一章 天才爆誕
初めまして
第一章 天才、十三歳になる
目を覚ましたとき、最初に思ったのは、
――病院じゃない。
ということだった。
天井が低い。
白くない。
木の梁がむき出しになっている。
鼻をつくのは消毒液ではなく、少し湿った土と、古い木の匂いだった。
俺はしばらく天井を見つめていた。
頭が痛い。
体も重い。
事故に遭った。
そこまでは覚えている。
研究所を出たのは夜の十一時過ぎだった。
雨が降っていた。
横断歩道。
ライト。
ブレーキ音。
そこから先がない。
「……ここは?」
声を出して、俺は固まった。
声が高い。
自分の声ではなかった。
布団から手を出す。
小さい。
細い。
研究室で何年もキーボードを叩いていた三十二歳の男の手ではない。
「え?」
起き上がった。
部屋の隅に銅の鏡があった。
近づく。
鏡の中に、知らない少年がいた。
十三、四歳くらいだろうか。
頬は痩せている。
髪は長い。
額には汗。
俺が右を向けば、少年も右を向いた。
「嘘だろ」
少年もそう言った。
その瞬間だった。
頭の奥で何かが弾けた。
知らない記憶が流れ込んでくる。
名前。
家族。
村。
父親。
母親。
師匠。
経書。
筆。
科挙。
俺はその場に座り込んだ。
*
俺の名前は、陳子昂。
十三歳。
江南の小さな町に住んでいる。
父は薬種商を営んでいる。
大金持ちではない。
しかし、息子を勉強させられる程度には余裕がある。
そして父には、一つの夢があった。
息子を官僚にすること。
そのために必要なのが科挙だった。
「……なるほど」
俺は机の前に座った。
頭の中には二人分の記憶がある。
一つは陳子昂という少年の記憶。
もう一つは前世の俺。
高瀬直人。
三十二歳。
専門は人工知能。
十七歳で大学レベルの数学を終えた。
二十歳で修士。
二十四歳で博士号。
大学と企業を行ったり来たりしながら、機械学習の研究をしていた。
世間では天才と呼ばれていた。
自分でそう名乗ったことはない。
だが否定するほど謙虚でもなかった。
記憶力。
計算力。
論理的思考。
どれを取っても、人よりかなり優れている。
だから、状況を理解したあと、最初に浮かんだ感想はこれだった。
「科挙か」
笑った。
「余裕じゃないか」
世界史で知っている。
中国で行われた官僚登用試験。
難関試験として有名だった。
何年、何十年と挑戦し続ける人間もいたという。
しかし、それは昔の話だ。
教育法もない。
検索もできない。
効率的な暗記法も知られていない。
そういう時代に生きる人間同士が競争していたから難しかっただけではないのか。
こちらには現代人としての知識がある。
しかも俺は、勉強そのものを苦にしない。
一年。
いや、半年。
本気でやればどうにかなる。
そう思った。
その日の夕方までは。
*
「続きを申せ」
老人が言った。
白い髭。
細い目。
手には竹の棒。
俺は正座していた。
左右にも少年たちが並んでいる。
この町で子供たちに経書を教えている王先生だった。
俺の記憶によれば、かなり怖い。
「子曰く、学びて時にこれを習う――」
先生がそこまで言った。
俺は答えた。
「亦説ばしからずや」
「続けよ」
「朋あり遠方より来たる、亦楽しからずや」
「続けよ」
「人知らずして慍みず……」
そこまでは出た。
その先。
「……」
出ない。
竹の棒が机を叩いた。
パン、と乾いた音がした。
「続きは」
「少し待ってください」
教室の空気が止まった。
隣の少年が俺を見た。
先生の眉が動く。
「待つ?」
「はい。思い出せそうなので」
「経書が、試験場でお前を待ってくれると思うか」
「いや、そういう意味では」
「最初から」
仕方なく最初へ戻る。
今度は最後まで言えた。
「次」
また文章。
答える。
「次」
また別の箇所。
三つ目で詰まった。
四つ目でも一字間違えた。
五つ目では語順を間違えた。
王先生は何も言わなくなった。
それが一番怖かった。
授業が終わったあと、俺だけ残された。
「子昂」
「はい」
「病み上がりとは聞いている」
「はい」
「だから今日のところは叩かぬ」
今日のところは。
嫌な言い方だった。
「しかし、このままでは県試どころではないぞ」
「覚えればいいんですよね」
先生の目が細くなった。
「何を」
「四書五経を」
「そうだ」
「全部」
「当然だ」
「一字一句?」
「当然だ」
俺は黙った。
先生も黙った。
「……全部ですか?」
「今、そう言った」
「意味を理解していればいいとかではなく?」
「一字違えば、一字違ったのだ」
「いや、それはそうですけど」
嫌な予感がした。
「全部でどれくらいあります?」
竹の棒が机を打った。
「数える前に覚えろ!」
*
俺はその夜、初めて本気で経書を開いた。
そして三時間後。
机に突っ伏していた。
「無理だろ、これ」
意味が分からないわけではない。
むしろ意味を理解するだけなら、それほど難しくない。
論語。
孟子。
大学。
中庸。
人間はどう生きるべきか。
政治とは何か。
君主とは何か。
家族とは。
徳とは。
そういった思想が書かれている。
内容を整理する。
比較する。
論理構造を抜き出す。
そこまではできる。
問題は、
一字一句覚えろ。
という部分だった。
「こんなの検索すれば一秒なのに」
言ってから虚しくなった。
スマートフォンはない。
パソコンもない。
インターネットもない。
検索エンジンもない。
俺は初めて気づいた。
現代人は、自分の頭の外に巨大な記憶装置を持っていたのだ。
分からなければ調べる。
忘れたら検索する。
論文は保存する。
電話番号さえ覚えない。
だが、この時代では違う。
試験場に持ち込めるのは、自分の頭だけ。
経書そのものを頭の中へ入れておかなければならない。
「なるほどな」
俺は起き上がった。
少し面白くなってきた。
無理だとは思わない。
方法を変えればいい。
まず情報量を分類する。
頻出箇所。
注釈。
出題形式。
必要な精度。
忘却曲線に合わせて復習する。
翌日、一週間後、一か月後。
前世で使っていた記憶法も試せる。
俺は紙を取り出した。
学習計画を書き始めた。
一刻後。
父が部屋へ入ってきた。
「何を書いている」
「勉強の予定です」
「予定?」
父は紙を見た。
一日目。
三日目。
七日目。
十四日目。
三十日目。
復習する日を細かく書いてある。
父はしばらく眺めていた。
「勉強というものはな」
「はい」
「朝起きて、夜寝るまでやるものだ」
「いや、それ効率悪いから」
「こうりつ?」
「忘れる直前に復習した方が定着するんです」
父は無言になった。
「誰に教わった」
「自分で考えました」
「お前が?」
「はい」
父の顔に喜びが浮かんだ。
「病で頭がおかしくなったと思ったが」
「ひどいな」
「むしろ良くなったらしい」
そう言って出ていった。
俺は再び紙を見る。
よし。
暗記はどうにかなる。
次は試験問題だ。
陳子昂の記憶をたどる。
経典の理解。
文章。
詩。
やがて上の段階へ進めば政策についても問われる。
俺は少し笑った。
政策論。
これは得意分野だ。
前世では統計も経済学も学んだ。
社会制度も歴史も知っている。
治水なら流体力学。
税なら経済学。
人口なら統計。
疫病なら公衆衛生。
この時代の人間より、何百年分も先の知識がある。
「やっぱり余裕じゃないか」
俺はそう呟いた。
*
三か月後。
王先生は俺の暗唱を途中で止めた。
「もうよい」
「まだありますけど」
「分かっている」
「続けます?」
「いらん」
先生は渋い顔をした。
四書のどこを聞かれても答えられるようになった。
五経もかなり進んでいる。
同じ教室の少年たちは、もう俺を変な目で見ていた。
最初の一か月は、
病気のあと急に勉強を始めた。
くらいだった。
二か月目には、
何かがおかしい。
になった。
三か月目には、
あいつは化け物だ。
になった。
気持ちは分かる。
俺自身、この体の若さには驚いていた。
記憶が入る。
睡眠を取れば疲れも抜ける。
前世の三十二歳の脳より明らかに使いやすい。
「先生」
「何だ」
「そろそろ文章を教えてください」
「まだ早い」
「暗記ばかり飽きました」
竹の棒が飛んできた。
避けた。
「避けるな!」
「当たるじゃないですか」
「当てるために投げた!」
周りが笑った。
王先生も怒鳴りながら、少しだけ笑っていた。
その日の午後。
初めて本格的な文章を書くことになった。
題が与えられた。
俺は喜んだ。
ようやく暗記ではない。
自分の頭を使える。
「好きに書いてよろしいですか」
「題から離れなければな」
「分かりました」
俺は筆を取った。
考える。
儒教的な解釈。
その問題点。
人間の行動原理。
政治制度への応用。
前世で知った社会科学の考え方も、直接名前を出さなければ使える。
書いた。
かなり良かったと思う。
自信があった。
王先生へ渡した。
先生は読む。
一行。
二行。
三行。
眉間のしわが深くなる。
最後まで読み終えた。
「どうです?」
先生は俺を見た。
「子昂」
「はい」
「お前は官僚になりたいのか」
「もちろん」
「なら、この文章は二度と書くな」
「え?」
「落ちる」
一瞬、意味が分からなかった。
「どこが悪いんです?」
「全部だ」
「論理は通ってますよ」
「通りすぎている」
「何ですか、それ」
「お前は聖人の言葉を借りて、自分の考えを述べている」
「それが論述でしょう」
「違う」
先生は答案を机に置いた。
「試験で問われるのは、お前が賢いかどうかではない」
「じゃあ何です?」
「お前が、正しく学んだかどうかだ」
「同じじゃないですか」
「違う」
先生の顔から笑いが消えた。
「大いに違う」
俺は答案を見る。
自信作だった。
少なくとも、前世なら高い評価を受けただろう。
先生は俺の最初の一文を指した。
「ここ」
「はい」
「朱子の説から外れている」
「知ってます」
「知っていて書いたのか」
「こっちの方が合理的なので」
王先生が額を押さえた。
「子昂」
「はい」
「お前は、試験というものを何だと思っている」
俺は少し考えた。
「正しい答えを書く場所」
先生は首を振った。
「違う」
「では?」
「正しいと定められた答えを書く場所だ」
部屋が静かになった。
俺は何も言えなかった。
その夜。
自室で、自分の答案を何度も読み返した。
内容は間違っていない。
論理も崩れていない。
それでも落ちる。
ようやく分かった。
俺は科挙を甘く見ていた。
知識があるだけでは駄目だ。
頭がいいだけでも駄目だ。
この時代には、この時代の正解がある。
俺が正しいと思うものではない。
採点する側が正しいと認めるもの。
その違いを理解しなければならない。
机の上には、王先生から渡された一冊の文章集があった。
過去に高く評価された答案だという。
俺は最初の頁を開いた。
一行読む。
二行。
三行。
そこで笑った。
「そういうことか」
これは知識の試験ではない。
少なくとも、それだけではない。
規則がある。
型がある。
採点者がいる。
評価される文章と、評価されない文章がある。
なら。
分析すればいい。
俺は紙を一枚取り出した。
左側に「高評価」。
右側に「低評価」。
そう書いた。
現代の研究者だった俺にとって、
答えを覚えるより、
評価の仕組みを見つける方が得意だった。
その夜から。
俺は科挙を勉強するのをやめた。
科挙そのものを、研究し始めた。
ありがとう




