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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

エンジュとリーナの恋

作者: 菊代

 1 夢


 少女はわるい夢にとらわれていました。

 でも、少女は自分がふしあせだとは思いません。なぜなら、自分がわるい夢の中にいることに気がついていなかったのです。



「……このお話、怖い」

 使用人が語った物語にエンジュは声を震わせた。

「ふふっ。エンジュは怖がりね」

 エンジュの双子の姉、リーナは余裕のある表情で妹を笑った。

「リーナは怖くないの?」

「だってロアのお話が不気味なのはいつものことじゃない。もう慣れっこよ。それより、ロア!」

 リーナはロアという名前の女使用人を一瞥した。

「たまにはもっと楽しいお話をしてちょうだい! 私はいいけど、エンジュはいつも泣きそうになっちゃうわ」

「……考えておきます」

 ロアは眉一つ動かさず静かにそう言った。

「エンジュったら、まだ怖いの?」

 エンジュは顔を青ざめたままだった。目尻には涙の粒まで見える。そんな妹にリーナは慈しみをもって微笑んだ。

「大丈夫よ、私のエンジュ。悪夢だろうがなんだろうが、私が守ってあげるんだから」

「……ありがとう。リーナ。私もリーナのためなら……」


 *


 ユーグは領主の一人息子でありながら、少し変わった気性の持ち主だった。

 彼は何より自然を愛した。お供も連れず領内の森を馬で駆け回るのが趣味だった。

 容姿だけなら、とび色の髪に翠玉のような魅力的な瞳を持った美男子なのだが、周りからは変わり者として見られている。だが、本人は自分がどう見られているかなど、全く無頓着であった。人間との関わりより、森と触れ合い風を感じることのほうがユーグにとっては遥かに大切なことだったのだ。

 その日もユーグは領地の中の森を一人馬に跨がっていた。最初のうちは快調に馬を走らせていたユーグだが、次第に雲行きが怪しくなってきた。いつの間にか黒い雲に覆われた空は、やがて大粒の雨を降らし始める。雨粒は容赦なくユーグを打ち付け、視界を遮った。

 ――どこか雨宿りが出来るところはないだろうか。

 まさにそう思った時。鬱蒼と生い茂る森の向こうに、屋敷が見えた。


 *


 ――雨が弱まるまで、雨宿りさせてもらおう。

 そう思いながらユーグは門をくぐる。

 屋敷は立派な造りをしていたが、手入れは行き届いていないようだった。庭は雑草が生え放題になっている。この屋敷に人が住んでいないのではないかという不安がふと過ぎった。しかし、門から屋敷の扉にかけては人が頻繁に通っているような跡がある。

 焦げ茶色の大きな扉を目の前にして、ユーグは少し考えた。こんなところに住んでいるのはどんな人なのだろうか。魔女のような老婆でも出迎えてくれるのだろうか。

 少し躊躇ったが、雨に濡れた体は骨まで冷えきっている。雨の当たらない、出来れば火の当たるところへ行きたい一心で、ユーグは扉を叩いた。

 しばらく待っても返事はない。再び扉を叩くも、やはり誰も出てこなかった。

 ――きっと人手が少ない屋敷なのだろう。だから誰も出て来ないんだ。もしくは、留守にしているのかもしれない。

 恐る恐る扉を開いてみる。鍵はかかっていなかった。重い扉を開けて、ユーグは屋敷に足を踏み込む。玄関ホールは十分な広さがあったが、薄暗く少し埃っぽかった。ホールの隅に飾られた剣を持った甲冑も、より不気味さを煽る。

 その時だった。

「……誰?」

 か細い声がユーグの鼓膜を震わせた。

 そこにいたのは魔女などではなく――十五、六歳くらいの可愛らしい少女だった。

水色のフリルで縁取られた白いドレスに金色の髪。柔らかそうな白い頬。絵画から抜け出してきたような、どこか浮世離れした雰囲気を持っている。

 こんな森の奥深くに少女が住んでいるなんて、全くの不意打ちだった。

 呆気に取られていたユーグだったが、少女が不安そうに藍色の瞳をいっそう曇らせたので、慌てて名乗りをあげた。

「驚かせてしまい申し訳ありません。私の名前はユーグ。ユーグ・ベルーナルです。たまたま近くを通りかかったのですが、急に雨が降り始めまして……雨宿りさせて頂きたいのです」

「そうなんですか……」

友好的な笑顔のお陰か、少女の警戒心は和らいだようだった。

「……こちらへどうぞ。濡れたままじゃあ風邪をひいてしまいます」



 部屋に案内する途中、少女は自分のことをエンジュと名乗った。

エンジュに連れられて着いたのは、応接間だった。

 暖炉で赤い炎が小さく燻っているのが見えて、ユーグは思わず頬を緩ませた。

 ちょうどその時、部屋に一人の女使用人が入って来た。

「ロアさん、この方は……通りすがりのお客様です。ひどく体を冷やしているので、何か温かいものをお願いします」

 ロアは栗色の髪を几帳面にまとめた、冷たい表情の女性だった。

「分かりました。エンジュ様」

 ロアはユーグに頭を下げる。ユーグも軽く会釈をした。ロアはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。

 ユーグが暖炉に薪をくべていると、エンジュは安楽椅子を暖炉の近くまで運んでくれた。

「どうぞ……」

「ありがとう」

 雨を含んで重くなった上着を脱ぎ、椅子にかける。そして自分も椅子に腰掛けて一息ついた。

 心が落ち着くと、今度は好奇心が湧いてくる。

「ところで、この屋敷には他に人はいないのかい?」

「……いえ。リーナが――私の双子の姉がいます。リーナは昨日遅くまでロアさんのお話を聞いていたから、今は寝てしまっているけど……」

「他には?」

 この大きな屋敷に、他には家族や使用人はいないのか――そう続けようと思ったが、エンジュが黙って首を横に振ったのを見て口をつぐんだ。こんな辺鄙なところに住んでいる少女だ。それなりに事情があるらしい。

「……君はずっとここに住んでいるのかい?」

「三年くらい前から、です」

「屋敷から出てどこかに行くことは?」

「ないです。……外には怖いものがたくさんいるから……」

 小さく呟いたエンジュの言葉を、ユーグは繰り返した。

「怖いもの?」

「はい。ロアさんが話してくれたんです。外には狼や野犬や……怖い魔物がいるって」

「それは誤解だ。外には確かに危険なものもあるけど素晴らしいものもたくさんある」

 思わず力強い語りになったのは、それがユーグ自身の実感を伴うものだったからだ。馬に跨がり森を走り、野を駆ける時、ユーグは日常の嫌なことを忘れられた。屋敷の中では退屈な日常の繰り返し。だが一歩外に出れば、世界がいかに素晴らしいもので溢れているか実感することが出来るのだった。

「なんなら自分の目で確かめてみればいい」

「でも……」

 なお躊躇うエンジュに、ユーグは思わず立ち上がり手を差し延べた。

「不安なら」

 自分でもびっくりするくらい、自然に言葉が続いた。

「僕と一緒に行こう」


 *


 翌日になると雨はすっかり上がっていた。しかし、一人屋敷の外に出たエンジュの心は灰色に曇っている。ため息を一つつくと昨日のユーグの言葉が思い起こされた。

『明日、屋敷の前で待っている。だから――』

「……無理だわ」

 あの青年が信じられない訳ではない。外の世界への好奇心もある。だがエンジュの臆病で、一歩踏み出す勇気を持てずにいた。

 活発な姉ならばこんな時立ち淀んだりしないのだろう、とエンジュは思う。だがエンジュは、一歩踏み出すことすら怖いのだ。

 ぴちゃり。迷いながら扉の前を右往左往していると、小さな水音がした。昨日出来た水溜まりに足を踏み込んでしまったのだ。

 視線を落としたそこに映っていたのは、恐怖心で暗く陰ったエンジュ自身の顔。

 ――ああ、やっぱり私には。

「……リーナ」

 エンジュは縋るように姉の名を呟いた。


 *


 再びエンジュと会う約束を交わしたユーグは、エンジュの屋敷の前で彼女を待っていた。

 エンジュを待ち遠しく思う一方、本当に彼女が来るのかという懸念もある。昨日の様子を見る限り、エンジュはユーグの誘いを受けるか否か決めかねているようだった。

「おまたせ」

 そういって現れたのは、やはり昨日の少女だった。だが。

「……エンジュ?」

 ユーグは思わず語尾に疑問符を付けてしまった。

 そこにいたのは間違いなくエンジュなのだが、昨日会ったあの少女とは全く違う雰囲気を持っていたからだ。

 膝上の丈のスカートの黒い服。金色の髪を高い位置で二つに結い、自信ありげに口の両端を上げている。昨日と同じはずの藍色の瞳は、強い光をともしており、まったくの別物のようだった。

 愕然と口を半開きにしているユーグを笑いながら、彼女は言った。

「違う、違う! あたしはリーナ。エンジュの姉よ」

「姉……?」

 昨日エンジュが話していた、彼女の双子の姉のことを思い出す。確かに双子なら瓜二つの外見でも納得出来る。

「本当はエンジュも行こうとしていたんだけどね。最後の最後でやっぱり無理だなんて言い出したの。だから私に代わりに行けって」

「それで君が?」

「そう。私じゃ不満かしら?」

「いや、不満という訳ではないけれど」

「じゃあ行きましょう。――素敵なところに連れていってくれるんでしょう」

 リーナの満面の笑みに、ユーグも思わず頷いた。



 リーナを後ろに乗せて、ユーグは森の中を駆けた。

 リーナが掴む背中が、少しむず痒く、温かい。それをごまかすようにユーグは尋ねた。

「君もエンジュと同じで外に出ることがあまりないのかい?」

「……そうね」

「それや屋敷の外にいる狼や魔物が怖いから……」

「ち、違うわ! そんなのロアが話す作り話だもの! 全然怖くない……馬鹿にしないで!」

 顔を見なくとも、リーナが慌てているのが分かった。

「違う違う。僕も君のような可愛らしい娘が一人で出歩くのは危ないと思う」

「か、かわい……どうせ社交辞令でしょ!」

「そうだけど」

「な、なにそれ」

「本心でもある」

「ぅー……」

 言葉を失ったリーナは、何故かユーグの首をつねった。

「痛っ! 危ないな。手元が狂えば二人して馬から落ちることになるんだよ」

「……うるさい! そんなことより早く、貴方の言う『素敵なところ』に連れていってよ」

「もうすぐそこだよ」

 二人は森を抜けた。その先にあったのは――

「……綺麗」

 リーナは我を忘れ、呟いていた。

 美しい湖があった。さながら大きな鏡のように、水面に森と空を映している。向こう岸には大きな白い鳥が羽を休めていた。リーナ達が立つ場所は、タンポホが咲き黄色い絨毯のようになっている。

「素敵なところだろう?」

 思わず見とれるリーナの顔を覗き込みながら、ユーグは言う。

「ええ、とても」

「本当に美しいのは夕暮れ時だよ。沈んでいく太陽が湖を赤く染め上げて……言葉に出来ないような光景が見られる」

 その光景を想像しているのだろう。リーナは瞼を閉じる。

「見てみたい……でも、そんなに帰りが遅くなってしまったら、エンジュやロアに迷惑をかけちゃうわ」

「……そうだね」

 残念そうなユーグに、リーナはニコリと笑った。

「絶対に、また来ましょう。ロアにちゃんと話をして……エンジュも一緒に」

 リーナと過ごす時間は、まるで夢の中にいるかのように楽しかった。


 *


 ユーグはその翌日もリーナと会う約束をした。

 リーナはまた、一人で姿を現した。エンジュはやはり、外に行くのは怖いと言ったらしい。

「……僕は何か彼女に嫌われることをしただろうか。それとも君が何か言ったのかい」

「ユーグのせいじゃないわ。ただあの娘が臆病なだけ……」

 湿っぽくなった雰囲気を振り払うように、リーナは右手のバスケットを突き出した。

「今日はサンドイッチがあるのよ! 感謝して食べなさい!」



 二人は再びあの湖のほとりまで行った。

 いろんなことを話し、楽しい時を過ごした。そしてリーナが持ってきたサンドイッチをユーグが口にした――その時だった。

 ぐにゃり、と視界が歪み、ユーグは倒れる。青い空は瞬く間に暗くなっていった。

「ユーグ! ユーグ!」

 リーナの声を聞きながら、ユーグは意識を手放した。


 それは悪夢の始まりだった。


 2 悪夢


 気がついたらそこは青空の下ではなく、部屋の中だった。

「……最低!」

 いきなり、リーナの声が耳を刺した。

「ロアがそんなことをする人だと思わなかったわ……! ずっと信じていたのに! まさかユーグに毒を盛るなんて!」

 対するロアの声は、驚くほど平淡だった。

「私は毒など入れた覚えはありません……」

「嘘つき! だってあのサンドイッチを入れたのはロアだもの! この屋敷には私とエンジュとロアしかいないわ。エンジュは触ってもいないじゃない!」

「ですが……」

 ロアの言葉を待たず、リーナは興奮気味に叫んだ。

「言い訳なんて聞きたくないわ! ロアなんて……出ていってしまえばいいのよ!」

 ロアは何も言わなかった。部屋を出ていったのが気配で分かった。

 ――自分は毒を盛られたのか?

 だとしたら、なぜなのだろう。おぼろげな意識の中でユーグは考えていると、リーナがこちらを覗きこんだ。

「ユーグ……! よかった、目を覚ましたのね! 具合はどう?」

「ああ、大丈夫だよ……」

 声を出すとまた頭が痛んだが、リーナを安心させたい一心でそう言った。

「ここは……?」

 体は動かさず、頭だけを動かして周りを窺う。大きな鏡台や長椅子、片袖机があるのが分かった。窓から差し込む陽の傾き具合から、思った以上に時間が経過していることが分かる。

「私の部屋よ」

「僕はどうやってここに……?」

「覚えていないのね。サンドイッチを食べて急に体を壊してしまった貴方を、なんとか馬に乗せて……それでこの屋敷まで帰って来たのよ?」

「そうなのか……迷惑かけたね」

「いいえ。迷惑をかけたのは私のほうだわ……ロアがまさかあんなことをするなんて……」

 ユーグの頭に二日前に見た女使用人の顔が浮かぶ。

「あの人は……なんでこんなことをしたのかな」

「分からない。よく働いてくれたし、私も信頼していたけれど……でも確かに普段から、何を考えているかよく分からない女だったわ」

 リーナは申し訳なさそうに顔を曇らせている。

「だがこれで、この屋敷の使用人はいなくなってしまったんじゃないか……?」

「……今はそんなこと気にしなくていいわ。それより今は眠ったほうがいいわ。まだ顔色が悪いもの」

 リーナの言葉に従い、ユーグは目を閉じた。


 *


 ユーグは体に圧迫感を覚えて再び意識を取り戻した。

 うっすらと目を開けると、自分の体の上に人の形の白い影が見える。

 ――リーナ……いや、エンジュ?

 ぼんやりと考えていたその時。

 いきなり、二本の手が伸ばされ、ユーグの首を捕らえた。

「ぐっ……ぅ……!」

 詰まった悲鳴を口から漏らしながら、ユーグは必死に抵抗した。彼女を振り落とそうと、目覚めきっていない体を動かし、両手を掴んで引き離そうとした。しかし彼女の爪は容赦なく、深く、深く食い込む。息をすることもままならない。

 ――このままでは……

「死んでしまえ」

 彼女の呟いた言葉にユーグの意識は一気に覚醒した。死ぬものかと思うと、力が体の底から沸き上がる。死力を尽くしたユーグは、彼女を寝台から落とした。

 彼は酸欠と驚愕から息を切らしながら、床に落ちた少女――エンジュに視線を落とす。身を起こした彼女は、あの自信なさそうな様子からは想像出来ないほど、憎しみのこもった目でこちらを睨んでいた。憎しみだけでなく、殺意、そして狂気が入り混じった目だ。

「……君は……どうしてこんなことを……」

「……私にはリーナが必要だから」

「別に僕は君から彼女をとるつもりはない!」

 エンジュは立ち上がり、背を向けた。そしてゆっくりと机に近付く。

「私にとってリーナが必要であるように、リーナにとって私が必要じゃないといけない……という意味です」

「意味が分からない……」

「こういう意味です」

 再びこちらを向いたエンジュの手には、先が銀色に光るペンがあった。

 なにをするつもりだ……、とユーグが言うその前に。


 エンジュはペン先を自分の左腕に突き刺した。


 ユーグは絶句した。その間もペンは抜かれることはない。それどころかエンジュは、ペンをぐりぐりと捩り自分の腕の穴を広げようとするのだ。白いドレスはあっという間に血で染まっていった。

 何よりもユーグが恐怖を覚えたのは、リーナの表情だった。喜びと安堵が混じった微笑みが、少女の顔に張り付いていた。

 狂気。今の彼女を表すにはその一言に尽きる。

 ――まるで、悪夢のようだ。

 そして思った。彼女は危ない。ここにいては自分の身が危ないと。

 もはや体の不調を気にしている場合ではなかった。ユーグは寝台から飛び起き、振り返りもせずに部屋を後にした。



 エンジュはユーグを追わなかった。

ユーグは何度も道を間違えながらも、玄関までやってきた。やっとこの屋敷から出られると胸を撫で下ろしたとき、背後の物陰から人影が現れた。

 ――まさかエンジュ……!

 しかし、振り返った彼の目に映ったのはエンジュでもなければ、リーナでもなかった。

「……ロアさん」

 恐ろしく無表情な女性がそこにいた。

「貴女は……リーナに追い出され出ていったのではなかったのですか」

「……エンジュ様とリーナ様のお世話がわたくしの仕事です」

「貴女はあの二人のことを知っているんですか? エンジュは……」

 ユーグの脳内にあの悪夢のような光景が蘇る。

 しかしロアはまったく違う話を始めた。

「ユーグ様こんな話を知っていますか。人を惑わす悪い夢の話です。その夢に囚われた者はずっと夢の世界で一人きり……でも自分ではそのことに気付くことが出来ないのです」

「何の話を……?」

「悪い夢は傷付いた少女にとり憑きます。例えば……母親を失い、父親の愛情も失った孤独な少女。彼女を癒せるものがあるとしたら……それはただ一つ」

 一瞬、ロアの無表情が崩れ哀愁を帯びた表情になった。

「……どうかエンジュ様、そしてリーナ様をお助け下さい」

「ロアさん……」

 もう一度、彼女のほうを見る。彼女の二人を想う気持ちには間違いなく偽りがないようだ。

「……分かりました」

 最早逃げるつもりはなかった。ユーグにとっての彼女達もまた、すでに掛け替えのない存在だった。

「お願いします。……わたくしはこれで。リーナ様に見つかっては話がややこしくなりそうです」

 ロアはそういい残し外に出て行った。

 扉が閉まった瞬間、声が響く。

「ユーグ!」

 声のほうに視線を向ける。二日前エンジュと出会ったその場所に、今はリーナがいた。

「これは……これはどういうこと!」

 リーナの瞳は怒りに満ちていた。彼女が投げたのは袖が赤くそまった白いドレス。

「貴方がエンジュを……エンジュを傷付けたのね……!」

「違う!」

「信じてたのにっ!」

 ユーグの言葉はリーナに届かない。

 リーナは玄関ホールに飾られている甲冑に歩みよると、それが差している剣を抜いた。

 ユーグは総毛立った。

 薄暗い中で鈍い光を放つそれは、ユーグに深手を負わせるには十分だろう。リーナはそれを振り上げ、ユーグに切り掛かった。

 無茶苦茶に振り回される刃は、埃っぽい空気を切りながらユーグを追い詰める。いくら相手が非力な少女であるとはいえ、丸腰のユーグに対抗する術は無かった。あっという間に壁際に追い込まれる。

「止めろ、リーナ!」

 ユーグの制止虚しく、凶刃は振り下ろされる。ユーグの身体を引き裂く、その前に――ユーグは右手でリーナの手首、左手で刃を掴んだ。左手は皮が破れて肉が裂け、骨まで達した。瞬く間に血が溢れる。もっと鋭利な刃だったならば、指は切断されていただろうが、幸いそれは免れた。

「もう……止めろ……リーナ……」

「止めないわ……エンジュはあたしが守るもの……!」

 指の痛みに耐えながら、ユーグはロアの言葉を思い出す。

 助けてください。ロアはそう言った。

 ――助けろっていわれても……。

 その時、ユーグは左手のぬるりと生温い感覚に気付いた。指の間から滲む赤い血。ユーグの血ではない。これは。


「君は……エンジュなのか……?」


「何を言ってるの、あたしはリーナ……」

「じゃあこれは!」

 リーナの左手をぐっ、と掴む。

「あの時、自分で傷つけた傷じゃないのか!」

 リーナは目を泳がせ、動揺しているようだった。

「違う! あたしは……!」

 そして、リーナの瞳に映ったのは――


 剣に映ったエンジュの顔だった。


 3 覚醒


 あるところに幸せな貴族の娘がいた。

 優しい父と母。父親は母親を愛し、娘を愛していた。彼女自身、思っていた。自分は世界で一番幸せだ、と。

 だが幸せは、あっけなく消え去る。

 娘が重い病を患ったのだ。一週間高熱にうなされ、生死の境をさ迷った。母は彼女を寝ずに看病した。やがて娘は回復し――今度は母親が同じ病にかかった。彼女は、そのまま帰らぬ人となった。

 幸せな家族は悲嘆に包まれた。誰より悲しんだのは、父だった。それまで優しかった父は、酒に溺れた。酒が入った父は普段では考えられないほど暴力的になり、娘を殴った。


 ――どうしてだろう。

 冷たい床に転がり、父親に殴られた額の痛みに耐えながら、彼女は思う。自分は幸せなはずだ、世界一、幸せなはずだ。それなのに。それなのに。

 身を起こして、彼女は割れた鏡に映った自分を見た。そこには幸せな少女などいなかった。血で顔を汚した、淀んだ瞳の少女が映っていた。

 ――違う。

 ――違う! 違う!

 これは私じゃない。

 そう、私じゃないのだ。私にそっくりな……私の双子の妹だ。妹がこんなに怯えているのだ。姉の私が守らなくっちゃ。

「もう大丈夫よ……エンジュ」

 彼女は語りかける。鏡の中の妹に。


 彼女には愛すべき人が必要だった。

愛してくれる人が欲しかった。

 だから彼女は悪夢に囚われた。孤独という苦痛から逃れるために。

 そうして『エンジュ』と『リーナ』が生まれた。


「大丈夫よ、私のエンジュ。悪夢だろうがなんだろうが、私が守ってあげるんだから」

 リーナはそうやってエンジュを励ました。鏡の中で震える、妹を。


「お願いリーナ。わたしの代わりに、ユーグさんとところへ行って……」

 エンジュはリーナに懇願した。水溜りに映った姉は、仕方がないわねと言って笑った。



 お互いを愛し合うことが、お互いの存在意義。

 しかしある日一人の青年が現れる。

 リーナが彼に心惹かれ始めたことで、エンジュとリーナの調和が崩れ始めた。だからエンジュは青年を排除しようとした。彼を傷つけて、自分を傷つけて。そして青年がエンジュを傷つけたと勘違いしたリーナは青年を殺そうとまでした。

 だが、気付いてしまった。


「君は……エンジュなのか……?」


 青年が真実に気付いた瞬間、リーナとエンジュの記憶が、交錯する。

 エンジュの悲しみが。リーナの喜びが。

エンジュが雨の日に出会ったずぶ濡れの青年の記憶が。

リーナが湖のほとりで青年と過ごした、楽しい時間が。

今まで交わることのなかった記憶は、ぴったりと合わさる。そして正しい姿を形作る。

悪い夢から醒め、少女はすべての現実を理解する。

 自分はリーナでありエンジュ。本当は双子の姉妹など存在せず、リーナもエンジュもいないのだ。

 本当は愛してくれる人もいない。守ってくれる人もいない。ひとりぼっち――


「僕が君を助ける」


春風のように温かい腕が彼女を包み込んだ。

「君は……一人じゃない」

 ユーグの優しい声に、体の力が抜けるのが分かった。剣は音を立てて床に転がり落ちる。

目の前には、優しい頬笑みを浮かべるユーグ。

「ぅ……ぁ……」

 少女は嗚咽を漏らしながら、涙を流した。苦しみの涙でも悲しみの涙でもない、温かい涙を。


 *


 しばらくして傷が癒えた頃、ユーグは再び彼女を訪ねた。

 彼女は屋敷にいなかった。ロアに訊けば、彼女は毎日あるところに出かけているという。

 その場所をどこか聞く前に、ユーグは走りだしていた。

 彼がやってきたのは、かつてリーナとやってきたあの湖。ちょうど黄昏時で、夕日が森の向こうに沈もうとしていた。すべての景色が橙色に染め上げられ、空に浮かぶ赤い太陽と湖映る太陽の二つが一つの壮大な景色を作っている。


 そこに一人の少女がいた。薄桃色のドレスに、ヘッドドレス。風に靡いた金色の髪は、夕日を浴びて光り輝いて見えた。

 ユーグは考えるより先に、彼女の名前を呼んでいた。


「エンジュリーナ……」


 振り返った少女は優しく微笑んだ。恋知り初めの少女のように、淡く頬を染めて。


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