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クラリスは朝の身支度を整えて窓を開ける。
爽やかな春の風がクラリスの髪をさらさらと揺らす。
「おはよう、小鳥さん」
最近はほぼ毎日窓辺に遊びに来てくれるようになったお腹が白くて他は青い可愛らしい小鳥に挨拶をして、クラリスは洗濯物を抱えて窓のふちに足をかけた。
眼前に広がるこの青空を次の換羽期を迎えたら、自由に飛び回れるかもしれないと最近は希望が持てるようになった。
母は、空を飛ぶことはとても楽しいと言っていた。他の種族にはない鳥人族ゆえの特別な時間なのだと。
クラリスは、これまで一度だって飛んだことはないが、それでも飛べるだろうか。飛ぶための教本などがあればいいが、皆、本能的に飛ぶのだからないかもしれない。
「アランさんに聞いてみようかしら」
侯爵家で家令まで務めていたアランはとても博識だ。もしかしたらそういう本も知っているかもしれない。
「それか、あなたに教わるのもいいかもしれないわね」
「ちゅん?」
小鳥が首を傾げた。クラリスは、指の腹で優しくその小さな頭を撫でて微笑んだ。
「なんでもないわ。今日も頑張りましょうね」
洗濯物を抱えなおして、クラリスはいつものように翼を広げて飛び立った。
ふわり、と着地し翼をしまう。
そして、いつも通り洗い場へ行こうと顔を上げたところで、クラリスは固まる。
そこに木剣を持ち上げたまま固まるロナルドがいた。
二人とも突然の邂逅に無言のまま見つめ合う。クラリスの内心は、混乱を極め、どうして、なぜ、挨拶を、とあれこれ思考が散らかってしまって、結局言葉が出て来ないという事態に見舞われる。
ロナルドも木剣を振り上げたまま無言なので、裏庭の時間が止まったかのようにさえ感じられた。
「あら、クラリス、ロナルド様、どうしたんです?」
だが、洗濯物の籠を抱えたモニカが裏の勝手口から出てきてくれたことで、ロナルドが振り上げていた剣を下ろし、時間が動き出す。
「クラリスが空から降りてきた」
ロナルドが上を指さしながら言った。
「そりゃあ、クラリスは可愛い小鳥さんですもの。毎朝、ふわりと降りて来て可愛いんですよ。はい、クラリス、今日の分をお願いしますね」
「は、はい」
クラリスはその籠に自分の洗濯物を乗せて受け取る。
「ロナルド様、昨夜遅くに帰ったんですから、鍛錬もほどほどにしてくださいね」
モニカはそう言って家の中に戻って行ってしまった。
気まずい沈黙が再び訪れる。
しかし、彼はクラリスを雇ってくれた恩人だ。挨拶はしなければ、とクラリスは籠を置いて頭を下げる。
「おはようございます、ロナルド様」
「ああ、おはよう」
会話が途切れる。三度目の気まずい沈黙だ。
どうすればいいのだろうか。クラリスは、男性とあまりかかわったことがなかった。アシュリー家では侍女という立場上、周りは女性ばかりだ。男性使用人もいたが、持ち場が違うので関わることがほとんどなかったと言っていい。
でも、ここで固まっていたら朝ごはんまでに洗濯が終わらない。なんとかしなければ、と思うのだがなんとかできるほどの能力がクラリスにはなかった。
「……君は毎朝、部屋からああして降りて来るのか」
だが、今度はロナルドが話しかけてきてくれた。
「は、はい。あの、も、申し訳ありませんっ。今後はちゃんと中の階段を使います」
モニカとアランが何も言わないので、毎朝、飛び降りていたがはしたないことだったのかもしれない、と思い当たり頭を下げた。
すると「違う」と些か焦ったような声が上から聞こえた。
「飛び降りるのを知らなかったので、驚いただけだ。俺も急ぎの時は三階くらいなら飛び降りることもある。怪我をしないように気を付けて、好きにするといい」
「……ありがとう、ございます」
怒っているわけではないようだ、とクラリスは胸を撫でおろす。
「俺はここで素振りをしたいのだが、邪魔ではないだろうか」
「もちろんです。ここはロナルド様のお屋敷ですから」
クラリスは、勢いよく頷いた。
「では、君もいつも通り、仕事をしてくれてかまわない」
「はい。ありがとうございます。失礼いします」
クラリスは今度は軽く頭を下げて、籠を持ち直し、洗い場へ行く。
いつものように桶に水をためて、洗い薬を入れて丁寧に洗う。ロナルドの木剣が空気を切る音が聞こえて、少し緊張してしまうのは内緒だ。
洗濯物の中にはロナルドの寝間着もあった。どうやらモニカの言う通り本当に昨夜、帰ってきたようだ。屋根裏で寝ていたとはいえ、全く気付かなかったことを反省しながら、ことさら丁寧に洗う。
今日もちゃんと二回すすいでから、良く絞ってロープに洗濯物を干していく。
クラリスが洗濯物を干している間に、ロナルドは鍛錬を終えて家の中に戻って行った。一体、何時から剣をふるっていたのだろう、
クラリスもまた家の中へと戻る。
中に入れば、朝食の良い匂いが鼻をかすめる。クラリスは、モニカの作るオムレツが好きだった。モニカのオムレツは、中に細かく刻んだベーコンとチーズや、ひき肉をトマトソースで煮たものなどが入っていて、美味しいのだ。
キッチンへ行くと、モニカが忙しそうに朝の仕度をしている。
だが、山盛りのサラダにどっさりと籠にいれられたパン、そして、次から次に焼かれるソーセージといつもと違う様子に驚く。
「ロナルド様は、いっぱい食べるのよ」
それに気づいたモニカが、嬉しそうに言った。クラリスが知っている限りだとロナルドは一カ月ぶりの帰宅だ。しかも前回は急用ができた上、クラリスが怪我をしたりで、屋敷にいた時間はほんのわずかだった。
大事な主の世話を焼けることが嬉しくて仕方がない様子のモニカに、クラリスは微笑ましい気持ちになりながら、お皿を出したり、飲み物の用意をしたりする。
「クラリス、ロナルド様は寂しがりやだから、ダイニングでわたしたちも一緒にたべるのよ」
「使用人と一緒に、ですか?」
「ええ。ご実家にいたころから奥様の目を盗んで一緒に食べていたのよ。こちらに越してきてからもできるだけ一緒に。一人の食事って味気ないじゃない。それに今日はずいぶんと調子が良いみたいでいいことだわ」
モニカの言いたいことはなんとなくわかってクラリスは頷いた。
ここ十年、クラリスの食事は味気ないものだった。朝はパンを一つ。昼はなし。夜は、大抵、使用人用の残り物をすこし。時折、シンディが残した物を出される時もあった。
その味気ない食事もミランダの機嫌一つでなくなることも多々あった。
でも、結局、どれもこれもさほどの感動もなく食べていた。お腹を満たせれば、それでよかったのだ。
だが、ここへ来てモニカやアランと食事をとっている内に、母と囲んだ食卓を思い出した。当時、何を食べていたかは、あまり記憶になかったが、母とおしゃべりをしながら囲む食卓は、温かな思い出としてクラリスの中に残っている。
「ダイニングに運んでしまいますね」
クラリスはそう声をかけて、用意した飲み物や、パンやソーセージをワゴンに乗せてダイニングへ向かう。
それらをダイニングテーブルにセットして、再びキッチンへ戻る。普段の食卓は老夫婦とクラリスだけとあって、それほど品数が多いわけでも、量があるわけでもない。
だが今日は品数も普段より多いが、なにより一品一品がものすごい量だった。
「……こんなにお食べになるんですか?」
思わず途中から手伝いにきてくれたアランにたずねる。
「体が資本のお仕事ですからね。たくさん食べるのです。とはいえ、それにしたってモニカは張り切り過ぎだとは思いますが」
アランが苦笑交じりに言った。
「ロナルド様と食卓を囲むのは、じつは半年ぶりなんです。なかなかうまいこと都合がつかず、ほとんどが顔を見るだけ、運が良ければ少しお話をするだけでしたので」
「なら、しょうがないですね」
ふふっと笑うと、アランも「ですねぇ」と目じりを緩めた。
それから大きなオムレツとデザートの果物をたっぷりと用意して、アランがロナルドを呼びに行った。
ロナルドは、シャツにズボンという随分と緩い格好だった。激務だからこそアランもモニカも彼が家ではとにかくゆっくり過ごせるように気を配っているのだろう。彼自身にとってもここは気を抜いてのんびり過ごす場所なのかもしれない。
だが不思議なことに服装は緩いのに、彼の手には黒い革手袋が嵌められたままだった。服装の緩さと革手袋のいかめしい雰囲気がなんだか妙に不釣り合いに見えた。
ロナルドが席に着き、アランが彼のグラスにレモンのスライスを入れた水を注いで、モニカとクラリスが席に着き、アランも座ったところでロナルドが手を組んだ。
「恵みの糧に感謝します」
「「「感謝します」」」
食前の祈りを捧げ、朝食が始まる。
クラリスは、モニカの横でついついロナルドを観察してしまう。
さらさらで真っすぐな黒髪は肩甲骨くらいまで伸ばされていて、朝と違って緩く結わえられている。朝の鍛錬の時はもっとしっかり結われていた。
お手本のような所作で朝食を食べている姿は、貴族と言われて納得の風格があった。
だが、そんなことより魔法のように次から次へと彼の胃に収められていく朝食にクラリスは、驚きを通り越して、感動さえ覚えた。
「ロナルド様、今日はどれぐらい滞在できるのですか?」
モニカの問いかけにロナルドが手を止める。
「明日の朝まで休みを取っている。調子がいいのならたまには休めと事務局に怒られた」
「まあまあ、なら今夜はごちそうを作らなきゃいけませんね」
顔中をほころばせてモニカが言った。
「クラリス、あとで一緒に買い出しに行きましょうか」
モニカが振り返る。
「お買い物……」
基本的に貴族の屋敷は必要な日用品は、贔屓の店から届けられる。料理人などは市場に直接買い付けに行くこともあるし、ミランダやシンディは街を歩きたいと買い物に出かけることもあった。
だがクラリスは屋敷を追い出された日を除けば、王都を歩いたことがない。自分のお金というものを持ったことがないので、買い物をするという発想もなかったし、屋敷の外へ出るという考えがそもそもなかった。
「いえ、私はたぶんお役には立てないと思いますのでお留守番を……あ、でも、あの、私みたいなのに留守を任せるのは不安です、よね。でしたら屋根裏の部屋に鍵をかけて頂ければそこで大人しくしています」
「大丈夫ですよ、荷物はアランが持ちますから。それにクラリスにだったら、いくらでも留守を預けられるから、そんなことはしなくていいのよ」
モニカは柔らかに微笑んで、クラリスの頬を撫でた。そのぬくもりに、ほっと息を吐く。
「荷物持ちなら、私にもできると思います。お買い物はしたことがないので、お手伝いはできないですが……」
「お遣いには行ったことがないのね」
「そうではなく、買い物そのものを……」
「買い物を、したことがない?」
向かいの席に座るアランが目を丸くしていることに気づく。
「では、お給金は何に使っていたんですか?」
アランがフォークを置いて尋ねて来る。
「私は、養ってもらう立場でしたのでお金を頂いたことはありません」
クラリスは首を横に振った。
「私はずっとお屋敷で働いていて、必要なものは与えて頂いておりました。食事も着替えも住むところも。ですから外に出たこともなくて」
「外に、出たことがない?」
今度はロナルドから声が聞こえて、クラリスは驚く。
ロナルドの紫色の瞳が、軽く見開かれ、クラリスを凝視していた。
ロナルドだけではなく、いつもにこにこしているモニカとアランまでなぜか険しい顔をしている。
「お、お庭とかには普通に出ていました。洗濯物は外に干していましたし、敷地の外に出たことがないだけで……!」
誤解を招く言い方だったと慌てて説明するが、三人の表情はなぜか一段と険しくなってしまった。
「……モニカを助けてくれた日は、商業ギルドに行こうとしていたのでしょう? 外へ出たことがないのに、どうやって行こうと思ったのですか?」
おもむろにアランが沈黙を破る。
「以前、地図を見せて頂いて町の大通りの名前や広場のこと、商業ギルドは時計台の下にあると教えて頂いたんです。それでその記憶を頼りに……。でも、途中で八百屋さんに道を尋ねて、そこから見えている時計台で間違いはないと言ってもらえたので、ひたすらにそこを目指していたんです」
「なるほど。そういうことでしたか」
アランが頷き、わずかに表情を緩めてくれた。
「では、今日はなんの準備もないので、私とモニカで買い出しに行ってきます。ですから留守を任せてもよいですか、クラリス」
「……! はい!」
信頼を示してくれる言葉にクラリスは自然と笑みが浮かぶ。
それからは和やかな雰囲気が食卓に戻り、朝食の席は穏やかに過ぎて行ったのだった。