一.八紘、夜の森を駈ける
夜の森というと静寂な印象があるかもしれないが、丑三つ時にはまだ早かった。現に今も、風に軋む木の音がするし、遠くでフクロウも鳴いている、何かの動物が這い回る音だってする。
茨井八紘は、神代千砂と夜の林道を歩いている。
暗くなってからも、八紘は森から発せられる物音を丹念に聞き分けていたのだが、そろそろ飽きてきた。
怪異の捜索を始めてすでに五日が経つ。今日こそは標的を見つけようと、山道を虱潰しに歩き、谷を下り、尾根にも上ぼり、日が暮れるまで歩いたのだが、ついに痕跡すら見つけることができなかった。
千砂は相当に疲れたようで、日が暮れてからは黙ったままだ。修験で日本中の山岳を歩いた八紘にとっては、このぐらいの山歩きは苦にならなかった。
「この辺りにはいないようだな。明日は向こうの山を探すか」
「どこにするかは、今夜の観測を見てから決めましょうよ」
「『あやかし』はもう三日も標的を見失っている。勘働きを頼みにした方がマシだ」
「その勘働きが外れたから、今日も空振りだったんじゃあないの?」
千砂が懐中電灯の明かりを八紘の顔に向けてきた。抑揚の無い声は、不機嫌な証拠だ。
「分かったよ、怒るなって。『あやかし』の観測結果も参考にするから」
なだめられた千砂はため息をつくと、俯いて歩きだした。
しばらくの間、無言で歩く。木々のざわめきと足音、八紘が提げている太刀の金具の音だけが聞こえる。集中を解いてしまったので、森の気配もただの環境音になった。
「明日までに見つけられなかったら、経過観察にして調査は打ち切ろう」
「もう実害は出ているのよ?分かりませんでした、では済まないわ」
「妖気が散って、怪異が終わったのかもしれん」
日が経つごとに、妖気は雲散霧消して怪異が収まるのが普通だ。そして、そろそろ『あやかし』でも怪異を観測するのが難しくなる頃だった。
「このまま連休を仕事で潰すのは嫌だね。千砂だって、やりたいことはあるだろ?」
今は5月の連休真っ只中で、登山を楽しむ中高年やキャンプに来た家族連れを大勢見かけた。八紘には休みの予定は無いが、家でゆっくりするなり、気まぐれに出かけるぐらいのことはしたかった。
すぐ後ろを歩いている千砂の持つ懐中電灯が、八紘の歩く先を照らしている。林道の道幅は広く、砂利も敷いてあるので、足元に不安は無い。明かりは周囲の闇を際立たせる。暗闇でも目が利く八紘にとっては、明かりはむしろ鬱陶しかった。
だらだらと長い坂を上ったところで、千砂のスマホのアラームが鳴った。千砂が慌てて、スマホを取り出してチェックする。
アラームが鳴るということは、『あやかし』が何かを見つけたということだ。八紘は意識を集中させてみたが、妖気を感じ取ることはできなかった。千砂はくりくりとスマートフォンを操作している。
「八紘、何かいるわ」
「ようやくきたか」
「今、『あやかし』が怪異を捉えている。さっき通ったキャンプ場のそばよ」
「キャンプ場をうろついているのか」
「いえ、こっちに続く道を移動しているわ」
キャンプ場からここまでの間には分かれ道は無い。怪異が道伝いに来てくれるならここで待ち伏せられる。
しばらくすると、八紘にも何者かの気配を感じ取ることができた。ただし、感じ取ったのは妖気ではなく、人の足音だ。
「足音がする。千砂、明かりを消せ」
千砂は明かりを消すと、小首を傾げて耳をそばだてた。
「何も聞こえないわ」
「俺でもかすかに聞こえる程度だ。妖気の方はどうだ?」
「何も感じないわ。足音が聞こえるくらいなら、気配があってもおかしくないけれど」
八紘は五感が鋭敏なのに対して、千砂は妖気の感度が図抜けている。この感覚の違いが、良い具合に互いの弱点を補っていた。
どうやら、『あやかし』が見つけた怪異と、八紘に聞こえている足音の主は違うようだ。しかし、妖気を放っていないからといって、人であるという確証はない。
「ここで待ち構える。足音の方の奴が坂の下に出てきたら始めるぞ」
「人なのか、怪異なのかはっきりしていないわ」
「やることははっきりしている。人だったら助ける。怪異だったら斬る」
八紘は小さく息を吐いた後、腰をひねって太刀を抜いた。外見は修験者が提げている太刀と似ているが、飾り物ではなく実戦用に作られていた。
太刀を右肩に担ぐように構えて、深呼吸をする。軽い緊張と高揚で、髪がわずかに逆立つ。感覚が研ぎ澄まされていく。八紘は仕事前のこの状態が好きだった。いわゆる、血が滾るというやつか。
千砂はごそごそとリュックの中身を漁っている。道具はすぐに使えるように、腰に提げておけと言っているのだが、人目を気にして嫌がっていた。
足音の主よりも後方から、人間ではない、動物が駆ける音も聞こえてきた。それと同時に、はっきりと妖気を感じた。
道具の準備を終えた千砂は、スマホの画面を見つめている。
「『あやかし』から新しい観測画像が送られてきたわ。怪異はもうすぐここに来る」
「そんなこと、妖気を嗅ぎとればわかる。千砂、もうスマホはしまえ。目の前を見ろ」
坂道の一番下、闇と物体が溶け合って不明瞭になった辺りから、人影が現れた。ふらふらとした足取りで坂を上り始める、白っぽいシャツに、半ズボン姿の子供ようだ。ここまで近づいても妖気を感じないなら、人で間違いない。
「止まるなあ!こっちに来い!」
坂の途中で止まりそうになった子供に向かって、八紘は叫んだ。子供はびくりとしてこちらに顔を向ける。千砂が懐中電灯の光でこちらの存在を知らせると、子供は必死の形相で駆けてきた。やはり何かに追われているよ
うだ。
子供が坂の中ほどまで来たとき、ついにそれが現れた。周囲の空気は澱の中にいるような息苦しさを感じる。
「やっと見つけた」
妖気の渦から生まれた怪異、ーーいわゆる妖怪。自分たちが追いかけていた標的。
怪異は霧のような瘴気に覆われていて、夜目が利く八紘でもその姿は判然としない。そもそも、霧状の姿なのかもしれない。怪異は低い唸り声をあげて、猛然と坂を駆け上がって来た。
怪異が動くのと同時に、八紘も鳥の悲鳴のような甲高い声を上げて坂を駆け下りた。途中、子供とぶつかったような感触があったが、もう気にならない。
ぶつかる直前に、八紘は怪異の真っ向に太刀を振り下ろした。怪異は横に跳ねて斬撃を躱し、太刀は虚しく霧を切る。
渾身の一撃を躱され八紘はたたらを踏んだが、なんとか体制を立て直した。八紘と怪異の位置が入れ替わり、怪異が坂の上をとる。
「千砂!瘴気を祓い飛ばせ!」
八紘が叫ぶと、坂の上から突風が吹きつけ、周囲を覆う瘴気を吹き飛ばした。千砂はすでに術を仕込んでいたようだ。息苦しい瘴気が晴れると、瘴気の内に隠れていた怪異が露わになった。
怪異の姿形は犬のようだが、大きさは熊くらいある。半ば飛び出した目玉は血走り、がっしりした顎に太い牙が並んでいる。全身からしびれるような腐臭が漂っていた。
妖は遠雷のような唸り声を上げ、体を伏せていつでも跳びかかれる体勢を取った。
八紘は左半身を前に出して、太刀を胸のそばに立てて構えた。大上段から打ち込んだ初撃は隙も大きかったが、この構えなら敵に応じた動きができる。
怪異は八紘に向かって跳躍した。八紘は横に躱しつつ怪異の背中を斬りつけた。わずかな手応えは合ったが、肉までは切れていないようだ。
執拗に手元を狙ってくる怪異に対して八紘は太刀を小さく振って応じたが、致命傷を与えることができない。怪異の飛び込みが鋭く、どうしても振り遅れてしまう。受け身に回っていては、倒せる見込みはない。
何合かのやり取りで、八紘は怪異の動きを読めるようになった。じりじりと足先をにじるようにして少しずつ間合を詰める。剣先をわずかに動かして誘いをかけた。
怪異が動きだすと感じたその瞬間、先手を取って八紘が跳躍した。出鼻を取られた怪異はとっさに体を捻って躱そうとしたが、切っ先にかなりの手応えがあった。
怪異が悲鳴を上げるながら地面を転げ回る。左肩から脇腹にかけて血と瘴気が吹き出し、左脚はだらりと垂れている。怪異はめちゃめちゃに吠えて八紘を威嚇した。
「縛妖索!」
坂の上から千砂が放った縄が、妖の体に絡みついた。縄は蛇のように怪異の体を締め上げていく。見た目はただの虎ロープだが、妖気を通す念糸が撚りこまれていて、千砂の意のままに動く。
身動きの取れなくなった怪異に、八紘はすぐさま太刀の一閃を浴びせた。ぼたりと妖の首が転がり落ちる。
転がる首を足で抑えつけた八紘のそばに、千砂が駆け寄って来る。千砂は手にした直剣の鞘を払い、えいと気合いを入れて、妖の首にずぶりと突き刺した。
ぎょろぎょろと動いていた妖の目玉は白目を剥き、体の六穴から瘴気を吹き出した。
「祓い給え、清め給え」
千砂が長い祓詞を唱え、いつもの言葉で結ぶと、周囲の瘴気が四散した。まるで強風に巻かれたようだったが、服や髪の毛は少しも靡いていない。
「とりあえず、危険が無いように瘴気だけは払ったわ」
「怪異の正体はこれか」
瘴気の抜けた妖は、ぐずぐずに崩れた犬の死骸となっていた。大型犬のようであるが、ほとんどの部分が腐っていて、犬種までは分からない。死骸からはまだふつふつと瘴気が吹き出している。
「首輪が付いているわ。元は捨て犬だったのかしら」
「かわいそうな奴だ。許せよ」
八紘は片手で拝んでやった。怪異となった原因については、これから調べることになる。
「そういえば、子供は無事か?」
「そこの斜面に転がり落ちたわ」
「おい、助けてないのかよ」
「八紘が戦い始めたから動けなかったのよ。そもそも、あんたが弾き飛ばしたんでしょう」
「やっぱり、あの感触はそうか。じゃあ、千砂はここで待ってろ。子供を連れて来る」
八紘は子供とぶつかった場所まで戻り、道沿いの斜面を下りた。少し下りたところの、木の根もとで子供がうめき声を上げてうつ伏せになっている。木にぶつかって止まったようだ。
「立てるか?道に上がるぞ」
八紘が子供の腕を引っ張り上げると、子供はゆっくりと起き上がり、八紘の後を付いてきた。骨折やねんざはしていないようだ。
千砂のいるところまで戻ると、千砂は清めの作業を止めて、子供の応急手当を始める。八紘が灯りで子供を照らしてやった。少年だと思っていたが、よく見ると女の子だ。腕や脚に擦り傷がたくさんあるが、逃げている途中できたのか、自分が弾き飛ばしたときにできたのかはわからない。
千砂が傷の手当をしている間、少女は一言も喋らず、為すがままになっている。ショックで言葉が出ないのかもしれない。
「ありがとう」
千砂の手当が終わると、少女はようやく呟いた。蚊の鳴くような小さな声だった。
八紘は少女の正面に腰を下ろして、少女と目線を合わせた。ランタンに照らし出された顔は、さっきよりも生気を取り戻している。
「さっきはごめんな。化け物を倒すために必死だったんだよ。君は向こうのキャンプ場から来たのか?送り届けてあげるから」
八紘と少女の目が合った瞬間、少女の顔に恐怖が張り付いた。
「お・・おお・・・鬼・・・」
少女が始めて口を開いたが、わなわなと震えて上手く発音できていない。面倒なことをしたと後悔した。
「おい、落ち着け。獲って喰うわけじゃない」
「いやあああああああああぁぁ」
少女は絶叫すると、千砂を突き飛ばして、坂の下へ突っ走って行った。
「いった・・・。ちょっと!君、待って!」
尻餅を着いたまま千砂が声を上げたが、少女はあっというまに闇夜に消えた。
「あー、逃げたか。あんな元気があったのなら、怪異からも逃げられたんじゃないか」
「何がおかしいのよ。早く追いかけないと迷子になるわよ」
「この道をまっすぐ進めばキャンプ場に着くから大丈夫だろ。俺たちも誰かに見つからないうちに帰るか」
まったくと言いながら、千砂は救急箱をリュックに戻して立ち上がる。不満ではあるが、追いかける気力は無いようだ。
「だから、戦った後に顔を見せちゃ駄目って言ってるでしょ」
「やっぱりそんなに酷いか」
千砂は八紘を懐中電灯で照らして、上から下まで姿を眺めた。
「ええ、酷い。その顔じゃ誰でも逃げるわ」
少女と千砂の反応で大方の予測はつく。怪異の返り血を浴びて服も顔にも血のりがべっとりと付いている。きっと目はつりあがり、髪の毛は逆立っているのだろう。
「お前も‘牙生え’のくせに」
「だから、私は喋らなかったのよ」
「なんだ、そうだったのか」
返り血や形相だけではない、少女が鬼と呟いたなによりの証。
自分たちには牙が生えているのだ、鬼と見紛う異形の牙が。