地下室
シルフィーナの部屋から出たエレインは、部屋の少し離れたところにいた侍女にシルフィーナの用意が出来たら着替えの手伝いをするよう言い付け、公爵夫人のベアトリーチェと公爵の待つ仕事部屋まで向かっていた。
「…そんな深刻そうな顔をしなくてもいいのよ、エレイン」
堅い表情のエレインに、ベアトリーチェは微笑みながら声をかける。
彼女の顔は色を失い白くなっている。
「いいえ、奥様…私はシルフィーナ様をお守りすることを命じられている身なのです。にも関わらず、私は…」
「確かに貴女にも非はあるでしょう。たとえシルフィーナが一人になりたいと言っても側にいるべきだったのかもしれない。けれど今回はシルフィーナ自身にも非はあるわ。いくら家にいようと、あの子は油断するべきではなかった」
いつものただ微笑みを浮かべ公爵の後ろに控える彼女とは違う、強く、鋭い声と顔。
この家では、ベアトリーチェの立場はアルフレッドよりも下だ。
しかし彼女の持つ能力は公爵にも劣らない。
彼が留守の時はこの家を守る人間は彼女なのだ。
公爵家は王族に次ぐ高位の立場。
その夫人となるベアトリーチェは、それこそ現王妃であってもおかしくない程の能力を持っている。
というか、元々王妃候補でもあったのだが、その事実を子供たちは知らない。
「安心なさい。何か言われたら私が言い返してあげますから」
まるで悪戯っ子のような顔をして片目を瞑るベアトリーチェに、エレインは少しだけ顔を俯かせた。
エレインを拾ってくれたのは、公爵ではなくベアトリーチェであった。
今こそ公爵に仕える者ではあるが、その恩はけして忘れてはいない。
だからその娘であり、ベアトリーチェが大切に思っているシルフィーナを守れなかったこと、そしてそれを庇ってさえくれようとするベアトリーチェには申し訳ない気持ちしか浮かばない。
「顔をあげなさい。あなたはベルハイム公爵家の使用人なのよ」
「はい、奥様」
真っ直ぐな声にエレインは顔を上げ背筋を伸ばす。
そう、自分はいついかなるときもベルハイム公爵家の使用人。
あの日、綺麗な瞳と小さな手に救われ、全てを捨てこの方の手を取ったあの時から、自分はエレインとなったのだから。
「入るわよ」
ベアトリーチェは中からの返事も待たずにドアを開ける。
普段の公爵夫人としての顔はここにない。
「グレイ」
「旦那様は“下”に居ります」
「そう、ありがとう」
部屋に控えていた人物の中で一番長く仕えている老執事の名前を呼べば、彼は直ぐに答えを寄越す。
それを受け、ベアトリーチェは公爵の仕事部屋の絨毯を爪先で3回叩く。
すると、部屋のほぼ中央の床に光る四角い魔方陣が浮かぶ。
それが3回点滅すると、今度は魔方陣のあった床がまるで機械仕掛けのようにバラバラと動きだしその下に隠されていた階段が姿を現す。
「グレイ、もしシルフィーナかアルフレッドが来るようであれば隣で待たせておきなさい」
「承知いたしました」
「いきましょう、エレイン」
「はい、奥様」
地下へと続く冷たい石階段をヒールで叩きながら、ベアトリーチェは壁に掛けてあった瓶灯器を手に持つ。
それを受け取ろうとしたエレインだったが、ベアトリーチェはそれを気にもとめずにずんずんと長い通路を歩いていく。
その姿は、社交界で見せる夫人然とした静かで穏やかな雰囲気ではなく、どこか武骨で、けして歪むことのない強さを感じさせる。
そう、それはまるで、女騎士のように。
「…あなた、来ましたわよ」
「ベアトリーチェか。構わん、入れ」
鉄の扉を開け、ベアトリーチェは中へと足を踏み入れる。
それと同時に、ベアトリーチェは換装を発動する。
その姿は一瞬光に包まれ、次の瞬間には、ドレスの一部が甲冑となったものへと変わる。
手には細身の両刃剣も握られている。
「…あら?もう終わってしまったの?」
きょとんとして首を傾げるベアトリーチェの目線の先には、壁に両腕を固定され、目に光のない少年がいる。
彼は先程シルフィーナに襲いかかった庭師の少年だ。
「いや、その必要がない。彼は既に壊れている」
「…捨て駒ということね」
体にまったく力が入っていないのであろう少年は、時たま瞬きをし呼吸をしているだけで、半開きの口から垂れる涎を気にした様子もない。
おそらくもう、彼の中は破壊されているのだろう。
「何も聞き出せなかったの?」
「ああ。フェンリュとソルツェが彼を連れてきたときにはもう、こうだ」
「そう…」
公爵の言葉を受けて、ベアトリーチェは目を細める。
庭師として何度か言葉を交わしたことのある少年は、素朴な笑顔が愛嬌のある子だった。
今ではその面影をもなく変わり果ててしまっているが。
「ただ一つ言うのならば」
ふと、公爵が口を開く。
「掛けられた隷属魔法が完璧ではなかったことが救いだな」
その言葉に、ベアトリーチェはため息を漏らす。
違法とされる魔法、隷属魔法。
本人の思考を奪い、好きなように遠隔操作してしまうことができる。
その魔法自体は古くから、それこそ神話の時代からあるものとされて、大昔の戦争では捕虜に使い仲間同士で戦わせた非道な魔法と史実が残っている。
しかしその魔法は、“完璧”ではなかった。
なぜなら、神話に伝わる隷属魔法は、本人の思考を奪うだけではなく、まさに“傀儡”としてしまうものだと伝わっているからだ。
本来の隷属魔法は、掛けた相手の体を好きなように扱えるものなのだ。
そしてそれは、手足を好きなように動かす、なんて生ぬるいものではなく、命そのものもを握るもの…つまり、目が乾かないように瞬きをすることや、呼吸をするために肺を動かすこと、果ては心臓を動かすことも全て握るという魔法である。
もし完璧な隷属魔法であったなら、アルフレッドの発動した催眠系の魔法は効かずにいたはずだ。
なぜなら、相手はもはや人ではなく人形と言って差し支えないからだ。
「魔法を掛けた相手は辿れなかったのかしら?」
「フェンリュとソルツェがやってみたが、追跡妨害をかけているみたいだ。加えて、魔力自体も暗号化している」
「…かなりの遣り手ということね…」
隷属魔法というものは、相手の体内にある魔力に直接干渉し自分の魔力で体を動かすというものだ。
そのため、隷属魔法を使っている時はかけている者とかけられている者は魔力で繋がっている。
切ったとしてもその痕跡は残り、追跡魔法を使えば魔法をかけている相手を特定することも出来るが、今回の相手はこう言ったことの対策をしっかりしているようで、自身の魔力を暗号化という方法でバラバラにし、さらに自分自身に追跡妨害という魔法をかけて徹底的に辿られないようにしていた。
「これだけのことができるのならば、聖天魔導師と大差ない力を持っていてもおかしくない」
「そんな人間が隷属魔法を扱えるとなれば、国は混乱に陥りますわね」
頬に手をあて、まるでお気に入りの髪飾りが見つからないというように、ベアトリーチェは困ったと言う。
もちろんそんな姿は国が前代未聞の危機にさらされているかもしれないとは感じさせず。
公爵自身も、一つ息を吐き出すだけで特別険しい顔はしていない。
二人がそんな反応を返すのも、無理はないのだ。
なぜなら、ベルハイム公爵家は、
「完璧ではない隷属魔法ならば、対処のしようがある。まぁ、完璧であろうと関係はないがな」
「ええ、そうね。自分達の領分で首を掻き切られることなんてありえないわ」
だって完璧な隷属魔法は、すでにこの手の中にあるのだから。