3話・追加課題と努力
「ミナ先生、ライラ・カラリーンです。追加課題の提出に来ました」
両手がふさがっていてノックができないので、代わりに大声を張り上げる。
朝一番、しんと静まり返った廊下にライラの声は良く響いて、いまさらながら、こんな早朝の来訪の礼儀のなさに考えが至ったが、それも本当にいまさらだった。
ガチャリと音を立てて扉が開き、いつもきっちりと服を着込み高い位置で髪を編みこんでメガネをかけているミナが、胸元のボタンが数個開いたワイシャツ姿で眼鏡もかけず驚いたようにライラを見ていた。
いつもは結い上げられている銀色の髪も、寝癖のついたまま流れるがままだ。
ぱちぱちと数度瞬きをしたミナはライラが両手に持っている大量の、己が言い渡した追加課題と、罰が悪そうな顔に一気に眉間にしわを寄せた。
「……ライラ・カラリーン」
「はい」
「努力は認めよう。だが、時間を考えろ」
「……おっしゃるとおりです」
低い声で説かれた常識にライラはただただ小さくなるだけだった。
「まぁ、いい。入れ。珈琲は飲めるか?」
「あ、えと、お砂糖とミルクがいっぱいなら……」
「それはもはや珈琲ではないな」
ドアを大きく開けて室内へと促したミナの言葉に小声で答えると小さな笑いが降ってくる。
それに驚き思いっきり顔を上げたら、そんなライラの表情を見た途端、ミナの顔つきは一気に厳しくなった。
「なんだ、私が笑うのがそんなにおかしいか」
「いえ、おかしいとかじゃなくて……初めてみたなぁ、って」
「ふん、授業は笑いながらするものではないからな」
それは常に笑顔を絶やさず授業を展開するリオ教諭へのあてつけの言葉なのか。なんとも判断に困るところだ。
曖昧な笑みを浮かべることで答えることを回避したライラはそろそろ痺れてきた手で課題を置けそうな場所を探す。
「そこの机において構わん」
壁にはぎっしりと本が詰まった本棚、窓際に机が一つ。
様々な教材が積み上げられつつも一定のスペースはたもっているそこを指差されライラは重みでどさりと音がする課題の山をようやく手放した。
「そこのソファに座って少し待っていろ」
来客用だろうか、テーブルを挟んで二つあるソファの片方を指差し、言い置いて隣の部屋へと入っていく。隣は完全なプライベート空間なのだろう。小さな物音を聞きながら、ライラは改めて室内を見回した。
実はライラ、最初は教諭たちに一人一室あてがわれる研究室へといったのだが、当然ながらいまだ出勤には早い時間帯でミナがそこにいなかったためにこうして教諭たちの寝室が集まる棟まで足を運んだのだ。
研究室にいない時点で一度寮に戻ればよかったなぁ、とは思うがすでにそれは後の祭りだ。
本棚にずらりと並んだ本の数々は完全なミナの私物だろう。
(あ、魔術書もあるんだ)
精霊術士と魔術師はきっても切れない縁がある。ある程度の魔術師への造詣も上級の精霊術士としては必要なものだ。とはいえ、いまだ一学年であるライラたちは精霊術の基礎を固めるために日夜精霊術の勉強に励んでいるのだが。
入学当初に受けた説明どおりなら三学年から魔術師としての講義も入るはずだ。
そんなことを考えながら徹夜明けでぼーっとする頭でミナの本棚の背表紙に書かれた文字をなんともなく追っていたライラは近づいてくる足音に気づかなかった。
「ほら、ご所望のミルクと砂糖たっぷりの珈琲もどきだ」
「あ、ありがとうございます」
テーブルの上に置かれたマグカップからは湯気が立ち上っている。両手でそっと掴めばほんのりと温かい。心がほっとする温かさだ。
そっとミナを伺えば、格好は先ほどまでのままだったが、腰より長い銀色の髪は高い位置でポニーテールにされていた。あとはライラもなじみのある縁なしのノンフレーム眼鏡もかけている。特殊な加工が施されている精霊道具の一つであるらしい、その眼鏡のレンズ部分は光を受けてキラキラと輝いて綺麗だ。
珈琲の注がれたマグカップを片手にぺらぺらと机に積み重ねられた課題をみるミナを緊張した面持ちで見ていれば、ミナは平素と変わらぬ口調で斜め読みをした課題を置いてマグカップに口をつけた。
「誤字脱字が目立つが、指摘するほどの間違いは見受けられない。及第点だ」
「よかったぁ……」
ほっと胸をなでおろすライラにミナは目を細くして、机に腰を当て、ミルクも砂糖も入れていない濃いブラックコーヒーを飲み込む。
「お前は、努力もできるし、驕りもしない。一週間でもきついと私が判断した課題を徹夜とはいえ一日で仕上げる根性も教養も持っている。……精霊たちはお前の何が気に入らないのだろうな」
「……」
珈琲をすすりながらのミナの言葉に、ずんと胸が重くなる。
ミナの指摘はもっともだった。ライラは精霊の祝福を受けていながら、精霊に気に入られないのだ。端的に言えば、嫌われている、といっても過言ではない。
「……わかりません。ただ、幼いころは違ったんですけど……」
マグカップを膝の上で握り締めてぽつりと呟く。
小さなころは今と違った。世界はもっと色鮮やかで、どこに行くのもたくさんの精霊が一緒についてきて、いつも精霊たちと話をしていた。
そのせいで村の子供たちと距離はあったけれど、精霊たちがいたから、寂しくはなかった。
なのに、いつからだろう。気がついたら、ライラの傍に精霊たちはいなくて、ライラは本当に一人になっていた。精霊の祝福を受けた子供として持て囃されていたライラはいまさら村の子供たちの遊びにも混じれず、学園に入学するまで同い年の友人は一人もいなかった。
そして入学した学園では精霊の祝福を持ちながらの落ちこぼれとして後ろ指を差される日々。
つらくない、はずがなかった。唯一の救いは同室のツアカが理解を示してくれることだ。
「お前の態度をみていても、性格をとっても、精霊に嫌われる理由や原因が思い浮かばん。年を経るごとに精霊を感じられなくなったり視れなくなったりする者はいるが、精霊の祝福を受けているお前にそれは当てはまらんしな……。事実、完全に見えないわけではないのだろう?」
考えながら言葉をつむぐミナにこくりとライラは頷いた。視線の先でミルク色の珈琲が不安そうに揺れていた。
「先生たちが契約している専属精霊はきちんと視れます。あと、上級生が契約している精霊とかも……他にはそのあたりにいる低級精霊も見えるんですが、わたしがしばらくみているとなぜか逃げてしまうんです」
「こいつも視えるんだな?」
「はい」
ミナが指差した先にはポニーテールの上にのっかって遊んでいるミナの専属契約精霊、風の大精霊シルフの眷属である風の精がいる。風を現す萌黄色をした手のひらに乗るほどのサイズの精霊だ。
精霊は、自身の属性である色の濃さとその体の大きさで格が決まる。ミナが専属精霊としている風の精は、色とサイズからわかるように良くて中級、悪くて下の上といったところだ。
だが、精霊は人と契約することで成長する。いま力がないからといってこれから先もそうだとは限らない。また成長の仕方は術者の力量と采配によるので、この小さな精霊が一年後には人間大になっている、というのもありえない話ではないのだ。
なんとなく手を伸ばしてみるが、風の精はライラの手を嫌がるようにミナの私室に逃げ込んでしまった。
「……こんなこと、ばっかりで。話す云々以前に、視えてても逃げられてしまうんです」
「術技の演習でもお前に宛がった精霊は全部が全部逃げ出す理由を考えていたんだが……」
「なんででしょう……」
すっかりぬるくなった珈琲の注がれたマグカップを強く握る。精霊と毎日遊んでいたあの日々が懐かしい。
落ちこぼれと指差されることが悔しくないわけじゃない。でも、それ以上に悲しかった。精霊に逃げられることが心をえぐった、あんなに仲がよかった精霊たちにそっぽをむかれるのは、人間の友人ができないことの何倍も切なかった。
「先生、わたし」
「……課題を渡すときに、脅しはしたがな。あれは周りに対するパフォーマンスだ。これでお前の努力にだれも文句はつけない。実習が赤点だろうが、きちんと進級できるよう取り計らってやる。その点は心配するな。だから、お前はお前なりに、がんばれ」
ぽん、と頭に置かれた手のひらから伝わる熱が優しくて。
ライラは唇をかみ締めて、小さく頷いた。