4-1
「……クラリス」
「はい、ロナルド様」
きらきらと輝いていた宝石のような青い瞳は陰り、花が綻ぶような笑みは消え去って、青白い頬に朱が差すことはない。
多分、彼女は笑っているつもりなのだ。わずかに細められた目と少しひくついた口端は、彼女が笑うために努力している証だ。
朝の裏庭でロナルドは、いつも通り空から舞い降りてきたクラリスに起きている異変に自分で自分を殴りたくなった。
クラリスの様子がおかしいと聞かされたのは、昨夜のことだった。
*・*・*
「クラリスが?」
「ええ。あの日から、にこりともしなくなってしまって……」
「ごはんだってあんまり食べなくて、いつも口ずさんでいた鼻歌もぱったりと……」
真夜中に帰宅したロナルドを待っていてくれたアランとモニカが、夜食を部屋に運んでくるとロナルドが留守にしていた間のクラリスについて報告を始めたのだ。
「いえね、きっと本人は笑っているつもりなのでしょうけど……こう、口端がぴくぴくってしているだけで全く笑えていないんです」
「……そうか」
家を出る時の辛そうなクラリスの不安に揺れた顔が脳裏に浮かぶ。
「明日は遅出なんだ。話をしてみるよ」
「はい。お願いします」
アランとモニカが頭を下げた。ロナルドは顔を上げるように言って、モニカが作ってくれた夜食のリゾットを食べる。
アランがモニカに片づけはしておくから先に寝るようにと促す。昔から夜更かしが苦手なモニカは「おやすみなさい」と素直に自室へ帰って行った。
モニカが出て行って少しして、アランが口を開いた。
「アシュリー伯爵家について、少しですが調べました」
「コーディが言うには、ここ十年、当主は領地にて療養中だと」
「はい。十年、王都には一度も戻ってきておらず、ミランダ伯爵夫人が夫の名代として、王家主催の夜会などに出席しているようです」
アランが立ち上がり、ロナルドの部屋のデスクの引き出しから、何かの紙の束を盛って来る。
「私が調べた内容です」
「ありがとう」
リゾットを食べながら資料に目を通す。
「伯爵令嬢が我が家に来た日、前日に伯爵夫人は夜会に出席していて帰ったのは明け方。訪問時間を考えると、伯爵夫人が寝ている隙に出てきたものと思われます」
「本当に母親には内緒にしているようだな」
「はい。その真意は分かりませんが」
内情は至って普通のようで不審な点はない。使用人たちからの評判も悪くはなさそうだった。たった数日でこれだけ集めて来るアランの優秀さに感心しながらページをめくり、ふと手を留める。
「ジェフリー・マクシム・イアルホール……ああ、あの青年か」
伯爵令嬢――シンディの襲来に伴い、一緒に来ていた少し癖のあるクルミ色の髪の青年だ。年はコーディより少し下に見えた。
「直接の血縁ではないが、アシュリー伯爵家の縁戚で……リーベ王国のイアルホール侯爵家の次男か。魔物生態学を学びにこちらへ、ね」
「周辺諸国に比べると我が国は自然豊かで広いのもあって、魔物も多種多様なものが存在していますし、しょっちゅう魔獣が出没しますからね。その分、研究も盛んですし」
「分かっていないことは多いが、サンプルが腐るほどあるのは事実だな」
資料を膝の上に置き、リゾットの最後の一口を食べてしまう。
「シュティーを――ラヴィネレパードを見て大興奮でしたし、ロナルド様に対しても目がキラキラしていましたからね。おそらく、令嬢が侍女を連れているとはいえ女性だけで出歩くのはあまり外聞がよくありませんから、自分の好奇心も兼ねて護衛としてついてきたのではないかと」
「なるほどな。彼の侍従らしき青年も、魔物馬鹿とかなんとか言っていたしな」
「はい」
「……まあ、色々と厄介そうだが、クラリスが心穏やかに過ごせるようにするのが一番だ」
「その通りでございます」
アランが力強く頷いた。
「アランも今日はもう休んでくれ。これくらい自分で片づけておくから」
「いえ、私が片づけないとあとでモニカに怒られますので。ロナルド様も討伐、お疲れ様でございました。ゆっくりお休みくださいませ」
「ああ。ありがとう。おやすみ、アラン」
アランは食器類をワゴンに乗せると一礼し、部屋を出て行った。
ロナルドはぐっと伸びをして、息を吐く。
周りが思っていたより、クラリスの心の傷は深いようだ。
「頑張らねば……」
そう呟いて席を立つ。
寝る前の身支度を整えて、寝室へ行けば大きなベッドのど真ん中に大きな白い猫――いや白豹がのびのびと寝ている。
「シュティー、主人が帰ったぞ」
「……」
潔い無視である。
屋根裏部屋で暮らすクラリスの部屋に入れないシュティーはロナルドの部屋で渋々寝ているのだが、主であるロナルドに全く懐いていないため、ベッドを譲る気がさらさらないのである。
「シュティー」
もう一度、呼んではみるが尻尾一つ動かしてもらえない。
ロナルドは、それでもクラリスの護衛としては申し分ない不遜な白豹に溜息を零しつつ、ベッドの隅に横になる。
そして、翌朝、ロナルドはクラリスの異変に直面することになるのだった。
*・*・*
ちゃぷちゃぷと水の跳ねる音がする。
クラリスが洗濯物を洗っている音だ。シエルとシュティーがぴたりと傍にはりついて、その様子を見守っている。
いつもなら心地よい鼻歌が聞こえて来るのに、ロナルドの木剣が風を切る音と水の跳ねる音だけが狭い裏庭で遊んでいる。
それからクラリスは淡々と洗濯をこなして、ロナルドに「先に戻りますね」と声をかけて、中へと入って行った。ロナルドは額ににじむ汗をぬぐい、その背に続くように中へと入る。
モニカがせわしなく朝食の支度をするキッチンで、クラリスは慣れた様子で手伝いをしている。シエルとシュティーは言いつけ通り、キッチン前の廊下で大人しくしクラリスを待っているようだった。
ロナルドは自室へ行き、汗をシャワーで流して着替えをし、ダイニングへと向かう。
「……笑えていないでしょう?」
ロナルドが着席すると同時に朝の紅茶を出してくれたアランがぼそっと言った。ロナルドは紅茶のカップを口へと運びながら、首肯を返す。
ほどなくして朝食の仕度が整い、クラリスたちも着席する。
「では、女神様の糧に感謝します」
「「「感謝します」」」
食前のお祈りを捧げて、朝食が始まる。
クラリスはいつも食事中に話しをするわけではないが、皆の話をにこにこしながら聞いているのに、今日は淡々と食事を進めている。
いつも平和な日々を楽しそうに話しているモニカも言葉少なで、アランが目で「なんとかしてください」と訴えて来るのを受けとめつつ、ロナルドはフォークとナイフを動かした。
落ち込む女性を元気づける方法について、ロナルドは部下たちが教えてくれた情報をまとめた手帳を頭の中でめくる。
様々な項目があるが、その中でこれがいいんじゃないかと思うものを見つける。
食事が半分ほどなくなったところで、ロナルドは意を決して口を開いた。
「そ、そういえば、そろそろ夏だな。夏の特別報酬の季節だな」
一瞬、アランとモニカが「夏の特別報酬?」みたいな顔をしたが、すぐにロナルドの意図に気づいて表情を引き締めた。
「そうですね、もうそんな季節ですか」
「ええ、楽しみですね」
「アランとモニカは何が欲しい?」
「私はぜひとも新しい書棚が欲しいですな。先日の一件でたくさんの本を買い付けましたので……というか一室、書庫として使うのはいかがでしょう?」
「それは仕事の延長だろ? だがまあ、本を大量購入するに至ったのは俺の責任だし、それは検討しよう。モニカは?」
「わたしですか? そうですねぇ。そろそろ小麦粉がなくなりそうで……」
「モニカ、それは俺ではなくて問屋に言ってくれ」
乳母夫婦の無欲さにこの作戦は失敗だったかもしれないと感じつつも、ロナルドはクラリスへと顔を向けた。
「クラリスはなにか欲しいものはあるか?」
「私……私は」
クラリスが何かを考え込むかのように俯いた。
これは想定外だった。
クラリスのことだから「何もいらない」と言うだろうと予想していた。だから「だったら店を覗けばほしいものが見つかるかもしれない」と外出に誘う口実にしようと思っていたのだ。
とはいえ、クラリスが何か欲しいというのがそれはそれで全く問題ない。クラリスが元気になればいいわけで、人は落ち込んだ時に買い物をするとすっきりすると部下たちからの情報に書いてあった。
「一つだけ、あります」
クラリスが顔を上げた。
「なんですか?」
「ロナルド様なら大抵のものを買ってくださいますよ」
アランとモニカが身を乗り出すようにして問いかける。
「いえ、あの、物、ではなくて……紹介状を書いて頂けないでしょうか」
「しょう、かい、じょう?」
脳みそが言葉の意味を理解することを拒否したため、気の抜けた返事になってしまった。
クラリスの青い眼差しは、緊張に揺れながらもじっとロナルドを見つめている。
「……ずっと考えていたのですが……。居場所を知られた以上、もうここにいることはできません。これ以上、皆様にご迷惑をおかけしたくないんです」
「クラリス、迷惑なんて何一つかかっていない。なあ、モニカ、アラン」
老夫婦が首がもげそうなほど揃って頷いた。
けれど、クラリスは小さく首を横に振った。
「ロナルド様は、由緒あるフェアクロフ侯爵家の方です。私は愛人の娘です。この事実はどうやっても変わりません。ご病気が良くなって、貴方はこれから表舞台でより活躍していくことでしょう。その時、私のようなものが貴方のそばにいることは決して良いことではありません」
「それは違う。君自身が君を貶めるようなことを言わないでくれ」
クラリスは、ロナルドの懇願にただ悲しそうに眉を下げた。
「……事実です。生まれを変えることはできませんから」
笑った顔が好きだ。少し幼く見えるあどけない笑顔が好きで、心地よい鈴の音のような彼女の笑い声がたまらなく好きだ。
なのに、クラリスは今、泣き出しそうな顔でただただ悲しそうにしている。
ロナルドは立ち上がり、クラリスの下へ行く。アランとモニカの視線が追いかけて来るのを感じながら、驚きに目を丸くするクラリスの足下に膝をついた。
「俺は他ならない君に……クラリスに俺のそばにいてほしい」
膝の上で握りしめられていた細い左手を取り、両手で包むように握りしめた。
どこまでも澄んだ青い瞳をじっと見つめる。
「俺は、俺の病気のことも生まれも何もかも関係なく、クラリスだから、そばにいてほしいんだ」
青い瞳がじわりと潤む。
「俺は……俺は君が、す」
胸元で握りしめられていた彼女の細い指が一本、ロナルドの唇に触れた。それはロナルドの紡ごうとした言葉を遮るには十分だった。
「……わたし……もう、貴族にも、……愛人、にも……なりたくないっ」
一粒の涙とともにロナルドにしか聞こえないような小さな声で落とされた言葉は、ロナルドから言葉も思考も何もかもを奪って行った。
「ええと、あの、クラリス」
押し黙る二人にアランがこちらへとやって来る。
「紹介状というものはですね、最低でも半年間働かないと書くことができないのです。紹介状というのは目に見える信頼の形ですから、必要な期間なのですよ」
アランが困ったように告げる。
ロナルドは思考を停止させている場合ではないと自分を奮い立たせる。
「三か月後ではだめだろうか? ずるい言い方になってしまうが、君の魔力無しで俺は生きてはいけない。その準備期間も含めて、三か月、俺に猶予をくれないか?」
青い瞳が戸惑いに揺れている。
優しいクラリスを縛り付ける酷い言葉だという自覚はあったが、ここで無防備に彼女を出て行かせるぐらいだったら、なりふりはかまっていられなかった。
握りしめたままの彼女の手をまた少し力を込めて握りしめる。
「……分かりました」
いつもならそっとロナルドの手を握り返してくれる細い手は、ただそこにあるだけだ。
「ですが、もし、アシュリー伯爵家がなにかしらの迷惑をおかけするようならすぐに出て行きます」
揺らがない眼差しにロナルドは、数拍の間をおいて観念し、頷いた。
「だが、その場合も必ず俺に報せてほしい。先ほども言ったが、俺は君無しでは生きていけないのだから」
「…………はい」
今度はクラリスが少しの間をおいて、折れてくれた。
「……ロナルド様、大変、申し上げにくいのですが、そろそろ御出勤のお時間です」
懐中時計を片手にアランが言った。
ダイニングの柱時計を振り返れば、確かに出勤の時間になっていてロナルドはクラリスの手を離し、立ち上がる。
「見送りはいい。行って来る」
言外にクラリスのそばにいてほしいと告げれば、アランとモニカは揃って頷いてくれた。
「シュティー、シエル、頼んだぞ」
そう告げてシュティーの頭を撫でようとしていつも通り避けられ、クラリスの肩の上にいるシエルを指の背で撫でてロナルドはダイニングを後にする。
「早急になんとかしなければ……」
ロナルドはクラリスを手放してやることはできない。だが、クラリスに悲しい思いをさせて、苦しめたいわけではないのだ。
クラリスには笑って、幸せでいてほしい。他の何が叶わなくとも、それだけはロナルドの中で揺るがない。
そう固く決意をしながら、ロナルドは後ろ髪を引かれながらもエントランスを後にしたのだった。




