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1-3


 離れを出て裏庭を通り、生まれて初めてクラリスは門の外へ出る。

 夜が明けて間もない春の朝は、霧のような雨が降っていた。

 霧雨は、クラリスの青みがかった黒い翼も翼と同じ色の長い髪もしっとりと濡らした。

 見送りは誰もいない。だが、そのほうがよかった。

 荷物を見せなさいと言われるのが一番恐ろしかった。父は母の遺した物を何でも欲しがるため、使用人にも母の遺品があれば知らせるように通達を出している。

 だからもし母の竪琴が見つかれば問答無用で没収されてしまうだろうからだ。


「……お世話になりました」


 深々と頭を下げ、そして、顔を上げて背を向ける。


「とりあえず、商業ギルドに行けばいいのよね……」


 シンディの家庭教師の授業によく付き合わされていたので、そういった知識もあった。

商業ギルドは王都の中心街にあって、大きな時計台が目印だと習った。王都の地図もなんとなく把握しているし、屋敷の位置はその地図上で教えてもらった。太陽の位置で方角も分かるし、それにもう少し時間が経てば道行く人だって増えるだろう。最悪、分からなければ道を尋ねればいいのだ。

 どうして私がと思いながらやったシンディの宿題だったが、案外、生活の中で役に立つことが多かった。


「多分、こっちの、はず」


 旅行鞄を持つ手に力を込めて握りなおし、ゆっくりと歩き出す。

 アシュリー伯爵家の窓や庭から見ていた光景を通り過ぎ、似たような家々が並ぶ貴族の小さな庭付きのタウンハウス街を進んで行く。高級住宅街も黙々と歩き、ようやく大きな通りに出た。

 街灯に刻まれた「ツァールト大通り」という言葉に、ここを南へ向かって歩けば、中央広場があるはずだ、とほんの少し希望が見えた。大分、高くなった太陽の位置を確認し、歩き出す。

 中心街に近づくにつれて人の数も増える。何かを配達する人、馬車で荷物を運ぶ人、町の警邏をする騎士に開店準備をする店の人。肩掛けカバンをかけた子どもたちは、皆、学校というものへ行くのだろうか。

 初めての外の世界は未知のものがたくさんで。クラリスの目も耳も大忙しだった。

 途中、八百屋の店主に訪ねると「あそこに見える時計台が商業ギルドだよ」と教えてくれたので、クラリスはそれを見失わないように歩き続けた。

 だんだんと時計台に近づいていくことにほっとする。


「ロナルド様、それではこれを」


「すまない。朝早く」


「いえいえ。私共の勤めでございますから」


 大きな馬車が路肩に止まっていて、白髪を後ろに撫でつけた老紳士がその馬車の中の男性に何かの荷物を手渡していた。


「モニカには、元気そうだとお伝えしておきますからご安心ください」


「ああ、ありがとう。次こそ、余裕があれば家に帰るとも伝えておいてくれ」


「かしこまりました」


 なんとなく貴族と使用人のやり取りのように聞こえたが、じろじろ見ては失礼だとクラリスはその横を足早に通り過ぎる。

 交差点近くでは何の店か分からないが工事をしている建物があった。軒先にいくつも木材が立てかけられていた。職人の男性がひとり外にいて、二階の窓で待機している仲間の下へ、魔法で木材をふよふよ浮かばせながら運んでいる。

 外観は他の建物と同じく風雨にさらされた質感があるので、改装かな、と考えながら交差点に差し掛かった時、辻馬車が止まり、小柄な老婦人が御者の手を借りて降りてきた。老婦人はバスケットを持っていた。老婦人がお礼を言うと、辻馬車は去って行く。

 少し左足を引きずるように歩く老婦人は急いだ様子であの大きな馬車へと歩き出す。


「アラン! ロナルド様!」


 それは老紳士が口にしていた馬車の中の男性の名前で、なんとなく彼女が「モニカ」なのだろうな、と思った。

 馬車が行き交う交差点は、真ん中に交通整備師が立って、両手に持った赤と青の旗を使い馬車を誘導していた。これも学んだとおりだ、と実物に少し感動しながら、まだ歩行者は渡れないので、なんとなくクラリスは老婦人を目で追った。

 アランと呼ばれた老紳士が老婦人の下に駆け寄ろうとしている。

 馬車からも男性が顔を出した。若い黒髪の男性だ。

 その時だった。

 交差点のはるか向こうで錫のバケツが転がる音がして、すさまじい突風が通りを駆け抜けてきた。風の気配を読むのに長けた鳥人族であるクラリスは、いち早くそれに気づいて身構えたが、人族は風を受けてからではないと気づかない。


「危ない!」


 交通整備師が叫んだ。

 工事中の店の前で二階に魔法で木材を持ち上げていた男性が風にあおられ、脚をもつれさせ、魔法が途切れて宙に浮いていた木材が老婦人の上に落ちていく。

 クラリスは咄嗟に鞄を投げ出し、思いっきり地面を蹴ってしまいっぱなしだった翼を広げた。ほんの一瞬、風を受けられた翼のおかげで、老婦人を抱きしめたクラリスは勢いもそのままにその向こうに転がった。

 老婦人がいた場所に、太い木材が五本、けたたましい音を立てて落ちた。


「モニカ!!」


 辺りが騒然となる中、老紳士が叫ぶ声が鮮明に聞こえた。

 クラリスは、打ち付けた半身の痛みに顔をしかめながら腕の中の老婦人を見る。老婦人は突然のことに驚きに戸惑っている様子で、優しく垂れた濃い茶色の目をぱちぱちさせている。

 ガチャン、バタバタ、おーい、けが人だ、こっちだ、大丈夫か、と様々な音と声が行き交う。


「大丈夫、ですか?」


 クラリスの問いに老婦人がはっと我に返る。


「まあまあまあ、なんてこと……っ!」


 顔を青くした老婦人が体を起こし、クラリスも起き上がろうと肘をつき、翼をしまう。翼はしまってしまえば人族の背中とほとんど同じで何もないのだが、どういう仕組みなのかはいまだに解明されていないらしい。服も翼が出せるように加工してあるので破れて、背中が丸出しになる何てこともない。


「いきなり動いてはだめだ」


 起き上がろうとした体は、男性の低い声に制止される。

 老婦人は老紳士に肩を抱かれるようにして座り込んでいて、老紳士は口を開いていなかった。この声の主はおそらく馬車の中にいた男性だと推測できた。


「すぐに屋敷に」


「で、ですが、ロナルド様」


「満量までまだほんのわずかだが余裕がある。モニカの命の恩人を見捨てるわけにはいかないだろう」


 頭上で交わされる会話にクラリスは、そっと後ろを振り返る。

 そこにいたのは、二十代後半くらいの背の高い黒髪の男性だった。高く筋の通った鼻梁に凛々しい眉の下の切れ長の二重の瞳は美しい紫。薄めの唇は固く結ばれている。


「あ、あの、大丈夫、です」


 クラリスは、何やら大事になりそうな予感に懸命に口を開いた。


「大丈夫ではない」


 しかしすっぱりと切り捨てられてしまった。


「お嬢さん、頭から血が出ていますよ」


 顔を青くしている老紳士の言葉に初めて自分が怪我をしたらしいことを自覚した。地面についたままの肘のほうを見ると髪の毛を伝うように血だまりができていた。


「アラン、ヴィムに伝言を飛ばしてくれ」


「はい、ただいま。モニカ、私に寄りかかっておいで」


 老紳士が老婦人に声を掛け、紙に何かを書いて折りたたむと呪文を唱えた。紙が鳥の形に変化してどこかへと飛んでいく。


「君、名前は?」


「クラリス、です」


「クラリス、めまいや吐き気などはあるか?」


「いえ、血を見たら、傷が少し痛いと自覚したぐらいで……」


 丁度、こめかみあたりに痛みを感じる。こういう場合、怪我した直後は興奮していて痛みを感じないが、後からどこそこ痛くなってくると前に本で読んだが、これだけ血が出ているのにほんの少しズキズキするだけだ。本当にそうなのかもしれない。


「ここだと目立つ。あとの処理は任せた、彼女は俺が請け負う」


 男性がそう告げたのは、老紳士ではなく、いつの間にか到着していた騎士だった。


「フ、フェアクロフ師団長! 了解しました!」


 騎士の礼を取る騎士に「頼む」と告げて、彼が動いた気配がしたと思ったら、ふわりと体が宙に浮いた。

 背中と膝の裏に力強いぬくもりがあるのに気づき、ロナルドに横抱きにされていると数秒遅れて理解した。


「あ、あの、わたし」


「俺は、ファルベ騎士団第二師団師団長のロナルド・フェアクロフだ。怪しいものじゃない。……具合が悪くなったり、傷以外の箇所に痛みを感じたらすぐに教えるように」


 ファルベ騎士団は、このエアフォルク王国王家直属の騎士団だ。それにシンディに「恥をかかされたくない」と貴族名鑑も暗記させられたので、フェアクロフが侯爵位を賜る名家だと記憶している。

 カチコチに固まるクラリスをよそに彼――ロナルドは、まるで重さなど感じていない様子であの大きな馬車に乗り込みクラリスを座席に横たえさせた。一度、彼は馬車を降りると、今度は老夫婦が乗ってきた。恐縮する夫婦を向かいの座席に座らせ、自分はクラリスのそばに膝をついた。


「具合が悪くなったらすぐに言うように。――俺の屋敷へ」


 馬車の壁を叩いて合図を出せば、馬車が動き出す。

 クラリスは、ただただ驚きに固まったまま、ロナルドたちに案じられながらどこかへと連れて行かれるのに身を任せることしかできなかったのだった。



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