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2-3


 クラリスは、出かけていくモニカとアランを見送り、家の中に戻るといつも通り掃除を始める。今日は談話室とダイニング、それと二つある客間の掃除だ。使っていない部屋は、毎日するのではなく順番に三日おきくらいに行われている。その代わり、毎日使っているキッチンやシャワールーム、お手洗いや各自の部屋は毎日の掃除が基本だ。

 ロナルドの執務室はアラン、寝室はモニカが担当なのでクラリスはそれ以外の担当だ。

 窓を開けてはたきをかけて、床を掃き清め、カーペットは丁寧に専用のブラシをかけてごみを取り除き、床は雑巾でピカピカにする。

 ついつい鼻歌を口ずみながら、クラリスは床を雑巾で磨く。

 昼食は、モニカがサンドウィッチを作ってくれた。

 モニカに言われた通り、大皿に山盛りにされたそれから、一つだけ自分の分を取り分けて、残りは、紅茶のセットとともにワゴンに乗せて二階のロナルドの部屋に運ぶ。

 このワゴンは魔道具なので、風魔法で浮いているため、階段でも使用できるのだ。

 ロナルドに、まだ雇ってもらったお礼を言えていない。昼食を仕度させてもらう際にお礼を伝えようと決意する。

 ロナルドの自室の扉をノックする。ややあって応えが返ってきたので、ドアを開けて中に入る。

 ロナルドの部屋に入ったのは初めてだったが、ベッドとソファセット、本棚だけの簡素な部屋だった。執務室はこの隣なので、デスクなどはそちらにあるのだろう。


「昼食をお持ちしました」


「ありがとう。ここへ」


 ソファで本を読んでいたロナルドが顔を上げ、目の前のローテーブルを指さしたので、クラリスは大盛りのサンドウィッチをそこへ置く。

 朝も信じられない量が彼の胃に消えたが、きっとこれも消えてしまうのだろうと思うとやはり感動だ。


「君は午後は何を?」


「午後にはモニカさんたちが戻られるので、そのお手伝いになると思います。普段は繕い物をしていますが、今日のモニカさん、夕食はごちそうだからと、とても張り切っていましたので」

 クラリスの言葉にロナルドがわずかに頬を緩めたが、すぐにどこか緊張した面持ちになった。


「……クラリス。君もここで働くなら知っていてほしいんだが」


 ロナルドが固い声で告げた。


「俺は過剰生成型魔力過多症という病気を患っている」


「魔力、過多症?」


 初めて聞く言葉に思わずおうむ返しになってしまった。


「ああ。今のところ俺以外に同じ病気を持つ人間はいない。魔力というのは溜められる量が決まっているだろう? もちろんそこには、年齢、性別、血筋、種族など様々な要因が絡んで、溜められる量には大きな個人差がある」


「はい。……私はほとんど魔力はないのですが」


「ヴィムから聞いている。器のわりに魔力が少ない、と。だが、俺の過多症はその逆なんだ。このティーカップが俺の魔力の器だとする。それで紅茶が魔力だ。ポットは魔力を生成する機能だと思ってくれ」


 そう言ってロナルドはポットを手に取るとカップに紅茶を注いだ。


「普通、器がいっぱいになれば生成は止まる。だが、俺の魔力生成機能は限度を知らず、こうして器から魔力が溢れても絶えず魔力を生成している。俺が生きている限り、延々と」


 カップからあふれた紅茶がソーサーの上に溜まる。だが、それすらもすぐに決壊して、テーブルの上にこぼれて行く。そこでロナルドはポットを傾けるのを止めた。


「これが魔力過多症だ」


 そう言って彼が指をふると、紅茶はポットの中に戻って行った。


「さらに厄介なことに俺の魔力の性質が非常に強大で攻撃的だ。俺の魔力に触れると相手は魔力酔いを起こす。俺自身に直接触ってしまうと、皮膚が焼けただれる」


「……だから、手袋を?」


「ああ。これや俺の服には魔力が漏れるのを防止する魔術がかけられている。とはいえ、満量になって魔力が零れ出すと、意味はないんだが……日頃から人に触れないように気を付けているが、万が一、触れてしまった時用だな」


 ロナルドは、なんの感情も浮かばぬ顔で頷いた。


「魔獣討伐のあとなんかは、魔力が空になるから、直接触れることはやはりできないが、魔力酔いは起こさなくなるので、こうして対面で話していても平気だし、あの日のように皮膚同士が直接触れ合わなければ君を抱き上げたとしても大丈夫なんだ。だが、ひとたび魔力が溢れて漏れている時は、騎士団の執務室にこもっているほかない」


「……ロナルド様には影響はないのですか?」


 そんなにも強大なものを身に宿すというのは、クラリスでは想像もできない負荷がかかるのではないかと心配になってくる。


「……最近は少し影響が出始めているな。年々、周りに与える被害も大きくなってきて……なかなかアランとモニカにも顔を見せに帰って来ることができなかったんだ。魔獣騎士と揶揄されるように、本当に魔獣になってしまうのかもしれない、と思う日々だ」


 なんと言葉をかければよいか分からず、クラリスはおろおろと視線をさまよわせた。


「だが、君と出会った日から調子がいいんだ」


 予想外の言葉に、クラリスは驚いて目を丸くする。


「モニカとアランは俺の幼少期から一緒にいてくれているので、俺の魔力の影響をしっているが、君はそうではないから、もし俺のそばにきて何か体に異変を感じたら、失礼だとか不敬だとか、そんなことはいいからすぐに逃げてくれ」


「かしこまりました」


 クラリスは、戸惑いながらも頷いた。


「……今更、遅いかもしれないが、君は大丈夫だろうか? 肌がピリピリしたり、吐き気や眩暈、頭痛なんかはないか?」


「はい。全くこれといって何もありません。大丈夫です」


 そう返すと、ロナルドはほっとしたようにわずかに表情を緩めた。


「……ロナルド様は、今日は体調のほうはよろしいのですか?」


「先ほども言ったが、君と出会ったあの日から、最近、妙に魔力が安定しているんだ。変なことを聞くが、君が俺の衣類の洗濯や修繕を行ってくれていると聞いている。何かその時、魔法を使ったりはしていないだろうか?」


 そこにほんの少しの期待が込められているのが、なんとなく分かった。

 理由はさっぱりと分からないが、クラリスと出会った日から魔力過多症が軽減されているという。だから、もしかしたらクラリスに何かきっかけがあるのではないかと、ロナルドは考えているのかもしれない。

 だが、クラリスにそんな奇跡的な力があるわけもない。


「申し訳ありません。私はほとんど魔法が使えなくて、魔道具を動かすくらいはできるのですが……それも自分の魔力を供給し続ける型のものは使えないんです」


「そうか。いや、君が気にすることじゃない。……だが、君が普段、俺の服に使っている糸や針も見せてくれないか?」


「はい。今すぐお持ちしますか?」


「いや、昼休憩の後でいい。俺が下に行こう。そのまま午後の鍛錬に出たい」


「分かりました。準備しておきます」


「引き留めてすまなかった。戻ってくれ」


「いえ、それでは、失礼いたします」


 クラリスは一礼し、部屋を出て行く。

 部屋の入り口にワゴンを置いて、階段へと向かう。


「……あ、お礼をお伝えするのを忘れてしまいました」


 雇ってくださったお礼を伝えようとそう思っていたのに、部屋を出てきてしまった。戻ろうかと思ったが、昼食の手を止めてさせてしまうのははばかられた。

 この後、クラリスが使っている裁縫道具を見に来ると言っていたから、その時は忘れずに伝えよう、そう決意してクラリスは階段を下りて行くのだった。





 昼食を終えて、少ししてからモニカとアランが買い出しから帰ってきた。

 キッチンにはこれでもかと食材が並べられ、モニカが本日の献立を発表してくれたので、クラリスは裁縫道具をいつでも出せるようにしてから、彼女の手伝いをする。

 今夜はハンバーグとマッシュポテト、サラダ、鶏のグリル焼き、ジャガイモと白身魚のグラタン、他にも付け合わせを数種類。デザートはクラリスが提案したシャーベットが採用された。


「ピクルスなんかは、いつもの作り置きがありますからね。まずはいろいろの下ごしらえをしましょう」


「はい」


 クラリスは、まずシャーベットの用意をするために小鍋に水と砂糖を入れて火にかける。

 シロップが冷めるのを待つ間にリンゴとオレンジのジュースを用意する。どちらも今日の買い出しで買ってきたものだ。

 それを金属製のバッドに入れて粗熱のとれたシロップを入れて軽くかき混ぜ、冷凍庫に入れる。二時間後に取り出してフォークでかき混ぜ、それをもう二回ほど繰り返せば完成だ。

 シャーベットを仕込み終えたら、キッチンの土間にある小さな椅子に座って足の間にバケツを置き、各料理に使う野菜の皮むきを担当する。モニカは見事な手さばきで大きな魚をさばいていた。

 途中、おそらく話を聞いたのだろうアランがクラリスが使っている裁縫箱を持って行った。モニカは首を傾げて、何をするのかしら、と呟いた。


「クラリスは、知っている?」


「……御病気のことで、少し確かめたいことがある、と」


 言っていいのかわからなかったが、乳母としてロナルドの人生と同じ時間そばにいるモニカが彼の病気について知らないわけもないと思い直し、そう告げる。

 モニカは手に持っていた魚の半身を、そっとまな板の上に戻した。


「聞いたの? 魔力過多症のこと」


「はい。お昼をお持ちした際に。具合が悪くなっていないか、心配してくださいました。君もここで働くのなら知っていてほしい、と」


 モニカは、そう、とこぼして目を伏せた。


「……ロナルド様の魔力はね、随分と攻撃的なの」


「攻撃的、ですか?」


「ええ。赤ん坊のころから素手で抱くと手に鋭い痛みが走るほどだった。当時はまだ魔力が漏れることはなかったから、手袋や長袖の服を着て直接触れなければ防げたのだけれどね……でも乳母はそうもいかない。乳を吸わせるには、どうやっても赤ちゃんの口が乳房に触れるんだもの」


「それは……」


「親が倒れたなんて嘘よ。一人目の乳母は耐えられなかったのよ。……でも誰が責められるかしら。日に何回も乳を与えなければならないのに、その度に激痛が走るのよ。それでも彼女は耐えて、耐えて、離乳食を始められる頃で頑張ってくれたわ。でも、彼女はもう限界で、彼女の夫が妻を守るためにと一緒に屋敷を辞したの」


「では、その後、モニカさんが?」


「ええ。誰でもいいからと奥様はおっしゃられたけど……誰も怖がってなりたがらなかったの。それがなんだか可哀そうで、わたしが立候補したの。アランは心配してたけどね」


 ふふっと笑ってモニカが目を細めた。


「それはそれは可愛い赤ちゃんだったの。ただ赤ちゃんの頃からわりと大柄だったから、抱っこもおんぶも重くて大変だったけど」


 きっと過去の幼いロナルドを思い出しているのだろうモニカの横顔は、優しさに満ち溢れていた。そこにロナルドへの深い深い愛情があるのが見て取れる。


「モニカ、モニカって舌足らずな声でわたしを呼んで、だっこをねだるの。短い腕を精一杯伸ばして、モニカって。可愛くてついつい甘やかしちゃったわ。……ご両親は、あの子に触れるどころか、会いに来ることもなかったから余計にね」


「それは、痛みを恐れて、ですか?」


 モニカは静かに頷いた。


「正確に言えば、痛みと、未知の存在を恐れて、かしら。魔力過多症が現在、この王国でただ一人きりであるように、あれほど強大な魔力を宿す赤ちゃんも、ロナルド様以外いなかった。ロナルド様には、お兄様とお姉様がいてね。二人に万が一にも害がないように……わたしとともに敷地内の片隅にある離れに住んでいたの。……きっと、お寂しかったでしょうね」


 その声に後悔のような、諦念のような、悲しみのようなものが混じった。


「そんなこと、なかったと、思います……っ」


 思わず口をついて出た言葉にモニカが驚いたように振り返った。

 モニカは優しい。優しくて愛情深くて、温かい。


「私も幼少期は母と二人きりでした。……でも、ずっとずっと、ここでの暮らしと同じくらい、幸せでした。寂しくなんてなかったです」


 モニカは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、流しで手を洗いクラリスの下へやってきた。

 クラリスは座って野菜の皮を剥いているから、今はモニカを見上げる。


「ふふっ、ありがとう。そうね、だってわたしは寂しくなかった。ロナルド坊ちゃんがいてくれて、時折、アランが帰って来てくれて……わたしが決めつけてはだめよね」


 クラリスは、頷くことしかできなかったけれど、精一杯、頷いて返した。


「……でもね、いらないことを言う大人はどこにでもいて、ある日、十二歳の坊ちゃまは知ってしまったの。わたしに『痛み』を与えていることに」


「もしかしてモニカさんは手袋をしていなかったのですか?」


 モニカは小さく微笑んだ。


「可愛い可愛い子どもに触れるのに、手袋なんていらないわよ」


 やっぱり絶対に、ロナルドは寂しくなんてなかったとクラリスは確信した。モニカの無償の愛の中で育ったから、だから彼は、今でも彼女に顔を見せに忙しい仕事とままならない病気の合間を縫って、帰って来るのだろう。


「優しい子でしたから、気に病んでしまって。……逃げるように寄宿学校に行ってしまったわ。それでも手紙はこまめにくれたのよ。学校を卒業した後は、騎士養成学校へ。時折、顔を見せに来てくれたけどゆっくり過ごすことはできなかったわ。だんだんと魔力も強くなっていって、ようやく過剰生成型魔力過多症という病名がつけられた。二年間の養成学校での生活を終えて卒業後、騎士団に入ることになって、帰ってきた時……わたし、いつも通りロナルド様に触れてしまったの。手が焼けただれて大変ことになってしまったわ」


 そう言ってモニカは両手の手のひらをクラリスに見せてくれた。いつもクラリスを優しく撫でてくれる手をこんなにじっくり見るのは初めてだった。

 よく見るとほんのわずかに皮膚が引きつれたような痕が手のひらにところどころ残っている。


「ヴィム先生が治療をしてくれてね、大したことはなかったの。確かにわたしは女だけど、痕が残っても嫁入り先の心配もないおばあちゃんだったし、アランだって怪我は心配しても、嫌がったりはしないわ。それに先生の治療のおかげで、動きに不自由が残ることもなかった。でも……怪我をしたのはわたしだったけど、傷ついたのはロナルド様だったの」


 モニカの声は悲しみに揺れていた。


「……大きな声では言えないけれど、わたしにとってロナルド様は三人目の息子なの。だから普通の家族がそうするように抱きしめてあげたいけれど、あの子を傷つけたくはないのよ。わたしは痛いのぐらいなんてことないのよ。でも、あの子はそうじゃないから」


 そう告げるモニカは、寂しそうな顔をしていた。

 人に触れたら、相手を傷つけてしまうなんて、どれほど恐ろしいことだろう。

 きっとモニカは、言葉通り手が焼けただれたって、気にしないのだろう。でも、モニカを傷つけてしまったら、その何倍も他ならないロナルドが傷つくことをモニカは心配しているのだ。

 だからせめて、彼女は美味しい食事や清潔で居心地の良い部屋、そして、優しい笑顔で彼を出迎えているのだ。


「貴女も優しい子ね。……さ、美味しいお料理、いっぱい作りましょう、ロナルド様のために」


 モニカがクラリスの頭を優しく撫でながら言った。クラリスは、はい、とか細い声で頷いて再び野菜の皮をむく。モニカも魚の下へと戻って行った。

 それから黙々と作業を続け、午後のお茶休憩の前にクラリスは洗濯物を取り込みに外へと出たのだった。



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