短編その2『三笠inスエズ港』
スエズ運河の地中海側の出入り口である港湾都市ポートサイド。
その時、その港に運河の通行準備のために、1隻の艦船が入港していた。
戦艦三笠
日本海軍が大英帝国に発注した最新の、そして当時としては最大最強の戦艦である。
「その」最大が問題だった。
実際のところ「三笠」が砲弾以下の戦闘準備を整え、
石炭・食糧その他の消耗品を定量通りに搭載していては、
とても「当時」のスエズ運河を通行する事は無理だった。
したがって、運河を通過できる状態にするための作業が進行中だった。
運河を通過した紅海側の港で再び搭載出来る物は、同伴する艀に積み替えたりしていた。
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その艦尾、本来、この戦艦を旗艦とする提督が散歩するための施設である
Stern Walkと呼ばれるテラスに、1人の少女の姿が在った。
何故かヨーロッパ系の容姿と、帝国海軍の仕官の服装という姿の。
この艦の命と心である(艦魂)三笠だった。
※
艦魂。それは「ふね」を愛するものたちの語り継ぐ伝説。
彼らは、彼らの愛する「ふね」に、命と心が宿ると信じた。
ゆえに、“それ”ではなく、“彼女”と呼んだ。
ゆえに、彼らは信じる。目に見えないだけ、耳に聞こえないだけ。
1パイの「ふね」には、必ず、1人の「彼女」が居る。
若く美しい乙女の姿をした、心優しき精霊。
依代となる「ふね」が水上に誕生するとともに宿り、
その依代が「ふね」としての生涯を終えるとその存在が消えるという。
※
三笠は、砂漠の地平線へと延びる運河を見つめていた。
そして、その運河の続く先、これから自分の“故国”と成って行く、
未だ見知らぬ国を想い浮かべていた。
そして、その国で自分を待っているだろう「姉」たちを。
「三笠」は敷島型戦艦「敷島」「初瀬」「朝日」に続く同型4番艦だった………。
……。
…1900年(明治33年)11月8日。
イングランドの内でのスコットランド寄り、アイルランドの対岸に所在する
ヴィッカース社の造船所で、戦艦「三笠」は進水した。
その時(艦魂)三笠の誕生を祝福してくれた艦魂たちは、当然の様に英国人ばかりだった。
そして「三笠」の「姉」たちも、英国国内とは言っても別々の造船所で建造され、
その上「この」時点では日本へと回航されていた。
それでも「三笠」を受け取るべく日本から遣って来た男たちが、例え「彼女」が見えなくても
「彼女」の存在を信じ、三笠を愛そうとしていた………。
……。
…やがて「彼ら」と共に、三笠が旅立つ時が来た。
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ようやっと、運河をすり抜けた「三笠」は紅海側のスエズ港で、
地中海側で降ろした何やかんやの再登載中だった。
これだけの手間を掛けても「当時」のスエズ運河を通過出来るのは「三笠」でギリギリ、
そこに「三笠」の「最大」の意味が在った。
やがて「三笠」が戦うバルチック艦隊は、
すでに戦争中であるため戦闘準備状態だった事も手伝って、
スエズ運河を通過出来ず、遠くアフリカ大陸を迂回する羽目に成る。
そこまで計算の上で「最大」を、帝国海軍は発注した。
すでにして「三笠」が英国を出発した時、日露開戦まで2年を切っていた。
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やがて、出港準備を終えた「三笠」は再び碇を抜き、紅海を巡航して行った。
紅海からインド洋、更に南シナ海を経て太平洋へ。
その行く先に目指すのは日本。
(艦魂)三笠にとっては、初めて目前にする「故国」
そして、これから戦友と成って行く仲間たち。
そして…初めて会う3人の「姉」
それらの全てが、その時、三笠を待っていた………。
……。
…1902年(明治35年)5月18日
「三笠」横須賀軍港に到着。
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その同じ港、横須賀。
記念艦「三笠」は、今も存在する。
そして…「彼女」三笠も。
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