人命神論
気分を悪くさせる可能性がある以下の方は注意して閲覧してください。あくまで私的意見であり個人の見解に過ぎません。
・宗教家
・無神論者
まず初めに、この文章で気を悪くする可能性がある方々がいる。宗教に傾倒している方などだ。私が今から話すことは宗教を否定しているとも取れるので自己責任で閲覧してほしい。
神様はいない。とハッキリ言ってる人を私は信用しない。そのような人間は「地球外知的生命体」も「死後」も「魂」も信じない。果ては自分の常識外で起きている物事を否定しているのだ。それは自己陶酔であり、科学の過信でもある。
私は神様を否定も肯定もしない。否定できる証拠もないし、逆もまた然りである。
しかし神様がおわすといふ前提で話すとするならば。私は神様を「生命創造の力」であると考える。
いまだに続くビックバンの波動は宇宙を拡大しているが、その原因も定かではあらず。また地球がここまで位置、物質になぜ恵まれているのかも定かではない。全て「幸運」と曰うのならば科学はいらず、、科学の進歩とはまだその程度であり神様や「あの世」などを否定することこそ「科学教」であると私は考えている。
無神論の否定はさておき、宗教などの「行為」は私には理解しがたい。具体例は伏せるが、神様に対して我々が何かを懇願することは神様と対等を意味すると考えるからだ。
例えば、封建社会において御恩と奉公の関係にあった将軍と御家人は平等な関係にあったと考えている。御恩がなければ将軍は討ち死にし、奉公がなければ御家人は餓死してしまう。互いに命を交換し合う関係は対等であると考える。
それを畏れ多くも神様と我々人間に例えると
神様に奉公すると言っても儀式であり生命ではない。しかし要求する御恩は幸福=永続的な生命バランスである。これは私的意見だが、神様が我々をお創りになったことには理由がある。理由がない行動は物質すらとらない。例に水素が爆発したら凡ゆる事象を引き起こす。これは水素が望んでやったのか定かではないが、事象という結果を残した以上、理由とも言えるのだ。
我々を創った理由があるとし、しかし我々が目的を果たさず神様に要求をする。これでは御恩がなくて当然ではないか。そこで私は考えた。神様に奉公するには如何にすれば良いか。
出た結論が人命の価値を付加する行為である。我々は生まれた瞬間から不平等である。しかし胎内にいる間は平等である。母親の体力や具合に関わらず我々にはまだ知性がないからである。つまり人生のスタート地点を胎内だとすると、皆人命は平等に創られているわけだ。その人命はこの世に生み落ちた瞬間価値を付加させる道を歩み始める。
私は人命の価値を0か100かとしか見ていない。残酷だが、病死で早逝された人命は価値を測れない。しかし0ではない。家族が病死された方を想い更なる価値を追うならば、むしろ100以上であると言える。
では価値を付加させる方法だが。簡単である。信念を貫き貫徹するだけである。それは如何なる信念であれど挫けず貫徹する意思が死ぬ寸前まであれば人命に価値があると言えるのだ。過去に大東亜戦争で亡くなった方々も、信念を貫き貫徹せんと。忍び難きを忍び、耐え難きを耐え人生を終えたならばその人命の信念は他者へと継承し、価値が付加される。
つまり意思の貫徹こそが人命の価値であり、途中で意思を曲げてしまえば人命の価値は損なわれる。
神様は人命をお創りなさり、価値を付加せよと我々に語りかけているのだとすれば、あらゆる宗教的儀式は意味がなく。意思を命を以って貫徹することこそが神様への奉公であると言えるのではなかろうか。
人命に生まれながらにして価値があると言う根拠もなければないという根拠もない。しかし私は生物から物質まで意味がなく行動するモノを知らないので人命が創造された理由を考えこう整理した。
とまあ偉そうにいう私の人命にもまだ価値はないのだが
前書き通りあくまで私的意見であり個人見解に過ぎません。あらゆる解釈があってよいと考えます。
しかし私はこう考えました。
そんな文章です
読んでくださり誠にありがとうございます