4幕
砂漠地帯を歩いていると、急に気温が低くなった。クラムはマントを体に巻きつける。
「赤い砂漠だ」
「……ずっと砂漠だったろ」
「ここから先は高原になっている。その高原のことを赤い砂漠というのさ。マッサゲネイ人の住む土地だ」
「マッサゲネイ……。また化け物なんじゃねえだろうな」
「1番の化け物はお前だ。安心しろ。私の血筋の部族だ。マッサゲネイの中でもいくつかの一族にわかれているのだが、叔父がその中のひとつの族長でな。今からその叔父のところに行く」
「なんで?」
「新しい馬をもらいにな。歩いてこの砂漠は渡れん」
「なるほど。けど、どこにも集落なんてないぞ? 道もないし」
「当然だ。我らは遊牧民。決まった住処などない」
「……どういうこと?」
「ずっと移動しながら暮らしてるんだ。ユルタという、折り畳んで馬車に乗せて運べる家に住んでいる」
「そりゃ楽しそうな生活だな。で、ずっと移動してる集落どうやって見つけるんだよ」
「砂漠にだって道はある。私たちはその道を季節に合わせて移動してるんだ。今どこにいるかくらいわかるさ」
言葉通り、ミテスは迷いなく歩き始める。クラムは黙ってそれに従った。
昼夜の寒暖差が激しい砂漠は慣れない人間にとっては過酷な場所だ。その上砂地は足をとられて歩きにくい。それでも我慢して歩くこと数日、地平線の上にいくつかの天幕の影が見えた。
「あれがユルタだ。真ん中の大きいのが族長、私の叔父の家だな」
近づいていくとそれは五つのテントから成る集落だった。近辺の草地では家畜が飼われている。ユルトのそばまで行くと、家畜を見ていた少年が二人に気づいた。ミテスが手をあげると、少年は顔を明るくして駆け寄ってくる。
ミテスは少年に何か言ったが、クラムには聞き取れない言葉だった。ミテスと少年は短くやりとりすると、少年は大きなユルトに入っていく。
「何語?」
「スバタイ語」
「いや、ぜんぜん違うだろ。意味不明だったんだが」
「スバタイ語でもお前が知っているのは西の端の部族が使っているものだろう。部族によって言葉は少しずつ変化する。ここまで来るとほとんど違う言語だからな、聞き取れなくても無理はない」
話していると、先程の少年がひとりの老人を連れて戻ってきた。老人はクラムを見ると何事か目を見開き、身体を強張らせる。
ミテスが挨拶すると老人は平静を取り戻した。老人はクラムを指して何か言うが、やはり理解できない。ミテスが一言いうと、老人は言葉を変えた。
「西から来なさったのか」
低い、響くような声。
「そうだ。ずっと西の、ラダニアって国から来た」
「聞いたことのない国だな。わしも昔は西へ行ったもんだが」
「叔父さまは西方戦役でペルージャ王の軍に参加したんだ」
西方戦役。東の大国ペルージャが西へ侵攻したことで始まった戦争だ。王は10万以上の大軍を率いていたが、西の小国たちは連合を組み、ペルージャの半分以下の兵数でペルージャ軍を撃退した。東西両文明がぶつかった大戦であり、大陸では広く知られている。その戦いの中では300の兵で10万の帝国軍を足止めした西の国の王レオーンや、帝国軍最強の狂剣士の話など、逸話も多い。
「して、お主は?」
「ただの旅の剣士だよ。珍しいもんでもないだろ?」
クラムが言うと、老人はしばらく黙す。
「……お疲れでしょう。ユルトの中へどうぞ」
「じゃ遠慮なく」
ユルトの中は外から見るよりずっと広々としていた。中央の柱から梁を伸ばし、フェルトを壁にしただけの簡単な構造だが外の冷気は遮断されて暖かい。ちょうど食事の準備をしていたらしく、中央の炉からは芳しい香りが立っている。
さっそく入ろうとすると、後ろからミテスに耳打ちされた。
「入って左半分が男、右が女の空間だ。旅人にしきたりを押し付けるようで心苦しいが守って欲しい」
「はいよ」
クラムは老人のあとをついてユルトの左側に入る。ミテスが入った右側では老婆が炉から焼けた肉を取り出していた。
ユルトは南に入り口があり、北面には祭壇があった。ミテスはその祭壇の前に跪いて祈りを捧げる。クラムは神への敬意などなく、老人から勧められた椅子にどかっと腰を下ろす。老人も隣に座った。
「クチャラン族の長、イスハークと申す。あなたは?」
「クラムだ。やんごとなく麗しい高貴なる才女リリアナ・ガーデンガルドさまに支えてる。将来的には結婚する予定」
「クラム殿はどこへ向かっているので」
「リリアナ様のお使いで東へな」
「左様でございましたか。徒歩での旅では大変でしょう。馬を用意します」
「うむ。苦しゅうない」
イスハークの態度に、クラムは満足気にうなずく。ミテスは叔父の謙った態度が不可解だったが、今聞くことでもないかと食事の支度を手伝った。
炉の前にある大机に料理が並んでいく。チーズ、干し肉、丸めた小麦粉を浮かべたスープ、馬乳酒。味は薄いが、旅の疲れと、自分の国にない料理への物珍しさでおいしく感じる。
夕食を済ますとクラムはさっさと寝てしまった。ミテスも旅で疲れているので眠ろうとしたが、叔父の姿がないことに気付く。
ユルトの外に出ると、叔父は杖にもたれて空を眺めていた。ミテスが来たのに気づいたのか、視線を下げる。
「大変なもんを連れてきたの、お前も」
「クラムのことですか?」
ああ、とイスハークはうなずく。
「もしあの男の機嫌でも損ねてみい。あやつが暴れたらここの男全員で束になっても敵わん。それほどの使い手だよ」
「たしかに腕は立ちますし、敵には容赦ないですが、理由なく人を襲う男でもありませんよ」
「そうさな。あれは戦う相手を選ぶ男だ」
「……叔父様、クラムと会ったことがあるのですか?」
尋ねると、イスハークは記憶をたどるように目を細めて、ため息ひとつ、かぶりをふった。
「いや、気にすることではない。疲れておろう、今日はゆっくり休め」
ミテスが首肯し、ユルトに入ろうとすると後ろから声が投げられた。
「明日は剣の稽古をつけてやろう。姪の成長を確かめなくてはな」
咄嗟に振り返ると、イスハークは月明かりの中、好戦的に笑っていた。
翌朝クラムが目を覚ますとユルトの中には老婆だけだった。曲がった腰で難儀そうに歩きながら朝餉の支度をしている。クラムが起きたことに気づくと、温めたミルクを出してくれた。礼を言って飲み干す。
ぼんやりと椅子に座っていると、外から剣戟の音が聞こえてきた。気になって外に出る。
朝の冷たい空気が眠気を覚ます。茫漠たる砂漠は飲み込まれそうなほど広く、朝焼けの太陽が砂地を赤く染めていた。
「なるほど。赤い砂漠か」
得心してうなずく。
景色に気を奪われたが、本来の目的を思い出し音の出どころをたどる。音の源はユルトの裏にある草地だった。そこで二人の人物が剣を交わしていた。
ミテスが苦悶の表情で剣を振りかぶり、イスハークは汗ひとつ流さず受け流している。
すでに長く戦っているのだろう。ミテスの呼吸は乱れ、剣を握る手が緩む。その隙をイスハークは見逃さない。
「うっ!」
イスハークは下から掬い上げるようにしてミテスの剣を跳ね飛ばし、そのまま切先を首元に突きつける。
「……まいりました」
ミテスが言うと、イスハークは剣を納めた。
「見ていたのか」
「あんだけうるさけりゃな」
ミテスは飛ばされた剣を拾いながらクラムに話しかける。
「これは申し訳ないことをした、旅の方よ」
「別にいいよ。どうせ起きてたし」
「それよりどうだ、お前も。戦ったのはウール山脈以来だろう。剣が鈍っているのではないか?」
「馬鹿言え。殺す気ないもん同士で戦えるか」
クラムが一蹴すると、ミテスは少し不貞腐れる。不貞腐れた顔がかわいいのはリリアナだけなのでクラムは無視してユルトに戻った。
朝食はチーズとミルク、昨日の余りの団子入りスープだ。
四人で食べていると、ミテスがクラムに話しかけた。
「お前、旅は急ぐのか?」
「なんだよ藪から棒に」
「しばらくここで叔父上に稽古をつけてもらいたくてな。お前がよければしばらく留まりたい。その間の衣食はこちらで提供する」
「別にそんな急ぐもんでもねえよ。リリアナさま待たせてるから早いに越したことはないだろうけど、さすがにこの距離だからな。一日二日休んだところで変わらん」
「そうか! ありがとう!」
ミテスはここへ来てからやたら機嫌がいい。普段は澄ましていてもやはり親族に会えば嬉しいのだろう。クラムにはわからない感情だが、喜ぶミテスを見ていると無理にここを立つのも気が引けた。
(……俺、意外と優しいな)
リリアナ以外の人間を思いやることなどないと思っていたので、クラムは自分自身でその感情に驚く。今までひとりで旅をしたことはあったが、人と連れそった経験ははじめてなので、情が移ったのだろう。
「そうだ、どうせならその間に馬の乗り方を覚えてみないか? 自分で乗れたら便利だろう。馬も二人乗せるより負担が軽くなる」
「ごもっとも」
食事を終えて外に出ると、ミテスが馬を2頭引いてきた。
「ずっと後ろに乗っていたんだ。馬に乗る感覚はわかるだろう。とりあえずまたがってみろ」
ミテスが自分の馬に乗るので、クラムもそれに倣う。ひとりで乗ったことははじめてなのでどうにも落ち着かない。見様見真似で手綱を握る。
「手綱は強く握らなくていい。下半身でバランスを取れ。足で馬体を挟んでないと振り落とされるぞ。進むときは腹を蹴る。手綱を引くと止まる。やってみろ」
クラムが両足で挟むように馬の腹を蹴ると、馬はゆっくりと歩き始めた。ミテスは横で並んで歩く。
手綱を引いて止まり、また進む。何度か繰り返していると、ミテスが加速、減速、左右の方向転換と、適宜説明を加える。
「これで動作は一通り教えた。馬上での弓や槍は幼少から馬になっていないと無理だが、これで旅くらいはできる。あとは慣れだな」
教えることを教えると、ミテスは剣を持ってイスハークのもとへ行った。残されたクラムはユルトの周辺でひとり、馬の練習に打ち込んだ。
本文で「足で馬体を挟んでないと振り落とされるぞ」というセリフがありますが、これは舞台のモデルが紀元前4世紀であり、当時まだ鐙がなく足で馬を挟んで乗っていたことからです。ただ、クラムとリリアナの国は諸事情あって中世ヨーロッパほどの文明水準です。文中で説明したかったのですが、当時ない鐙という単語を出すとメタっぽくなるので後書きで書かせていただきました。