1-5
怪我をしたあの日から早いもので一週間が過ぎた。
頭の傷も足首の怪我も良くなったのだが、クラリスはまだベッドの上にいた。
もう大丈夫ですから、お暇します、と言っても、モニカもアランもなかなかベッドから出るのを許してくれない。すでに怪我を診てくれていたヴィムは「もう大丈夫でしょう」と言ってくれ二日ほど前から来ていないというのに。
せめて何かお手伝いをと言っても、怪我を理由に断られ、とにかくゆっくり休みなさいと言われて終わってしまう。
しかし、あまりにクラリスが必死に言いつのるものだから、三日ほど前から折れたモニカがロナルドの訓練着の繕い仕事をやらせてくれるようになった。
この家の主であるロナルドは、彼自身も教えてくれたように王国の騎士団に所属する立派な騎士で、鍛錬にとても熱心ですぐに服をダメにするのだと、モニカがまるで呆れる母親のように言っていた。
モニカはロナルドの乳母だったそうだが、実際にお乳をあげていたわけではないそうだ。乳を上げていた乳母は別にいたのだが、ロナルドが乳離れしてすぐに乳母の両親が相次いで病に倒れてしまったため家族で郷里に帰り、代わりにモニカが抜擢されたそうだ。
夫のアランとの間に息子が二人いるそうだが、手を離れて久しかったので幼いロナルドとの日々はとても可愛かったとそれはそれは幸せそうに教えてくれた。
モニカは穏やかで明るく、アランも優しく朗らかで、二人と過ごす時間はとても心地よかった。
こんこんとノックの音が聞こえて、クラリスは針を持つ手を止める。
「どうぞ」
「午後のおやつの時間ですよ」
そう言ってモニカがワゴンを押しながら、アランとともにやってきた。
午後のおやつは、この部屋でいつも三人で食べるのが習慣となっていた。
クラリスは、紅茶の良い香りに自然と笑みを零しながら、針を繕っていたロナルドの訓練着に刺し、危なくないように隣に置いた。
「あら、もうこちらは終わったの?」
「はい。お茶が終わったら、確認をお願いします」
モニカがサイドボードに置かれた繕い終えた訓練着を指さして、目を丸くした。
「怪我をしている貴女にこんなことをさせて申し訳ないけど、わたしも夫も年で、細かい作業をするには手元が良く見えなくて。ありがとうね」
「近くが見えないだけで、遠くは本当によく見えるんですよ」
アランが窓の外を指さしながらちょっと悔しそうに言った。
「いずれは誰もが通る道です」
クラリスは、そう返してベッドから降りる。
客間には小さなソファセットがあるので、そこでいつもお茶を楽しんでいた。
モニカとアランが並んで腰かけ、クラリスは一人掛けのソファに座る。
今日のおやつは、モニカ特性のあんずのパイだった。
「いつもね、旬のうちにたくさん煮て瓶詰にしておいて、こうしておやつに使うのよ」
そう説明をしながら、円いパイを切り分けて、お皿に乗せてくれた。その間にクラリスが紅茶をカップに注ぎ、アランはフォークをそれぞれのお皿に添えてくれた。
「ロナルド様もお好きなのだけど、なかなかお忙しくて帰って来られないの。騎士団に届けるのも可能なのだけれど、討伐遠征でいないことも多くて」
モニカが寂しそうに言った。
モニカのあんずのパイはバターの風味豊かなさくさくのパイ生地に甘酸っぱいあんずがとても美味しい。アランがいつも淹れているのだという紅茶もこのパイのために選ばれているのが分かるほど、一緒に味わうとよりそれぞれの良さを引き立てている。
「第二師団といえば、主な任務は各地での魔獣討伐だと……」
シンディの家庭教師の授業で騎士団のことを教わった時に教師がそう言っていたのを覚えている。
「そうですね。……師団長という肩書を頂いておりますので率先して各地に討伐遠征に出向かれます。ロナルド様は剣術も魔術も大変、素晴らしい才能をお持ちで、努力も怠らない方ですから」
アランが誇らしげに言った。
一度しか会ったことのないクラリスも、彼が努力家だと言われて疑う気は起きなかった。クラリスが繕ういくつもの訓練着は、どれもこれも彼の努力の証が、ほつれややぶれとなって残っている。
「クラリスさんは、以前はお針子さんのお仕事を? 昨日、仕上げて頂いたものを拝見しましたがどれもこれもとてもお上手で驚いたんです」
アランが言った。
「いえ、メイド、のようなことを」
それ以上を口にしないクラリスにも、二人は「なるほど」と頷くだけにとどめてくれる。
素性の知れないこんなに怪しい女を、屋敷に置いてここまで良くしてくれる二人に罪悪感で胸が痛む。
「……余計なことを聞いてしまいましたね」
申し訳なさそうな声にクラリスは、なんといってよいか分からず首を横に振った。
悪いのは何も言わないクラリスであって、優しい二人ではない。
「いいのよ。話したくないことは話さなくて……でも、クラリスさんがわたしの命の恩人で、こんなおばあさんを身を挺して守ってくれた優しい子だと言うのをわたしたちは知っていますから。もちろん、ロナルド様も」
伸びてきた手がクラリスの膝の上にあった手に優しく重ねられた。あたたかな手に心がふわりと軽くなる気がした。
「……母が、いたのですが、十年前に亡くなったんです。でも、そのままお屋敷でメイドとしてお世話になっていたのですが、わけあって辞めたんです」
嘘と真実をない交ぜにしながら、なんとか伝える。二人は真剣に耳を傾けてくれているのが伝わって来て、罪悪感に胸がチクチクと痛んだ。
きっと二人は、クラリスを自分たちと同じように誰かに仕えていた使用人の子どもだったのだと思ってくれるだろう。
本当は不義の子だと言ったら、白い目を向けられてしまうかもしれない、と恐ろしいほどに舌が重く動かなくなる。
「モニカさんを助けた日は、お屋敷を出た日で、商業ギルドに向かう途中だったんです」
「おや、ではすでに次の勤め先が決まっていたのでは? ギルドが仲介でしょうか? 私が事情をお話ししましょうか」
「いえ、新しい職場を探しに行くところだったんです」
「……でしたら、我が家で働きませんか?」
アランの思いがけない提案にクラリスは顔を上げる。
「実は、ご存知のことだと思いますがモニカは膝があまりよくないでしょう? 主人は一人しかいないとはいえ、家というのは毎日の手入れを怠るとあっという間に傷んでしまいます」
それはクラリスにもわかる。あの離れだって、クラリスが手入れをしなければあっという間に朽ちてしまっていただろう。現に母の部屋は、母が亡くなってからの半年、悲しみで何もしなかった間に埃が信じられないくらいに溜まって、掃除が大変だった。
「やることはあれこれとたくさんあるのですが、私たちもなかなか手が回らない部分もあるので、もうひとり、できれば若い方をと妻とも相談していたんですよ」
「ええ。針の穴に糸がどうやっても入らなくて、でもロナルド様は次から次へと穴をあけてくるものだから、再度仕立てるといってもすぐに出来るわけじゃないもの。おかげであんなに溜まってしまって」
モニカがしょんぼりとサイドボードを振り返った。
そこにはクラリスが繕い、綺麗に畳んで積み上げられた訓練着がある。
「前のお屋敷では、メイドをしていたということは経験者でしょう? それならむしろ、新人さんを雇って一から教えるより、私たちの負担も少ないですからね」
「まあまあ、本当に良い考えだわ。あなた、さっそくロナルド様にお手紙を書いてちょうだい」
モニカが嬉しそうに両手を胸の前で合わせる。アランは「おやつが終わったらでいいでしょう」と言いながら苦笑をこぼした。
「それに、先走ってはいけませんよ、モニカ。……クラリスさん、いかがでしょうか?」
「えっと……フェアクロフ侯爵様のご子息にお仕えするなんて何て申し訳ないです」
クラリスは逃げるように目を伏せた。
本当のことを言えない自分では、だめだと思う反面、その差し伸べられる手に縋りたくなってしまっている自分もいる。だって、クラリスには何もない。
ここを出れば、住むところも、仕事もない。お金もないから宿を借りることも、何か食べ物を買うこともできない。不安しかない未来に頷いてしまいそうになるのをこらえて顔を上げる。
「やっぱり私なんかではとても。……明日、出て行きます。怪我も本当によくなりましたし、ここまで甘えさせてくださって、ありがとうございました」
任されている衣類は、今夜中には仕上がるだろう量だ。それを全て片付けて、明日の朝には出て行こうとクラリスは決意する。
「ですが、行くところはないのでしょう? 次の仕事だって決まっていないと、住むところだって」
心配そうにアランが眉を下げた。
「大丈夫です。なんとかします」
「何とかと言ったって……」
「もともと住み込みのお仕事をお願いするつもりだったんです。当日から大丈夫なところを探してみます」
できるだけ前向きに聞こえるように笑ってみせたのだが、アランとモニカの表情は晴れない。
「だめよ、そんな危ない賭けみたいなこと! 独身の男性の家だったらどうするの?」
モニカがぶんぶんと首を横に振って言いつのる。
「大丈夫です。相手がどうあれお仕事を頑張るしかありません」
「女神様のお庭でお母様が心配されるわ」
モニカの言葉に母の言葉が脳裏によみがえる。
『わたし、もうあの子、いらない、わ』
愛されていた。愛していた。そう信じている。
でも、最期の言葉は「いらない」だった。
「…………心配、なんて」
無意識の内に手に力がこもり、ぎゅっと拳を握る。
「してもらえるような娘じゃ、ありませんから」
女神様のお庭は、死後、人々の魂が過ごす安寧の居場所だ。精霊や妖精もいて、この世でもっとも美しく清らかな場所だと言われていて、愛する人をそこから見守っているのだとも言われている。もちろん悪人はいけないが、母はきっとそこにいるだろう。
でも、そこで母はあの美しい翼を広げて、高らかに歌声を響かせて空を飛んでいるのだと思う。地上なんて見る暇もないくらいに、自由で伸びやかであってほしいとクラリスも願っている。
「だから、大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
握りしめた手に細い手が重ねられる。
「わたしが、大丈夫じゃないわ。心配で心配で、ご飯も食べられなくなってしまうし、お掃除だって、洗濯だって手につかなくなってしまうもの」
「そうですよ。他に心配する人がいないなんてことはありません。私もモニカだけじゃありません。きっとロナルド様だって、大事な恩人である貴女の心配をするはずです」
「そんな……」
クラリスは、苦笑を零すがモニカとアランは真剣な顔をしている。
「それに……実は当家で働いてはどうかというのは、ロナルド様からの提案なのです」
「え?」
「まあ」
クラリスだけではなく、モニカも驚いている。
「モニカの命の恩人である貴女が行く当てがないと知って、そう提案してくださったんです。嘘じゃありませんよ」
そう言ってアランが懐から手紙を取り出して、中身をクラリスに見せてくれた。
男らしく力強くて美しい筆跡が文字をつづっている。
最初はアランとモニカを気遣う言葉が並び、クラリスの容態を尋ねる言葉、そして、最後にこう書いてあった。
『行く当てがないのなら、うちでメイドとして働いてはどうかと提案してみてほしい。
素性を話せないことで彼女が不安に思うなら、君が優しいことは知っていると伝えてほしい。
見知らぬ老婦人を庇ってくれた心優しい君だから雇うのだとそう伝えてくれ。もちろん彼女に行く当てがあるのなら、無理に引き留めないように』
最後にロナルドのサインがあった。
泣きそうになるのをぐっとこらえて、クラリスはその文字をそっと撫でた。だが指先が震えていることに気づいて、誤魔化すように手を握りしめた。
「……クラリス、どうか我が家で働いてくれませんか?」
顔を上げれば、アランの柔らかく垂れた目がじっとクラリスを見つめていた。その薄茶色の瞳はどこまでも優しい色をしている。
「私たちは、針に糸が通せませんから、貴女がいてくれるととっても助かります」
「ええ、ええ。本当にその通り」
真っすぐで優しいその眼差しにクラリスは、噛みしめていた唇をほどいて微笑んだ。
「ロナルド様はお優しい方ですね」
「このモニカとアランが育てましたからね」
モニカがとんと胸を叩き、アランがうんうんと頷いている。
アランとモニカは、親馬鹿と呼ばれる類いの人々なのかもしれない、と思いながらクラリスは口を開く。
「……なら、もう少しだけお世話になってもいいでしょうか。もちろんメイド、として」
クラリスの答えに二人はぱっと顔を輝かせた。
「もちろん! 少しとは言わず好きなだけ!」
「嬉しいわぁ。今夜はごちそうにしないと!」
心から喜んでくれる二人に罪悪感が、じわじわと心の底によどみを作る。
でも、少しだけ。本当に少しだけ、小鳥が木の上で羽を休めるように、少しだけクラリスもここで過ごしたいと思ってしまったのだ。
「あなた、クラリスが頷いてくれたんですから早くお手紙を書いてきてくださいな。おやつは逃げませんけど、ロナルド様はお忙しいんだもの、いつお返事が来るか」
「はいはい、分かりましたよ」
アランが紅茶をぐいっと飲み干して立ち上がる。
「食べないでくださいね、手紙を書いたら戻って来ますから」
あんずのパイを指さしてモニカに念を押すと、アランは客間を出て行く。
「前にわたしがうっかり食べてしまったのを、まーだ根に持っているのよ。案外、子どもなのよ、わたしの旦那さんは」
モニカが可笑しそうに笑うから、つられてクラリスも笑ってしまった。
モニカは、残っていたパイを小さく切り分けて、クラリスのお皿に乗せてくれた。
「あの、モニカさん。一つだけ、いいですか?」
「なぁに?」
「我が儘なお願いになってしまうのですが……」
そうして、クラリスが告げたお願いにモニカは「そういうことなら」とうなずいてくれたのだった。