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祖母との日々

作者: 小山桜子




長い間広島に暮らしていた祖母が、東京に出てきた。


東京といっても、かつての江戸の範囲から外れた緑豊かな武蔵野、詰まるところは私の実家のごく近所なのである。


私は幼い頃からこの祖母がたまらなく好きだった。何かにつけては為すことが豪奢で、肉置(ししお)きも豊かでぎすぎすしたところが少しもない。

常日頃面倒をみる二親(ふたおや)と違って年に一度盆に会うか会わないかの孫の事を可愛がるばかりで叱るという事もない。中には孫を(いと)う年寄もいると聞くが、幸いにも私たち(私と二つ下の弟)は愛された。もの心ついた時にはロマンスグレイだったと記憶している祖母の髪は、私が二十七になった今や、いつのまにか真白になった。私自身、先日まで子どもの心算(つもり)でいた己の年齢に(おどろ)くのと同じに、祖母も己の頭髪がこんなにも白くなった事に愕いているのではなかろうか。朧月(おぼろづき)をくるむやわらかな真綿の雲の、澄んだ月光に照らされ白く輝くようである。母によると、祖母は昔は濡れた漆のような黒い直毛を長く伸ばし、それはそれは絹よりも美しかったという。母は幼少期は美容師が夢で、祖母の美しい髪を自分好みに結っては遊んだという。もっともその子どもらしい夢は、祖母にこっそり打ち明けたところ、手が荒れるからだめよ、の一言で一蹴(いっしゅう)されたらしいが。



私は今春結婚し、新宿に越したがーーーそれとて江戸からはまだ外れているがーーー、実家の近所で週二、三の頻度で働いている。その勤め先が、祖母の新しい家に()く近いのである。私は午後からの出勤であるから、以前から出勤の一時ほど前に必ず実家に寄り、母の作る昼食を馳走(ちそう)になっていた。越してきたのちは、週に二回のうち一度は昼時に祖母の家に集まり、母と弟と、四人で昼食を囲むようになった。

祖母の新しい家は、老人に優しく造られており、足うらへの床のあたりも殊の外やわらかである。

窓の外の景色も()い。

目の前が公園で、こぢんまりとしたなかに溢れるほど樹木が多い。公園全体が夏には金紗(きんしゃ)の陽を吸い込んで青々と、秋には澄んだ冷気を受けて濃い紅にいろづき、日ごとに様相(ようそう)を変じては、寝覚めにカーテンを開く祖母の眼を楽しませる。

しばらくすればその公園に保育園のこどもたちが遊ぶ声が聴こえはじめるーーー最も祖母は耳が遠いのでこどもらの声は聞こえないようである。


本人の話によると祖母は毎朝その公園をくるりと一周する。樹々の足もとのそこここに花が咲いているのを見つけては、少女のように一、二摘んで帰ってくる。それを玄関に可愛らしく飾るのである。私が五年ほど前に鎌倉で購入した小さな花瓶も、私が越してそのまま実家に残っていたのを母が見つけて祖母の家の玄関を飾ることになった。

私の仕事が遅くなった日に、祖母の家に二回泊めてもらった。




一度目は九月二十四日、台風という予報がまったくはずれて、鼻腔(びこう)を抜ける秋風の清々(すがすが)しい夜だった。

午後九時過ぎに着く。

インターホンを押すと、祖母の大山のぶ代似の優しい声が嬉しげに応えてくれる。オートロックに(いま)だ慣れない祖母は解錠釦(かいじょうぼたん)にやや手間取るため一呼吸時間が開く。そんなところも可愛らしいと思う。

自動ドアの向こうのロビーは広さはそうでもないが洗練されてすっきりしたデザインソファと小机、さすがに新築は洒落(しゃれ)ている。

アアきたきた、祖母は喜んで迎えてくれた。

白を基調とした明るい廊下の奥に十五畳ほどの広い居間、六畳ほどの寝室は襖のように仕切ることもできるが祖母は基本的に開け放っており、それが一層空間を開放的にさせていた。

その部屋いっぱいに甘いこうばしい匂いがするのは、玉蜀黍(とうもろこし)を茹でているからだった。

両手を広げたほどの巾のある大きなテレビの画面は、様々な理由を抱えて海外の辺境の地で生活を送る日本人に密着するという社会派めいたドキュメンタリー、こういう内容が祖母は一番好きなようだった。

テーブルをはさんで茹でた玉蜀黍を祖母は一粒ずつ指先で摘んでぷつ、ぷつ、と芯から切り離し、せっせと口に運ぶ。私の視線は自然と玉蜀黍を離れ、濃いピンクのマニキュアをはみださずに塗った祖母の指の爪に吸い付けられた。八十過ぎても女らしい身だしなみを欠かさない祖母に畏敬の念すら覚える。

私の背後の据え付けの仕切り棚のひとつに、そのマニキュアの小瓶と液の減ったリムーバーを見留めた私は、当たり前のように爪を塗ってはこまめに落とし、むらなく塗り直す祖母の姿を浮かべ、呼吸をするように自然にその努力がなされていることに(おどろ)いた。二十七の私は、素爪である。それどころか、結婚したのちは朝に洋服を選ぶ楽しみすらなくしている。

私は玉蜀黍は口を縦に大きくひらいてかぶりつくものだと思っていたが、なんとなく祖母をまねて一粒一粒もぎとってはちまちまと口に運んだ。一粒ごとに歯と歯の間でぷつとはじける実の、はじける直前のわずかな抵抗、いのちの最も充実する瞬間、限界まで張りつめる表皮の緊張。

その後に咥内(こうない)を流れるわずかな甘い汁を大切に呑み込む。祖母は今まで八十余年、玉蜀黍を味わうときこのようにして大切に味わってきたのか。たとえそれが無意識だったとしても。いのちを呑み込む。私たちは多くのいのちを呑み込んで、その上に不自由なく立っている。すくなくともその日は、玉蜀黍の粒の上に立った夜だった。


翌日はけぶるような驟雨(しゅうう)

朝、テレビの画面には谷崎(たにざき)潤一郎(じゅんいちろう)とその妻たちの古写真が次々に映し出されていた。一生涯に渡る恋愛遍歴を辿(たど)った昭和の番組を再放送していたのである。祖母はその昔文学少女ーーー今は文学ばあちゃんとでも云うべきかーーーで、私自身は「刺青」や「痴人の愛」を読んで谷崎文学の孕むある種の狂気に強く惹かれる思いがあったので、二人で揃ってテレビの前に並んだ。

谷崎潤一郎は【和平(わへい)】や【凡庸(ぼんよう)】を手に入れるたび、恋のためにそれを壊し続けた。多くの文豪がそうであったように、彼は時々において、もしくは作品ごとに異なる女性たちに惹かれ続けた。多くの良識人が納得するような安定した環境は、彼らの筆を動かなくさせる。彼らは筆のために恋をし続け、不安定の中に身を置き続けなくてはならなかった。

恋を恋のまま恒久的(こうきゅうてき)に生き永らえさせる事は不可能である。それは手に入ってしまえばいつしか愛に変じ、慣れから情に変じ、情のもつれは怨恨(うらみ)に変じ、怨恨を遂げれば最後には興味を失う。

谷崎は恋を恋のまま作品に閉じ込めるために、幾度となく妻を変え、(それ)を友人と交換し、ようやく一人に()めたかとおもえば身篭(みごも)った彼女を堕胎(だたい)させ、娘のまま貴婦人のまま神棚に祀るようにして崇め続けた。

祖母はその異常性に驚愕していた。

私はその姿を見て、少し安堵した。

なぜなら祖母の次女である母から、実は母の下に三番目の子ができたが祖父と祖母は経済的理由から(おろ)したという話を聞いていた。

しかし祖母のその(おどろ)きようから、祖母が普通の感覚の持ち主で、叔母と母の真っ当な母親であることが改めてーーー改めるまでもないがーーーはっきり理解できたのだ。

かくいう私は結婚して半年、いまだ人の親になる決心がつかず、避妊を続けている。


祖母は、無邪気に笑って、

「あんたと一緒にこんな番組が見れてよかった」

と云った。

私が孫の中でも殊の外文学好きなのを指しての言葉だろう。

子どものことはひとつも訊いてこなかった。

私は祖母の笑顔にいつも、胸のうちの不安を拭われるように感じる。




翌週もまた、祖母に甘えて泊めてもらった。祖母はふんわりと透ける白いレースのカーディガンを羽織って、その可愛らしさが嬉しかった。冷蔵庫には、今度は葡萄(ぶどう)が用意されていた。

それを少しだけ摘んで、それから二人で映画「ローマの休日」を見た。私がこの作品を知ったのは結婚する少し前、ちょうど一年ほど前の事だが、これがデビュー作である二十三歳のオードリー・ヘップバーンの愛らしさに魅了されて、すでに何度も視聴していた。祖母もこの映画が大好きだと()った。そんなところも気が合うのである。私が祖母と同年代であったなら、朝まで語り合うような親友たりえたのではないかと思う。私は、ーーー自分で云うのはおこがましいがーーー祖母の生写しではないかと思う。否、そう願う。

祖母はヨーロッパにも多く旅行しており、もちろんローマもその数のうちに入るという。真実の口などを見てはしきりに懐かしみ、見ていてくすぐったくなるようなキスシーンでは微笑っていた。祖母は弱冠十九歳で今は亡き祖父に嫁入りをした人だから、こういう経験は無さそうに思うが、(ある)いは秘めた記憶を隠しているのかもしれない。


十九で結婚というのは当時でも早かったらしい。どうしてそんなに早く結婚したの、ときくと結婚ってどんなのかなと思ったから、と云った。若い時分の好奇心は何にも勝る。

どんなのかと覗く気持ちで嫁いだ先の祖父は銀行勤めの転勤族で、祖母は祖父に付いて日本各地を転々とするのが大好きだったという。見知らぬ土地への移住は、変化が好きな祖母にとって気分転換になったばかりか旺盛な好奇心をも満たしてくれたのだ。しかしながら一方で、亡くなった祖父という人が底無しの酒豪(しゅごう)で、祖母は相当辛酸を舐めたらしい。祖父の事を死んで何年も経った今も「嫌い」という。話によると祖父は給料を一部ーーー生活できるぎりぎりの額ーーーしか渡さずに残りをせっせと酒代に回していたらしく、男の人がああいうことをすると結局は自分が損ね、と云った。別れこそしなかったが、祖父は酒代の代わりに祖母の信頼を失った。

「ローマの休日」の他にもマリー・アントワネットや宝塚歌劇団を愛し、さまざまな物語の綴られた小説を多く読む夢想家(むそうか)の乙女が、夢を振り捨てて現実的にならなければならなかった理由は、その辺りにありそうである。

ともかく、祖母も孫の私も時空を超えて夢見がちな少女に戻れたあの夜の時間は、きっと一生涯忘れられないほど楽しかった。たった一日の「ローマの休日」を私と祖母も謳歌したような。それは修学旅行の夜更かしの感覚によく似ていた。


祖父の話をしたあと、祖母は曽祖父ーーー彼女の父ーーーの話をはじめた。

曽祖父は広島の(くれ)の人で、善良な教師であった。曽祖父は戦中であっても無理に子どもを勤労動員(きんろうどういん)することがなかったという。そのことで、戦後いくら生徒たちから感謝されたかしれないと祖母は云った。また、何をいうにも冗談の一つ二つ交えて話すようなユーモアのある人で、遠くで聴いた女学生らが「高田先生の話がおもしろくて、遠くで聴いた私たちまでが笑わされるようになるんですよ」といったという。

しかしながら、そんな心優しき彼が教師であったのは戦中までだった。なぜなら戦後教育は、戦中に子らに教えた内容を全否定するような内容であった。昨日までお国のために死ねと教えておきながら、今日から百八十度違った事を教えるのは子どもらに合わせる顔がない、まったく申し訳が立たないという事から戦中教育の責任を取って職を辞したという。生真面目な人であったと祖母は心に沁みて云う。

かたわら、曽祖父と曽祖母は戦中から自宅の敷地で養豚で生計(たつき)をたてていた。母も幼少期にはよく祖母の実家を訪れ、戦後から二十年以上経っていたはずだがその当時にも養豚は続いていた。未だにその()えたような臭いを憶えているという。畑もよくした。母の記憶の中の曽祖父は、土にまみれ日に焼けた朗らかな姿であった。曽祖父らの思考と行動は当時ではちょっと珍しいほどに柔軟で、いのちを繋ぐために国の配給を待つだけでないたくましい心と身体を持ち合わせていたのだ。同時に知欲も旺盛で、母の記憶によると曽祖父は欠かさずラジオの英語学習を毎日聞いており、覚えた英語力を試すかのように近くを通る外国人をつかまえてはあれこれ話しかけていたという。また、母が成人後に東京の文藝春秋に就職し、廃棄になる本を当てずっぽうに曽祖父に宛てて送ると非常に喜んだ。教師の職から退いたのちも、学びつづける事を決して諦めなかった。「本当に良いおじいちゃんだった、大好きだった」。母の記憶の中の曽祖父は、いつも莞爾(にこにこ)の笑顔だった。勿論それは娘である祖母の記憶の中でもそうであったし、曽祖父と接したことのある誰しもの記憶の中でも同じだったろう。

曽祖父は芯から子どもが好きだった。祖母が幼い頃、同い年の友人を連れてきてもきっと、先ずは「あんたの名前はなんだい」と名前から訊いたという。その接する態度は他所(よそ)の子であっても実子と接するのに少しも違わなかった。祖母は実子の(じぶん)らより他所の子の方が大事なんじゃないか知らんと随分嫉妬するほどだったという。


そういった調子で、子どもの心を掴んで教育するのに長けていたばかりか、相手が大人であっても面倒見のよい曽祖父のもとには親戚でも近所の人でも毎晩悩みのある人がひっきりなしに訪れ、なんでも人の話を聴き、自らは多く語らず、よく相談に乗ったという。曽祖母は賢いひとで、来客の折にはきっとお酒とは別に「漬物でもなんでもええんよ、直ぐに出せるものをひとつ用意しんさい」と祖母に教えたという。いわゆるお通しという事だろう。そのうちに料理はどんどんできてくる。手の込んだものはそのあとで出せばよいという曽祖母のもてなしのこまやかさであった。

祖母も何度も酒屋やらにお使いに行った。祖母は五人兄弟の長女で、上には一人長男がいたが、まさか長男に雑用はさせられない。ーーー今はそのように長男を労る理由もないが、当時はそういう時代だったーーーそしてそれぞれ四つずつほど年齢の離れた妹たちは祖母の言葉でいうと「まだ使い物にならない」。来客のたびに裏からお使いに走るのは長女の祖母の役目だったのだ。



天賦(てんぷ)の徳、とでもいうべきか。そのような曽祖父だったから、亡くなった時は大きな葬儀となった。人の列が絶えず、一月経ってもまだ訃報を聞いた人がぞくぞくと訪ねてくるので曽祖母はその間(ろく)に家を留守にもできなかったという。



曽祖父の話を聞いていると、人の心に()いた種子の芽吹きが肉眼に見えることはないが、受けた恩というものは人の心の何処かに必ず引っかかり、知らず知らずに芽吹いていて、そして意外にも忘れないものなのだと自然に呑み込めてくる。

こうしてつらつらと書いてきて、生まれる前に亡くなった曽祖父に今、会いたくて堪らない感情を自分でも持て余しつつある。かたわらでーーー不可思議なことではあるがーーー、懐かしいような気もしている。自分の記憶の何処かに、会ったことのない曽祖父の笑顔が刻み込まれている感覚が、確かにある。



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