影を踏む女
「紙書類ってなんでなくならないんだろうな」
机の上に積まれた山を見ながら、天音香子はため息を吐いた。
「姐さんみたいな人が一目見てわかるようにっすよ」
隣の机から、鮫島キヨがそれに答える。電子書類になったらこれ以上に溜め込むでしょ、と言われて天音は閉口した。図星だ。目に見えないとやらない。
捜査一課。そう聞くと、難事件解決!休まず次の難事件!とドタバタに走り回っているイメージがあるだろう。だが実情はこれだ。事件調査の間に差し込まれる書類書類書類の山。見るだけでげんなりしてしまう。
まあ、事件が多ければ多いほど書類は増えるんだけれども。これで済んでるだけ有り難いのかもしれない。
「手が止まってるっすよ」
「ニコチン切れたからかも」
ちょっと休憩、と天音は立ち上がる。腰までかかる長い髪が、それに合わせて動く。デスクの煙草と携帯だけをひっつかんで、伸びをした。
そんな様子を見ながら、鮫島は声を掛ける。
「喫煙室、今月から電子専用になりましたからね」
「え 聞いてないんだけど」
「姐さんの耳が聞いてなかっただけっすね」
吸うなら外っすよ、とひらひらと手を振る鮫島に舌打ちをして、天音は警察署の外へと向かった。
心地良い陽気の中、煙草に火を付ける。空気に溶ける紫煙を見ながら、電子煙草への移行を検討する。いやでもあれ、吸った気にならないんだよな。そう思いながら、また煙を吐いた。
「あ、あの、すみません」
ぽこぽこと煙草をふかしていると、申し訳なさそうに隣から声がした。なんだ、邪魔したかな。そう思いながら隣を見ると、ひょろりと背の高い男が立っていた。
いや、まじででかい。隣の自販機追い抜いてるじゃん。
困ったような顔をした男性を見あげながら、天音は口をぽかんと開けた。
「すみません、人を探していて……赤い髪で、僕と同じくらいの身長の、男性、見ませんでしたか」
困った顔をした男の後ろから、ひょっこりと元気の良い男が顔を出す。
「見ませんでしたか!」
この男も、自販機を追い抜いている。こいつもかよ。類は友を呼ぶのだろうか。
「い、いや、見てねえけど」
「そ、そうですよね! ありがとうございました!」
呆気にとられながら言うと、男はがばっと頭を下げた。派手な紫の髪が目に痛い。絶対警察関係の男じゃない。煙草を吸い殻入れに押しつけながら、天音は口を開いた。
「生活安全課はあっちなんだけど」
捜索願ならそっちで出せるよ、と言うと、男達は顔を見合わせた。
「あ、えっと、そういうのは出せなくて」
「俺達、高瀬くんがヘビースモーカーだからもしかしたらいるんじゃないかって思って!」
「あ、高瀬くんっていうのが探してる人の名前で。 すみません、どこでもいいんで、この人なんですけど見たことありますか」
男は携帯電話の画面を見せる。燃えるような赤い髪に、癖のない端正な顔立ちの男が、そこには写っていた。
「いやー、見てはない……と思う……」
恐らく見てはいない。しかしどこかで見たことのあるような気がする、そんな男に天音は目を細める。
画面にずいっと顔を近付けると、男は「あ、やっぱり大丈夫です」と慌てて画面を引いた。
「わ、分からないならそれで! 大丈夫なので……失礼しました」
ぺこりと頭を下げて紫髪の男は元気の良い緑色の髪の男を押しながらその場を去ろうとする。
この二人がでかいということは探し人もでかいのだろうか。
高瀬、という名前。赤髪。高身長。端正でどこかで見たことのある顔。脳内をひっくり返しながら記憶の糸をたどる。
「……高瀬彰人」
思い出した名前を男達の背中に投げると、男達は血の気のない顔で振り向いた。
ずらりと並んだ新鮮なネタを口の中に放り込む。寿司を前に固まっている男二人を見ながら、天音は茶を啜った。
昼休憩ついでに、困っていた二人の話を聞くことにした。あれほど必死に探していたのだ、何か力になれればと思ったのだ。
紫髪の男は藤姫匡、緑の髪の男は杜本奏と言うらしい。
「とりあえず食えよ」
二つ目の寿司を掴みながら天音は二人に促した。藤姫と杜本は戸惑いながら寿司を口に運ぶ。
ビビらせてしまってなんだか申し訳ないな、と思う。昼間で個室で誰も聞かれないような場所が寿司屋くらいしかなかったのだ。許せ。
「高瀬彰人。顔がいいスタントマンだろ。ラビットライダーやってた」
三つ目の寿司を頬張りながら天音は二人に話しかける。二人の男は顔を見合わせて、こちらに向き直りコクリと頷いた。
ラビットライダー。日曜日の朝に放送している特撮ヒーローだ。俳優は変われど昔からスタントマンは変わらなかったが、最近顔がいい若いスタントマンが少しだけ務めていると話題になっていた。
癖のない顔と、爽やかな笑顔。そして燃えるような赤い髪が一目見ただけでも強く残っている。
「今は、辞めてモデルやってるんです」
「へえ、そりゃ驚いた」
素っ頓狂な声をあげる天音に、二人は顔を見合わせる。
「刑事さんって、全然ニュース見ないんですか?」
「結構しっかり取り上げられてましたよ」
そう言いながら、二人はスマートフォンで調べてニュース記事を見せた。
そこには人気スタントマン高瀬彰人、交通事故で両足負傷と書かれていた。
事故自体は知っていたが、これこいつのことだったのか、と天音は閉口する。なんというか、知っていたとは言い辛い。
「え、と、行方不明、なのか?」
「いえ、連絡は取れてるんですけど」
「戻ってこないんです」
もぞもぞと歯切れの悪い回答が返ってくる。まだこちらを信用していないのか、それとも何と言っていいのか分からないのか。二人は何度も寿司と互いの顔を交互に見ていた。
連絡は取れるけど、戻ってこない。そうするとはじめに思い当たるのは新興宗教か。まあそれに類似たものか。
「なんか変な宗教にハマっちゃってみたいな?そういう感じだと」
「ち、違います!」
「宗教は宗教なんですけど、違くて!」
二人は天音の発言に否定の言葉を被せた。
ぽかんとする天音に、二人は決意したように頷く。
「刑事さん」
「白い花の咲く教会って知ってますか」
町の丘の上に、それはひっそりとあった。
美しい廃墟。そのように見えた。
木造作りの質素な建物は、天音が知っている教会とは違ってかなり重苦しい。遠目から見ても分かる、渋く深いダークブラウンの建物。吸血鬼でも住んでいそうだ。
教会へと続く石畳の道の横には背丈の低い白い花が咲き誇っている。お辞儀をするように垂れ下がる花々に導かれるように、天音は扉の前に立った。
重厚だが温かみのある扉。取っ手を触ると、裏腹にひんやり冷たい。ずるり、と握った手から汗の感覚がする。彼女は大きく息を吸った。
吐く息と同時に扉をぐっと押す。全く動かない扉に首を傾げてもう一度押す。鍵がかかっているのか? そう思いながら一度扉から手を離すと、横からすっと何かが伸びてきた。
生っ白い、透き通った手だった。
「逆ですよ」
薄氷を割ったような、霜柱を踏んだような、澄んだ声がした。驚いて隣を見ると、惹き込まれるような水色と目が合う。男はにこりと笑うと取っ手を引いた。
ぶわり、と。
溜まった空気が抜け出して、天音の肩を凪いで行く。
「ようこそ、御心教会へ。 本日は見学でしょうか」
全身真っ白のその男は、笑みを湛えてそう言った。
「白い花の咲く教会?」
時は少し戻り、寿司を頬張っていた頃。
聞いたことのない話に、天音は首を傾げる。
「ええ、幽霊がいるって噂の」
「丘の上の教会なんですけど」
そういう二人に、天音はふぅん、と相槌を打ちながら残りの寿司を頬張る。なんだ、幽霊だのなんだの、そういう話か。
ちゃんと聞いてやろうと思ったのに、オカルトなんてふざけてやがる。
「その教会に、撮影に行ったんですよ僕達」
「めちゃくちゃ綺麗で、神父さんも優しくて、幽霊なんて絶対嘘だねーって話してて」
でも、と二人は続ける。
「撮影終わったあとに、神父さんに高瀬くんだけ呼び止められてて、二人で話してたんです」
「その翌日から、高瀬くんが、一週間くらい休むって言い出して……それで、連絡は取れてるんですけど」
「いる場所は教えてくれなくて……」
二人は言葉を切って天音を見た。
「どう、思います?」
いや、どうって言われても。天音は首を傾げた。
「僕達、神父さんが怪しいんじゃないかって思ってるんです」
二人はそう言って天音を見つめる。真剣な眼差しに、天音は少したじろいだ。イケメンというのは、顔の圧が強い。そんなことを初めて知った。
「高瀬くん、仕事しっかりするんです。だけど、ずっと目の下にクマがあって、しかもなんだか、不安そうで」
「だから僕たち、本当に心配で。高瀬くんってすごく真面目だから」
「どこに行っても見当たらないし、この辺りの喫煙所も、さっきのところが最後で」
「最近行ってて、見に行ってない場所、あの教会しかないんです」
じり、と二人が天音に迫る。いや、そう感じるだけだ。二人の圧に流石に箸を置いた。
「僕達、あそこの神父さんが、高瀬くんを変にしちゃったんじゃないかって思うんです」
「洗脳とか、そういうので」
真剣な顔で、二人はそう言った。断定した言葉は使っていないが、恐らく二人の中ではもう決まっているのだろう。
高瀬彰人は、花咲く教会に居る、と。
そして恐らく二人は、このあと教会に行くのだろうと。
全く、優しい顔して頑固な奴らだ、多分こいつら。
刑事の勘、こんなところで発動しなくてもね……。
天音は息を吐いて眉間を揉んだ。
「分かった、お前らの主張は、分かった。 いつ行くんだ。 私もついていくから」
そう言う天音に二人はブンブンと手を横に振った。
「いや、そんな! 自分達で行きますから大丈夫です! 」
「ただ、連絡先教えるんで、もし僕達が連絡してこなかったら、その可能性があるってことで、警察に動いてもらえればって……!」
あたふたとする二人に、天音はあのなあ!と語気を強める。
「そこまで聞いといて二人だけで行かせられるか!」
恐縮しきってる二人に天音はもう一度ため息を吐いた。
「近々だと私が今日仕事終わってからだ。 待てるか」
煙草を出そうとして、仕舞う。飯屋は大体禁煙になったことを思い出した。本当に世の中生き辛くなったものだ。
二人はこくこくと頷いた。穢れのない瞳が、天音を見つめる。
イケメンの瞳も、やはり圧が強い。
目線を反らしながら、天音はない煙を吐き出した。
「生憎本日はもう見学時間は終わっているんですが、ここまで来てくださったんですし、特別ですよ」
真っ白な服の神父はそう言って自らの唇に人差し指を当てる。
「他の人には言わないでくださいね」
そう言って小首を傾げる。淡い茶色の髪が、夕焼けにキラキラと光っていた。欧米の顔つきのその神父から、すらすらと日本語が発されているちぐはぐさに、天音は少し混乱する。
「ええと、ここの神父?」
「神父、ではなくて牧師ですよ、刑事さん」
笑みを湛えたまま、神父……牧師は教会の中へと入っていく。続くように天音も教会へと入った。
コツコツと足音が木造の教会内に響く。扉の閉まる音を背中で聞いた。牧師は振り向いた。
「さて」
胸に手を当てて頭を下げる。
「華岡麗と申します。 なにかお尋ね事があれば、お答えしますよ」
そう言って華岡は顔を上げる。薄い空のような瞳が、少しだけ歪んだ。吸い寄せられる。目を反らせない、ということが本当にあるんだと思った。
首筋に、汗が伝う。伝い切る前に、口を動かした。
「……ここに、高瀬彰人は居るか」
華岡麗は、微笑む。
「……居ますよ」
牧師は刑事に近付く、笑みを浮かべながら。
刑事を指差す。
「な、なんだよ」
「来ます」
そう言った華岡の視線は、天音より後ろを捉えていた。
視線の先を、天音も追う。
その指の先。重く鎮座している扉を。
バタバタと忙しない音と扉が乱暴に叩かれる音が響く。
「ああ全く。だから逆ですって」
そう言いながら華岡が扉に駆け寄り、ドアノブを押すと、でかい男がなだれ込んできた。
「刑事さん、いました高瀬くん!」
「いましたー!」
そう言って手を両サイドから持ち上げられた高瀬彰人は、紛れもなく困惑した顔をしていた。
「いやだから、一週間休みもらってちょっと教会手伝ってただけだよ」
高瀬彰人はそう言って不服そうに腕を組んだ。すらりと伸びた手足は、どう見ても一般的な長さより長い。三人並ぶととんでもなく目立つな、と天音はまじまじと派手髪の男達を見つめる。
「いきなり休んでびっくりしたよ! 場所も言わないし!」
「そうだよ! なんか様子おかしかったし!」
「ちゃんと事務所には言ってたよ」
「「そういうことじゃない!!!!」」
両サイドから大声で怒鳴られて、高瀬は至極迷惑そうな顔をしていた。いや、迷惑なのはこっちだ、と天音はため息をつく。こっちはボランティアで来てやってるんだぞ、人騒がせな。
「ここは電波もないですからね、連絡も取り辛かったでしょう」
にこにこと笑いながら華岡は続けた。
「心配されるかもしれないので、きちんと皆さんに説明してくださいね、とは言ってましたけども」
ね、高瀬くん。と華岡は笑顔のまま高瀬を見あげる。僕の信用問題に関わりますからね、と笑みを湛えたまま言った。
「す、すみません」
笑顔の圧に気圧されながら、高瀬は頭を下げる。大きな体が小さく見えた。両サイドもつられて頭を下げる。でかい三人が体畳むと圧巻だなあ、おい。
「おい、お騒がせ共。 私は帰るぞ」
折り畳まっている三人組を天音は呆れた目で見つめる。
「あ、はい!」
「ほんとに、ありがとうございました!」
そう言って、二人は天音に頭を下げた。
全く、人騒がせな。天音は眉を下げて少し笑う。
「高瀬くんも、準備しなさい」
華岡はそう言って高瀬の背中をポンと叩いた。
「もう、迷うことも無いでしょう」
「……はい」
そう言った高瀬の瞳は、しっかりと前を見据えていた。
階段を、ひとつひとつ下る。先ほどの教会とは違って、三人組は静かだ。
ぽつり、と藤姫は呟くように言葉を零す。
「今度から、ちゃんと僕らに話してよ」
杜本は、悲しそうに高瀬を見つめた。
「……そうだな」
高瀬はそう言ってふわりと笑った。
夕焼けが優しく、彼らを包み込んだ。
そんな彼らを、天音は眩しげに見つめていた。
丘の麓でお騒がせ三人組と別れ、天音は深くため息を吐いた。
酷く、疲れた日だった。労力にしては対価が少なかった、そんな日だ。
「まあ、何事も無くてよかった」
そうひとりごちながら、三人の背中を見送る。拍子抜けするくらいが丁度いい。それだけ平和なのだから。
一人ひとりの小さな幸せを守ることが出来たなら、それで。
夕暮れ、大きくなった自分の影を、踏みながら歩く。
小さい頃、こんな夕暮れをパトカーの中から覗いていたことを思い出した。
親が弟の看病に忙しく、よく一人でブランコを漕いでいた。
キイキイ、キイキイ。日暮れまで漕いでいると、決まって見回りのパトカーから声をかけられた。
パトカーで送られながら、色んな話をした。学校のことや、遊びのこと。親に聞いてもらえないことをたくさん話した。
近所のお兄さん、近所のおじちゃん、そんな感覚だった。
とても、とても救われていた。
自分もそんなお巡りさんになりたくて、警察官になった。
交番で、町を見守るような、そんな警察官になりたかった。
日が落ちて、影が大きくなる。
良い警察官になるために、努力した。努力は実を結び、優秀な警察官になれた。
優秀過ぎた。
その実は、大きくなりすぎた。
私は交番に勤務することなく、刑事課に配属された。
それに不満を持ったことは無い。
本当に。
本当に、無いのだ。
影は大きくなり、私の鼻先を掠めた。
鼻先を?
「本当に?」
蠢く黒い塊は、粘土細工のように形を変え、女性の姿へと変貌した。
黒黒とした大きな瞳には、お巡りさんの私、が映っていた。
「過去に後悔を置いてきたのね?」
影から生まれた女は、そう言って私の顎を持ち上げる。
「可哀想に、お嬢さん。 その後悔、私なら無くしてあげられるわ」
動物のような瞳が嬉しそうに歪む。
「見て、ほら、私の中。 見えるでしょう? 今とは別の貴女。 こうなりたかったでしょう?」
女の瞳の中の【私】が、笑いかける。瞬きの度に、場面が変わる。自転車で巡回する。お年寄りと会話をする。ひとりぼっちの子どもを家まで送り届ける……。
その瞳に、手を伸ばした。
「ふざけろよ」
静かに怒りに満ちた声が、夕景に溶ける
伸ばした手をぐわっと広げ、天音は女の顔面を片手で握り、そのまま女を道路に叩きつけた。
「なんだお前、私を馬鹿にしてるのか」
這いつくばった女に跨るように立ち、天音は続ける。ビカリ、と天音の後ろに夕焼けが光る。
「私は私だ。 過去もひっくるめて全部な」
見下ろす天音に、女はニィーッと笑った。フィルムのような目がまだ、知らない自分を映している。
おかしいな、かなり強く叩きつけたと思ったが。血一つ出ちゃいねえ。ゾワゾワと肌が粟立つのを感じた。まじでなんなんだこいつは。
ずる、と地面と何かが擦れる音がして、天音はひゅっと息を呑む。
ヒトではないくらいに細い四肢が、天音の脚に絡みつく。嘘吐き。そんな声が脳髄から響く。そんな筈、無いわ。ね。そうでしょう。そう囁いてくる。
脚にへばり付く女を引き剥がそうとするが、全く離れない。それは植物のように、蔦となってグルグルと天音に巻き付く。
「素直になって、お嬢さん」
耳を這う蔦の先から声がした。
「いやまじで本当にねえから!!!! キモすぎるだろ!!!!」
そう天音が叫ぶと同時に
ゴーン ゴーン と
教会から、音がした。
大きな鐘の音だった。
音がしたと同時に、女は金切り声をあげた。
ズルズルと天音の拘束を解き、影の中に戻っていく。
とぷりと影が波打ったあと、その場には静寂が訪れた。
「な、なんだ……?」
天音は恐る恐る自身の影を踏もうとした。するり、と影は逃げていく。何度も試みるが、全く踏むことができない。
あ、そうか。自分の影って、普通踏めないのか。
そんなことを考えていると、刑事さんと声をかけられた。
真っ白な牧師が、肩で息をしながらこちらに走ってくる。
「無事……そうですね。 珍妙なダンスしてましたけど」
「は?」
珍妙とは失礼な、天音はダンスを止めて腕を組む。
「見ましたか」
「あ?なにを?バケモン?」
華岡は、はぁと息を吐きだした。
「すみません、少しお話できますか」
あそこで、と華岡は丘の上の教会を指さした。
まさかとんぼ返りするなんて思わなかったな、と天音は出された紅茶を啜る。
大きめの長四角の机は、古いながらも綺麗に拭き上げられていた。大きめのクッキーを頬張ると、素朴な味が口の中で広がった。
「もう一度聞いていいですか」
真っ白な牧師、華岡麗は難しい顔をしながら天音に人差し指を立てた。
「だからぁ、なんか影から女が出てきて、過去を変えてやるって言うから、いらねえって地面に叩きつけた。 そしたらなんか変化して蔦みたいなん絡まって、やべーなって思ったら鐘の音聞こえていなくなった」
紅茶おかわりある? と天音が聞くと、華岡は苦い顔をしながらカップに紅茶を注いだ。 喋ると喉が渇くなー、と天音は紅茶をまた啜る。
「……これまでに今回みたいなモノに会ったことは」
「あるわけねえだろ、あんな化物」
「はぁ……そうですか……」
華岡はそう言って自分も紅茶を啜った。呆れた顔がカップ内の水面に映る。ええ、呆れた顔の、僕。僕も同じことを思っていますよ。こいつ頭イカれてんじゃねえかってね。
「そんで、神父さん。 アレは一体なんだったんだ」
天音は机に肘をつき、カップを回しながらそう言った。
「牧師です」
華岡は訂正する。
どちらでもいいだろ、と天音は天を仰ぐ。暖かい蛍光灯の色が目に染みる。
「貴女が言うように、化物ですよ」
高瀬彰人に憑いていた、ね。と華岡は窓の外を見た。
夕暮れは少しずつ、闇に溶けていった。
数日前に遡る。教会を撮影場所として提供していた華岡は、明らかに顔色の悪い青年、高瀬が目に留まり、声をかけた。
どうも、色々なことを考え過ぎていて、寝つきが悪いらしい。華岡はそれなら教会に少しだけ泊まってはどうかと声をかけた。
華岡には見えていた。高瀬に人に才能を与え、代わりに生気を啜る。そんな化物がついていることが。
「はじめはね、化物の話はしていなかったんですよ」
そう言いながら、華岡はテーブルの下に手を伸ばし、おいでと小さな声で言う。
「でも、この子たちを見て、彼は話してくれたんです」
再びテーブルに戻された華岡の手には、小さな人形がちょっこりと座っていた。
なんだ、と覗き込むと、その人形はとてとてと動いて天音のもみあげから伸びた長い髪を引っ張る。
「いってー! なに!?」
「この教会に棲む妖精です、近いのは座敷わらしですかね」
人形はくるくるとした瞳で天音のもみあげを三つ編みにして遊んでいる。丁度掌くらいのサイズのそれは、楽しそうに天音を見上げた。
「おやおや、君。気に入りましたかこの刑事さんが」
「気に入られてんのこれ」
くるくると三つ編みを増やされているのを無視して華岡は続ける。
「高瀬くんは、これ、人じゃないですよね、と言いました。それで、スタントマンに戻れると何度も何度も言ってくる化物について話してくれたんです。だから、僕は心が決まるまでここにいなさいと言いました」
最終的に友人が迎えに来てくれたことで未練が断ち切れたようですね、と華岡はうんうんと頷く。
「いやまって!? 私そいつに襲われたの!? 」
「はい」
「過去への未練なんてないのになんで!?」
「知りませんよ、なんか誤解されるようなこと考えてたんでしょ」
華岡のその言葉に、そういやあの瞬間センチメンタルだったわと天音は思い返す。
「誤爆で襲われたん……?」
そう言った天音に華岡は呆れた目を向ける。
「あのね、あの化物は、普通はあんなことしないんですよ。しっかり心が決まって断れば去っていくようなやつなんです」
「え?」
「貴女が地面に叩きつけたから危険だと思ったんでしょ。そりゃあ殺されかけたら強硬手段に出ますよ」
正当防衛ですよ、と華岡は呆れ声で言った。いやこっちが正当防衛なんですけど。理不尽すぎないか。
むすりと椅子に深く座り直す天音を他所に、華岡は左を向いてああ、と呟く。
「ときに刑事さん」
「あ?」
「こちら、なにかありますか」
華岡はそう言って左を指さす。その後ろには整然としたキッチンが佇んでいる。
「キッチン……」
「ああ、やっぱり。なるほど」
華岡はそう言ってうんうんと頷く。なんだこいつ。天音は眉間を寄せる。
「とりあえず、これ差し上げるので、付けておいてください」
華岡は十字架のついたネックレスを渡す。
「え、なんで。これ」
「魔除けですよ魔除け。困るでしょまたあんなのに会ったら」
「いやもう会わねえよ」
「会います、必ず」
今までの笑みを引っ込めて、華岡は天音を見つめる。空の瞳が、今は氷のように冷たい。
その目に少し気圧されながら、天音はネックレスをポケットに仕舞う。
華岡はにこり、と笑って先ほどの調子に戻る。
「お困りごとはこちらまで。どうぞお気軽に」
そう言いながら、華岡は名刺を差し出した。 教会の住所と電話番号だけのシンプルなもの。 なんだか駆け込み寺みたいだな、と思いながら名刺を受け取る。
両サイドのもみあげを細かく三つ編みにした人形は、満足したようでどこかに駆けていった。
「……ねえ、こういう事が起きたときって、いつもこんな感じで話して名刺渡してみたいなことしてるの?」
「?そう、ですね。僕で力になれればと思って」
「ふーん」
駆け込み寺、か。名刺をペラペラと鳴らしながら、天音は口の端を持ち上げた。
じゃあまた! と言いながら刑事は教会を後にした。
疲れた、とても。 華岡麗は余所行きの笑みを剥がしながら宿舎へと向かう。 窮屈な仕事着を脱ぎ捨てると、そのままベッドへとダイブした。
一週間、他人と過ごした総仕上げがこれだ。 心身共にヘトヘトだ。
カチ、カチ、と、近くで何かの当たる音と洋服の擦れる音がする。
「……ミニスター」
呟きながら脱いだ仕事着の方に視線を向けると、しゃれこうべと目が合った。
しゃれこうべはずいっと華岡に近付いて顎をカタカタと鳴らす。
「Mr。 いけませんよそんなにだらしがなくて。 子羊たちが見たらどう思うか」
「見てないから問題ないし、今日くらい赦して」
「いけません。 日頃の習慣は所作に出ます」
「わかった、パジャマ取って」
「いけません、体を清潔にされてください」
「ぁー……」
頭をかきながら、華岡は起き上がる。 しゃんと背筋、いや、背骨を伸ばし、華岡の服をハンガーに掛ける骸骨がそこにはいた。 白いワンピースを着た骸骨、ミニスターの横を、気怠げに歩いてシャワールームへと向かった。
「……あの、刑事さん。気付いていませんでしたね」
「うん」
「私のことはまだ見えないのですね」
「そうみたい」
シャワーを浴びながら、ミニスターとそんな会話をする。
本当に今日は、騒がしかったなぁ。
明日からまた、静かな日々だ。 そう思うと少し気持ちが軽くなった。
天井の埃を隅まで払い、庭の花のひとつひとつから花殻を摘もう。
幼稚園の説教内容も考えなければ。
いつもの単調な仕事がご褒美のように感じる。
シャワーから戻り、ミニスターに「素晴らしい」と褒められた後、ベッドに横になる。
華岡麗は、まだ知らない。
天音香子の、警察官を志したきっかけも。
「じゃあまた」がそう遠くない未来だということも。




