慕情
初夏の爽やかな風が吹き抜ける。
彼女の白い素足に黒猫が身体を擦りつけた。天鵞絨のような毛並をした美しい猫の頭を彼女は軽く撫でてやる。エスパドリーユをゆらゆら揺らし、猫をじゃれつかせて遊ばせる。ガーデンテラスで彼女と昼食をとり、二人きりになる積りがとんだ邪魔が入った。可愛らしい闖入者。
美しい彼女は同じく美しいもの、可愛いものに目がない。今では僕が作ったトマトとバジルのパスタより、黒猫を愛おしむほうに、彼女の気持ちは傾いている。
悔しい。
僕の心情を察したのか、宥める口調で彼女が美味しいわね、と言った。
岩塩がよく効いているわ。
貴女の心に? と、僕はそう問い掛けたかった。イタリア産の岩塩を隠し味に使ったのは正解だった。美食家でもある彼女の鋭敏な味覚は、的確にそれを探り当ててくれた。空になった明るいグレーの皿は小石原焼で、内側にぐるぐると円を描いている。まるで僕の心みたいだ。僕が開けた取って置きの冷えたシャンパンを、彼女は一瞥しただけでなぜか味わおうとしない。
食事を終えた彼女に、僕はレモングラスのハーブティーを淹れて持って行く。いつの間にか黒猫は、彼女の膝にいる。
おい。調子に乗り過ぎなんじゃないか?
僕の気持ちも知らず、彼女に咽喉を撫でられごろごろとご満悦。僕の様々な心尽くしが、こんな猫一匹に劣るだなんて。
彼女のワインレッドの唇が動いた。
ごめんね。
声はない。なぜか、そう動いただけ。どうして。
どうして。
どうして。
あの時、既に彼女が不治の病だと知っていれば。
僕はもっと勇気を持って踏み出せただろうに。
秋の始まりを待たないで逝ってしまったあの人。
ハイネだっただろうか。
私は去りゆく夏であり、お前は枯れゆく森だった
彼女は去る夏にも枯れる森にも当てはまる。
去りゆく夏であり枯れゆく森だった。
風はもう緑を帯びず、ガーデンテラスに舞う葉は黄色に赤に染まっている。
僕がここで食事することはもうないだろう。
もう、ないだろう。
黒猫が鳴いている。