始まりへの一歩
ベルハイム公爵領は王都の北にあり広大な土地を領地としている。
公爵と名を冠しているだけあり、領主であるシルフィーナとアルフレッドの父親はかなりの手腕を持っており土地は肥え、領民は適度に不自由ない生活が出来ている。
馬車の中から見る民の様子は穏やかだ。
(生かさず、殺さず、自分達は満ちているのだと信じさせる)
この領地の直ぐ側には、干魃が酷く食物や水が民に行き渡らない領地がある。
男爵家が治める小さな土地だが、そこへはベルハイム公爵領の民がボランティアという名の施しを定期的に行っている。
それはお父様が導入した制度で、それにより祖父の時は度々起こっていた反乱が激減した。
自分よりも苦しむ人間がいるだと、自分たちはとても恵まれた存在なのだと、目の前に突きつける。
そうして突きつけた貧しい者へ施しを与えることによって、皆は自尊心が満たされるのだ。
自分たちは領主の言いなりになるしかないという考えから、領主からの言葉により可哀想な人々に恵みを与えてあげる上の存在なのだと思わせる。
(しかも、止めとばかりに罪を犯した領民を領地から追放し、意図的に貧しい領地まで追い込むんだもの。そりゃあ、逆らう気力もなくなるわ)
ベルハイム公爵領にさえいれば、路頭に迷うことはない。
しかし逆らえば施しを受ける屈辱的な立場に落ちる。
自尊心が高められた人間には堪えられないだろう。
こうしてベルハイム公爵領主は民からの信頼が厚く、領地はどこよりも治安がよいとされているのだ。
「…着いたわね」
見慣れた家が姿を現し馬車が停止する。
乗った時と同じようにアルフレッドの手を取り馬車から降りると、出迎えの侍女と執事が頭を下げ待っていた。
「お帰りなさいませ、シルフィーナ様、アルフレッド様」
「ただいま帰りました。あの、アルフレッドのことは…」
「その事でしたらご心配には及びません。エレインから連絡を受けておりましたため、旦那様と奥様は既にご存知です」
「エレインが?」
後ろに控えていたエレインを振り返るが、相変わらず済ました顔をしている。
「はい。アルフレッド様がご同行されている旨を早鳥を飛ばしてお伝え致しました」
「さすがね、エレイン」
「恐れ入ります」
表情一つ変えない彼女は、私付きの侍女ではあるが、その実お父様からの回し者だと私は知っている。
お父様にとって私は、王族との繋がりを強固にするための道具でしかないのだ。
いや、私たちはと言うべきかもしれない。
アルフレッドの周りも、お父様の回し者が沢山いる。
けれど、まぁ、それは、次期領主としてしっかり育てるためであって、私のように道具とは思っていないだろう。
この世界は、前世の日本とは違い男尊女卑が所々見え隠れする世界なのだ。
「お父様、何かおっしゃっていたかしら」
只でさえ耳の早いお父様であるのに、加えてお母様は社交界の世界で広がる話はすべて漏らさないようにしている。
おそらく、自分のした行いに関しては既に耳に入っているだろう。
「いえ、いつもとお変わりありませんでしたよ」
「そう」
執事の言葉に、私は内心でため息を吐いた。
お父様が慌てふためいたり不機嫌な顔をしたりしている姿なんて見たことがない。
いつだって“変わりない”のだ。
「こちらです」
執事が指を指したのは、お父様の執務室の隣にある応接室だ。
「旦那様と奥様はすでにお待ちです」
「そう…下がっていいですよ」
「では、失礼致します」
案内をしてもらった執事を下がらせ、ドアを三回ノックする。
すると中から、低い男の声が入室を許可する返事を返した。
「失礼致します、お父様、お母様」
「よく帰った、シルフィーナ、アルフレッド」
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい、二人とも」
無表情の父と公爵夫人らしく穏やかな作り笑顔を浮かべる母に、令嬢らしく礼をとる。
アルフレッドも同じように挨拶をして、許可された椅子に腰をかけた。
「今日はどのような話をしに帰って来た、シルフィーナ?」
「…既にご存知であるはずですのに、それをお聞きになるのですか?」
「…では、我が娘シルフィーナが、男爵令嬢に公爵令嬢に相応しくない行いをしているという話に相違はないのだな?」
「はい。なんでしたら、アルフレッドに確認頂ければ間違いないと思いますわ」
ちらりと自分の隣に座るアルフレッドを見れば、彼は顔をしかめてみせた。
「そうか。では、わざわざ家に帰り父を呼び出しなんの話をするつもりだ?」
お父様の声は、酷く冷たい響きを持っていた。
それを聞き、懐かしいと思う。
幼い頃、何度も向けられたものだから。
「…私は、冷静になって考え、自分の行いがどれほど愚かなものであったのか気付きました。公爵令嬢として…いえ、令嬢としてあるまじき事をしてしまったのだと」
「……」
「私は次期国王となられるリアン様の婚約者…このようにただ一人のか弱い令嬢を貶めるようなことをする人間が、この国の国母となどなれはしません」
「シルフィーナ」
私の言葉をお父様の鋭い声が咎める。
その眉は、珍しく寄っていて。
「お前がなんと言おうと、次期王妃となってもらう。お前と殿下の婚約は、貴族界において重要な意味を持つのだ。幼い頃から言い聞かせてきたことのはずだが」
「…はい。それはもちろん、心得ております」
いつだって王妃になるためにとしてきた勉強の度に、この婚約は貴族界においてその上下関係を揺るぎないものとするためなのだと言われてきた。
お前はそのために欠かせない歯車である、と。
「ならば何をしに帰って来た?懺悔をするというならば、我々にではなくその男爵令嬢にするべきだろう」
「はい、それはもちろん……ただ私は、自分がどれほど至らないかを知りました。なので」
私はそこで一度言葉を区切る。
これから先が、私の大勝負なのだ。
「───私は、極北の地に行きたいと思います」