やっぱり彼女にその気はまったくないらしいと思い、むしろ気が楽になった。僕の呼吸はさらに荒くなっていた。静かにしていると、ナオに呼吸音を聞き取られそうで恐かった。

 ナオは彼女がいるのかと聞いてきた。いないと答えた。そして、女の子からそう聞かれたら、いるときでもいないって答えることに二十歳の頃から決めていると付け足した。しかし、自分では気の利いたことを言ったと思ったが、ナオにはあっさり流されてしまった。


 それじゃ、今まで付き合っていた女の子の話をしてくれとせがんできた。しかし、次第に話す元気がなくなってきた。ナオに呼吸音を悟られないようにするので精一杯だった。肩で呼吸をするようになっていた。そっと息を殺して、そしてもう寝ようよと言った。


 しばらく静かな時間が続いた。僕は眠れなかった。荒い呼吸がなかなかおさまらないためそれどころではなかった。やはり布団がよくないのだろうか。早く眠りにつきたかった。具合が悪くなりそうなことを忘れて眠りにつきたかった。


 ふと僕の布団の一部が動いた。ナオの手が入り込んできていた。少し驚いて横を見るとナオは仰向けで目を瞑っている。ナオの手は一度腹の辺りまで来てぶつかり引き換えして、腕を探し当て、僕の手を握った。僕はそのままにしておくわけにはいかないと思い握り返した。もし元気なときならと悔やまれた。

 ナオの押し殺した恥ずかしそうな楽しそうな小さな声がする。


 このまま握ってていい? 安心するの


 ちくしょう、何だろう、こんなに嬉しい状況なのに僕の体はなぜいうことを聞かないんだろう。

 声を出したら咳が出そうだった。代わりにもう一度ぎゅっと握り返した。


 またしばらく静かな時間が続いた。呼吸はますます乱れた。日常生活で自分の呼吸を意識することはまずない。しかし、喘息の発作が起きると嫌でも一回一回の呼吸を意識せざるをえなくなる。一回の呼吸に高い階段を一段上がるような体力を使う。そのため百回呼吸をすることは、百段の階段を上ることであり、呼吸自体で激しく体力を消耗する。そして呼吸で消耗した体に酸素を補給させる方法を呼吸をすること以外に知らない。人間に呼吸などなければいいのにと思う。


 寝ていられない。僕は上半身を起こした。寝ているよりも起きているほうが少しは楽だった。布団の上に胡坐をかき、ナオの手を放し両手をついて体を支える。そうしなければ、体を起こしておくことが出来ないほど消耗していた。布団の両腕を立てて肩で呼吸をするため、体が大きく上下に動いた。オレンジの光に映る僕の影も上下に動いた。

 もう呼吸音を殺していられなかった。喘息特有の濁った呼吸音が部屋中に不気味に響いた。昔家族はこの音を「ひゅーひゅー」と呼んでいた。おい、リュウがまた「ひゅーひゅー」いってるぞ、そう大声で母を呼ぶ父の声を思い出した。


 ねぇ、どうしたの? 大丈夫?


 ナオの声が聞こえた。何か言い訳をしたかった。しかし、まともに喋れるような状態ではなかった。ナオの声は続いていた。不安そうな、興奮したような声だった。それが耳障りだった。


 何、何なの、病気? どうすればいいの?


 うるさかった、呼吸に集中させて欲しい。呼吸に集中しなければ。自分で自分の呼吸を数えよう。十まで数えたら、もう一回一からだ。吸うときに腹を膨らませ、吐くときには引っ込める。腹式呼吸をするんだ。吸うのは短く、吐くときに長く、ゆっくりゆっくり空気を吐き出す。子どもの頃病院でぽっちゃりとした看護婦にならった発作のときの呼吸法を思い出していた。


 宿の人呼ぼうか? ねぇ、何とか言ってよ、あたしどうすればいいの、ねぇ


 ナオの声が耳に脳を裂くように響く。ナオは立ち上がって部屋の電気をつける。不意に襲ったまぶしさで目を閉じる。環境を変えないでくれ、静かにしておいてくれ。発作のとき、もっと意識が混濁していればいいと思う。しかし実際は、平静のとき以上に意識や感覚は冴えていく。肉体の憔悴と反比例するかのように、精神ばかりが研ぎ澄まされていく。思考は苦しみながら脳内を走る。どうすればいい、どうすれば楽になる。


 ナオが覗き込んでくる。


 ねぇ、何とか言ってよ、心配してるんだよ、救急車呼ぶ? 何かしてほしい?


 ナオの手が僕の肩に触れる。そこから苦痛が広がるような気がした。

 子どもの頃も発作を起こしたときに周りのクラスメイトに囲まれて過剰に心配されるのが嫌で仕方なかった。自分が見世物のように感じられた。そして、僕に世話を焼こうとする何人かの同級生は、弱いものを救ってやるという正しい行いのために生き生きとした顔をして保健の先生を呼びに行ったり水を持ってきたりした。彼らの行為が僕のためというより、自分は正しい人間だという気持ちを満足させるためのように感じられて僕は屈辱感を発作の苦痛の中で味わった。

 俺は誰にも同情されたくない、俺は誰にも奇妙な弱い生き物だと見下されたくない。屈辱を味わうなら、一人で死んだほうがマシだ。

 そう何度も考えていた。でもまだ生きている。


 僕は肩に乗ったナオの手を振りほどいた。その動作のためにいっそう苦しくなる。こんな体捨ててしまいたい。体がなければもっと楽になれる。人間はなぜこんな不便で邪魔ばかりする体に縛り付けられていなくてはならないのだろう。精神だけが体を抜けていくイメージを何度も頭で思い描いてみた。そのたびナオの声で肉体に引き戻される。


 あたしどうしたらいいのよ? ねぇ、あんた何なの? 変な病気持ちなの?


 あぁ、うるさい、ナオの声はまるで蝿のようだ。ナオは立ったり、座って僕の顔を覗き込んだりを繰り返して、おろおろと動き回る。


 ねぇ、医者に行ったほうがいいんじゃないの、動けるの、ねぇ、救急車呼ぶの? 薬とか持ってないの?


 ナオは僕の両肩を掴んで前後に揺すった。ナオの体が飛んだ。僕はナオを殴っていた。最後の力を振り絞ってと言ってよかった。僕は拳を握ったまま再び布団についた。そしてそのまま前に倒れた。体の力はもう残っていないようだった。呼吸をすることはいよいよ耐え難くなっていった。力が残っていなくても、呼吸をやめることはできない。呼吸をやめることは死である。それが楽なものであればいいかもしれない。しかし、呼吸をやめることで苦痛はなくなりはしない。このまま酸欠で死を迎えるとすればそれまでにどれだけの苦しみを味合わなければならないのか。

 力がなくなっても、呼吸をやめることが出来ない。ゴールも見えずリタイヤすることも許されない、血を吐くようなマラソンだった。


 目をつぶって胡坐をかいたままうつ伏せで布団に倒れる僕は、拳を握ってもがくように布団を叩く。その拳にも力が入らない。


 考えろ、考えろ、しっかり考えろ、冷静に考えろ。苦しむことばかりを意識するな。意識すればなおさら苦しみが増す。それよりもどうすればよいか考えろ。


 布団がいけない。もう一年以上も起こっていなかった喘息の発作が起こったのは、この部屋と布団のかび臭さが原因ではなかったのか。布団の上に突っ伏していたのでは悪くなる一方だ。まず、布団から離れろ。


 歯を食いしばり上体を起こした。ナオは見当たらなかった。立ち上がる力はなかったが、両手を前に出して乳児のように布団から這い出した。


 トイレだ。トイレはほこりが舞っていないしダニもいない、水が飲める。


 僕は数歩這い進んでは休み、数歩這い進んでは休みを繰り返しながら少しずつトイレに向かった。

 小学校の頃も発作を起こすたびに、トイレに隠れておさまるのを密かに待った。そしてトイレの個室の誰もいない狭く静かな空間が、僕を守ってくれるようで安心できた。発作になると思い出すのは子どもの頃の話ばかりだ。今では苦しくなるのは年に何度もあることではないが、小学校低学年の頃は毎週のように激しい発作を起こして、年に何度も入院していた。そんなことを普段はさっぱり忘れている。発作のときに何を考えていたなど、全く思い出さない。しかし、こうして激しい発作に見舞われるとやはり思い出すのは、苦しんでいた小さな僕のことだった。


 トイレは部屋に備え付けられていなかった。廊下に出なければならない。僕は静かに静かに膝に手をついて立ち上がる。ドアは開いていた。ナオが開けたのかもしれなかった。僕は廊下へ出た。


 壁をつたいながら歩いていった。何度となく立ち止まる、遅い歩みだった。廊下の空気は冷たい。しかし、汚れた僕の肺にはかえってその方が澄んでいるように感じられた。


 もうすぐトイレだ。発作でいつも苦しんでいた小さな僕がそこから学んだことが二つだけあった。

 一つは他人はどんに優しい人でもどんなに親しい人でも自分の苦しみを代わってはくれないし、自分もどんなに愛している人の苦しみも代わってあげることはできないということ。

 そしてもう一つはなぜ生きているのかと自分に問いかけることだった。

 苦しみながら小さな僕は、なぜ苦しむのかと考えた。なぜ生きているのかと考えた。小さな馬鹿な頭で考えていた。もし生きている意味が何もないなら、どうして苦しむ必要があるのだろう。

 大人になればその答えが分かるような気がしていた。大人になればもっとはっきりとなぜだと言えると思っていた。小さな僕は大人の僕に期待をしていた。


 トイレにつくとすぐに洗面台の前に突っ伏した。そして置いてあったプラスチックのコップに水を汲んで飲んだ。一気には飲む力がなかったので、少しずつ息を整えながら飲んだ。

 そして洋式便所を見つけると、便座の上に座りドアを閉めた。僕だけの世界のために鍵を閉めた。


   *


 気がつくと朝だった。トイレで眠っていたらしい。呼吸は大分緩やかになっていた。いつ眠ったのか覚えていない。トイレに入ってからも一時間は苦しんでいただろうか。しかし、次第に落ち着いていって自然に眠りについたらしい。発作による体力の消耗が激しい。体中に脱力感がある。

 立ち上がり、ドアを開けた。洗面台で水をまた一杯飲むと廊下へ出た。僕の部屋のドアは開け放したままだった。それを考えると、朝だと思っていたがそれほど遅くはないらしい。六時頃だろうか。時間の感覚が分からない。

 開いたドアを見て急にナオのことを思い出した。彼女はどうしただろうか。彼女を殴った記憶が浮かび上がってきた。ドアが開いているということはナオは部屋に戻っていないのだろうか。

 部屋に入ると、電気もつけたままである。僕が部屋を出たときのままらしい。ナオはどこへ行ったのだろう。畳んでおいてあったはずのナオの服がないのに気がついた。いなくなったのだ。僕は浴衣を脱ぎ、自分の洋服に着替えた。そして部屋の空気を綺麗にするために障子と窓を開けた。


   *


 一人で食堂で朝食をとっていると、宿のおばさんにお連れさんはどうしたと聞かれた。具合が悪いみたいですとごまかしておいた。生卵が美味しかった。

 ナオは待っても帰ってこないだろう。もし帰るつもりなら、もう帰っているはずである。必要以上にこの宿に長居をする意味はないと思えた。


 食事を済ませるとすぐに荷物を片付けてチェックアウトをした。片付けるほどの荷物もなかったが。まだ九時半前だった。


 車に乗り。ぶらぶらと遠野を走った。見通しがいい、だだっぴろい本当に何もない田舎だった。淋しくなるほど何もない。

 僕は少し走ると自動販売機を見つけ、そこの前に路上駐車をした。どうせ車もほとんど走らない。

 最初、缶コーヒーを買おうと思ったがこれから昼寝をしようと考えを変えて、熱いお茶を買う。車に戻り、シートをやや倒して、横になった。

 ナオは福島で買ったフリースしか着ていない。それなのに東北の寒いの夜に飛び出して行って、一晩どうしたのだろうか。田舎道をただ彷徨っていたのだろうか、そして始発で東京へ帰ったのだろうか。それとも他の旅館に泊まったのだろうか、いや、すでにあのとき十一時は回っていたと思う。そんな遅くまで玄関を開けている宿がここにあるとは思えない。

 今頃どうしているのだろう。


 わずかに呼吸に抵抗が残っていた。目をゆっくりと閉じる。まだ開けていない緑茶の缶を両手で握る。もうすぐ鬱がやってくるだろう。体力が戻ったら、強い鬱がやってくるだろう。考えたくない、ナオとのことも遠野に来たことも、発作のことも、すっかり僕の人生から切り取りたい。なかったことにしよう、考えないことにしよう。

 頭をふって目を開ける。そしてカーラジオをつけて、ペットボトルを開けた。緑茶を飲みながらチャンネルを回すと、桂枝雀の声が聞こえてきた。今はこんなのがいい。枝雀はお茶漬けを食べる閻魔大王の話をしていた。僕はぐっと緑茶を飲み干して、それを聴きながら眠りについた。


   *


 気がつくと不安だった。不安で目が覚める、そんな感じであった。激しく動揺しているのが分かった。また眠ろうと思った。目を瞑った。呼吸が小さく震えた。じっとしていられない。寒いのか恐いのか、悪寒が走ってくる。

 いたたまれず、シートをあげてエンジンをかけた。車は走り出した。どこへ向かうのかも分からない。色々なことを頭から放り出したい。ナオのことがむやみに僕の心を揺さぶってくる。整理しよう、落ち着こう。何が不安なのだろう、何が憂鬱にさせるのだろう。車の時計を見るともう三時だった。随分眠ったらしい。ナオがいなくなったことがつらいのだろうか、一人になったことがつらいのだろうか。

 不安なときはいつも理由なんて分からない。ただ不安なだけだった。車の中でさえもじっとしていることがきつかった。


 遠野の村外れまで飛ばした僕はそこで車を降りた。これ以上座っていることが嫌だった。こういうときは歩くのが一番いい。肉体的な苦しみと精神的な苦しみ、秤にかけるとどちらがマシなのだろう。ナオに会いたい。謝りたい。僕はナオと何をするつもりだったのだろうか。彼女と何をしたかったのだろうか。

 田舎道を歩く、早足で歩く。途中で何度も道に座り込んでしまう。こんな憂鬱は味わいたくない。味わわずに生きていく方法がどこかにあるのではないだろうか。なぜ僕はこんなに恐がっているのだろう。道に座り込んでも、しばらくするとまたじっとしていることが不安になる。そうすればまた歩くしかない。

 僕は荒れた林の方へ入っていった。こんな姿を他人に見られたくなかったからだった。昔は使われていたが最近では通る人がいないのか、それとも獣道なのか、整備されていない草木が生い茂る道を歩いた。口の中が乾いてきた。唾液を出すことが上手くできなかった。

 僕はナオに何を求めていたのだろうか。なぜナオがいなくなっただけでこんなに憂鬱に襲われているのだろうか。もともと、ナオと旅に出たのは憂鬱から逃げたいためだったかもしれない。ナオは僕を憂鬱から食い止めてくれていたのかもしれない。僕はそれを自分の手で台無しにしてしまった。

 林が奥深くなり、もう畑も民家も見えなくなった。あたりはすっかり山道のようだった。道まで占拠しようとしている草を掻き分けて僕は歩く、歩くのが遅いから鬱に追いつかれるのだ。早く歩け、早く歩け、誰にも何にも追いつかれないように歩くんだ。

 声を上げたかったが、口の中が乾燥しているため、喋ることも出来なかった。

 歩きながら、顔や体にまとわりついてくる葉っぱを強く掴み引き抜いた。そして手についた草を後ろへ放り投げる。

 ナオは何も悪くなかった。ただ僕を心配してくれただけだった。僕はナオに感謝するべきであったのに、暴力をふるった。彼女はどんな悲しみで旅館を去ったのだろう。そうだ、彼女はなぜ僕についてきたのか、それさえ僕は把握していなかった。何も彼女のことを考えていなかった。

 河童なんてどうでもいい。それは最初からそうだった。僕が河童を探しに来たのは、どうでもいいことがしたいからではなくて、ナオと何かをしたかったからかもしれない。僕は誰かと何かをするために生きているのだろうか。それが破れたからこんなに不安なのだろうか。

 何を言っているんだ、馬鹿馬鹿しい、そんなことのために生きてきたんじゃない。お前は淋しがることを憎んでいたじゃないか。


 お前の人生の中で、最も美しいと思える瞬間は、そのために生きていてもいいと束の間思えるような瞬間は、いつだって一人のときにやってきたじゃないか。

 お前はその言葉に出来ない瞬間のために音楽をはじめたんじゃなかったのか。どんどん分からなくなっていく。本当に、そのために生きていてもいいと思える瞬間が、僕の人生にあったのだろうか。その遠く美しい記憶は僕の頭の中にまだ残っているのだろうか。


 立ち止まって側の草を掴み一気に引き抜く。そうだ、草を抜こう、葉っぱを毟ろう。前の彼女と別れたときだって、夜中に近所の公園中の草を毟りまくって気を静めた。草を毟ると楽になるんだ。僕はしゃがみ込んだ。根っこの太い草は葉を毟ろう。根本から引き抜けそうな草は両手で引き抜いてやろう。草を毟る一帯を決めて、そこから始めよう、その一帯を裸にしよう。そして少しずつ、その範囲を広げる、気が済むまで毟り続けるんだ。何も考えずに。


   *


 僕はどんどん草を毟っていった。最初は力任せに感情をぶつけるように毟っていたが、慣れてくると次第にこつがつかめて力の入れ具合が分かって効率的に毟れるようになっていく。一回一回に力をぶつけるのではなく、次第に毟るスピードと量に熱中しだす。ナオの影はそれでもつきまとう。しかし何もしていないよりは全然マシだった。手が黒く汚れところどころに擦り傷ができる。無心になれ、集中しろと僕は草を毟り続ける。あたりには僕の毟った葉っぱが散乱する。


   *


 涙がこぼれていた。気がつくと僕は草を握り締めて泣いていた。多分よい兆候なのだろう。感情が内に篭もるのではなく、外に向かって流れ出している。声も漏れてきた。涙が流れると同時に、口の中まで水分が戻ってきた。人間は涙を一体どれほど持っているのだろう、涙が枯れるということは本当にあるのだろうか。僕は際限なくあふれてくる涙を懐かしいと感じていた。こんなに泣いたのはいつ以来だろう。まだ自分がこんなに泣けることが不思議だった。


   *


 疲れ果てた僕は、次第に草毟りを労働だと感じるようになっていた。まだこんなに生えている。あれだけやったのにこれしか毟れていない。休みたくなってきた。僕は自分の毟った葉っぱであふれる地面の上に座り込んだ。不安は和らいで、肉体の疲労が残っていた。


 休むと手のひらにできた無数の傷が沁みてきた。もう十分だろう、もう遠野で僕がすることはない。東京に帰ろう。


 日は暮れかけている。早く車まで戻らなければ、道が分からなくなる。

 僕は立ち上がって手の汚れを払い、振り返って歩き出した。急ぎ足で車を目指した。部屋に戻ろう。帰ってゆっくりと体を休めよう。


 帰り道は長かった。なぜこんなに歩いてきたのかと往きの自分が恨めしかった。それにしても河童なんて全然いないじゃないか。それともナオは河童にさらわれたのかもしれない。河童の花嫁になってしまった娘は河の中へ引きずり込まれる。ナオのあの白い肌の上を水かきのついた河童の手がぺたりぺたりと這い回る。いや、ひょっとするとナオが河童だったのかもしれない。河童、河童。


 東京に戻って、ガソリンを満タンにして車を第二京浜に停めておけば、許してくれるだろうか。そのまま乗り捨てるよりもその方が印象がいいに違いないだろう。ついでにダッシュボードに、お詫びのチョコレートでも置いておこうか。


 そうだ、家に帰ったら、返さなければいけないDVDがあった。一週間レンタルで借りたのは英文学の授業のあった日だから、確か先週の木曜だった。延滞をしなくても間に合う。大学はどのくらいさぼったのだろう。三日くらいか。恐らく何の支障もないに違いない。大学に行って知り合いにあったとして、僕は旅行帰りだからえらく懐かしい気分になる、でも多分彼らはただ、三日だか五日だか会わなかっただけであるから、平然とした顔をしているのだろう。そしてそのことで少しだけ僕は淋しくなる。携帯端末を家に置きっぱなしだった。着信履歴には何件入っているのだろう。一件も入っていなかったら、淋しいかな。


 へとへとになりながら、ようやく車にたどり着いたときには辺りはもう真っ暗だった。危ないところだった。もう少し遅ければ完全に迷っていた。


 僕は車のエンジンがかけっぱなしであることに気がついた。バッテリーは大丈夫であろうか。慌てて鍵もかけられてないドアを開けた。


 ドアが開くとメロディが流れ出した。ピアノだった。ふいをつかれて動きが止まってしまう。ラジオだった。ピアノの音は無防備だった僕の脳に染み込んでいった。僕はゆっくりとシートに腰をかけた。ベートーヴェンだろうか、聞いたことのあるソナタだった。目を閉じるとピアノの一音一音を思い出すことができた。その音を辿ることは、まるで僕の体が楽器となり音が湧き出してくるようだった。大きく深呼吸をした。慣れ親しんだピアノの響き。目を瞑ってゆっくりと精神を静め、耳を澄ませて、音の聴こえる方へと辿っていく。今僕の耳に聴こえている鼻歌が自分のものなのか、ラジオから流れてくるものなのか、それさえが分からない。こうしてこのままずっと音楽を聴いていたい。いいと思える音楽はみなどこか懐かしい気がする。もしそうなら、こうして目を瞑り、音のする方へと辿っていけば、僕は過去へとたどり着けるのだろうか。僕の来た場所へ、戻っていけるのだろうか。


   *


 アパートへ戻ったときにはもう夜中の三時を回っていた。

 現実の生活に戻ってくると、帰りの車の中でずっと音楽に酔っていた自分が恥ずかしいような気がした。

 郵便ボックスに封筒やチラシが溜まっている。それを片手に僕はドアの鍵を開ける。懐かしい。東京で飲んで二晩や三晩空けたとしても懐かしい気分にはならないだろう。部屋の中はひんやりしている。そして少し生ゴミ臭い。そう言えば結局捨ててなかったのだ。床がいやに粘つくと思うと、三日前にこぼしたラーメンの汁が完全に片付いていなかったらしく、乾いてべとついている。家に帰ったなという実感が湧く。


 ベッドの上に腰をかけた。ギターの弦も切れたままだった。ピザ屋と電気屋のチラシ、それと公共料金の明細。それから内定をもらった会社からの封筒があった。開けてみると、内定者懇談会と研修の知らせだった。十一月の終わりに一回目の懇親会、そして一月の終わりに二度目の今度は配属部署への顔出し。そして二月半ばから新入社員研修が組まれていた。手紙には細かい集合時間が書き込まれていた。


 立ち上がって、やかんに火をつける。そして棚からコーヒー豆を取り出す。コーヒーメーカーでそれをひいた。暖かいコーヒーがすぐにできあがる。僕は以前にスターバックスから持ってきてしまったマグカップにそれを注ぎ、椅子に座って狭い机に肘をつき、ゆっくり飲んだ。体が温まっていく。そして会社からの手紙を眺めていた。


 こんなことを考えた。たとえば僕が明日の夜また散歩に出かけてあの公園に辿り着けたら、そしてそこにもう一度バスケットボールをしているナオがいたなら、そうだったからといって何かが解決されるわけではないけれど、こんなに嬉しいことはない。


終   

* 本作品は文芸同人誌「孤帆」第3,4,5号に連載された作品を加筆訂正したものです。また、塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載されています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ