モニカの願い
「さあさあ、クラリス、どれにしましょうか?」
「あ、あの、本当にいいんですか?」
モニカとアランの部屋のソファに広げられたそれらを前に可愛いクラリスが、おろおろしている。クラリスの肩の上の小鳥シエルも何故かオロオロしているが。
そこにはモニカが大切にとっておいた若い頃のワンピースがいくつも並んでいる。
モニカはもともと平民出身だ。裕福な商家の娘だったので、伝手で侯爵家に勤めることができた。貴族の子どもの乳母は、同じ貴族出身の女性が務めるのが普通だ。
彼女たちは伯爵家や男爵家といった家柄で、高位貴族の家で仕事をしているのだ。その仕事だって平民出身者と貴族出身者では全く異なる。主一家の世話をする(侍女や執事など)上級使用人が貴族出身者、それ以外のいわゆる家事と呼ばれる部分を担う下級使用人の平民出身者。モニカも最初は洗濯メイドだった。
だからモニカにロナルドが任されたのは、異例のことだった。ロナルドの最初の乳母も男爵家の出身だった。そもそも洗濯メイドだったモニカが男爵家出身で代々家令を任命されている家系のアランと結ばれたのも異例なのだが。
モニカには愛する夫のアランとの間に、息子が二人いる。線の細い両親から生まれたのにどちらもムキムキの筋肉をまとった立派な紳士に育った。どちらも侯爵家に残っているが、上のほうの息子はロナルドの兄の従者、弟のほうはロナルドの兄の息子の世話係兼護衛をしている。どちらも結婚しているのだが、どういうわけか嫁二人は元騎士でなかなかに素晴らしい筋肉を誇っている。つまり身内には筋肉しかいないのだ。どちらの嫁もとても良い娘なのだが、モニカの服は残念ながら着られない。そして、孫たち(全員男)もその筋肉遺伝子を引き継いでしまっている。何故、とモニカは時々首をひねっている。
そこへ現れたのがクラリスだった。クラリスは、すらりとしていて背格好も若い頃のモニカとあまり変わらない。長年、大事に手入れをしてきたこの服を可愛いクラリスに譲ろうと決意するのにそう時間はかからなかった。
あの日、モニカの命の恩人となったクラリスは、とても美しく可愛らしい娘だ。
鳥人族特有の独特な青みがかった黒髪は、陽の光にあたると青く輝いて神秘的だ。色白で目鼻立ちも整っていて、どこかのご令嬢だと言われればすんなり信じてしまえるほど品のある不思議な魅力があった。
それに敷地の外へ出たとこがない、という割には博識で常識的だ。メイドとしても有能で家事も一通りできるし、上級使用人がこなすような侍女としての仕事もできるという。
幼少期は母親と二人きりだったこと。十年前に母親が亡くなった後はどこかの家でメイドをしていたこと(話の流れから察するに母親の勤め先かもしれない)、歌や楽器は母から教わったこと。それくらいしかクラリスのことについては知らないが、それでも日々を過ごせばクラリスがどれほど良い子かはおのずとわかる。
「クラリスにはどの色も似合うから、悩むわねぇ」
ワンピースをクラリスの体に当てて考える。シエルが「ちゅんちゅん」と鳴いて首を傾げている。小鳥になりに考えているのかもしれない。
濃い色も淡い色も似あうし、暖色も寒色も似合う。
「モニカさん、私頂けないです……」
「あら、どうして?」
モニカはずるい大人なので、何もわからないふりをして首を傾げる。
「一昨日、一着頂いたばかりです。私はそれがあれば十分です」
クラリスの持ち物は、二着の服と数枚の下着と靴下、ハンカチ、そして母の形見だという竪琴しかないと知ったのは、ほんの数日前にことだった。
いくら怪しいかもしれないとはいえ、命の恩人であるクラリスの荷物を漁ることはアランとモニカにはできなかった。これがあからさまにロナルドに色仕掛けするとか、家のことを探ろうとするとかいう怪しい人物であれば躊躇わなかっただろうが、怪我したその日に帰ろうとするクラリスにそれどころではなかったのもある。
「ねえ、クラリス」
モニカはワンピースを置いてクラリスの手を取った。
見た目やふるまいはどこかの貴族のご令嬢だと言われたって遜色ないのに、その手は間違いなく長年、家事をしてきた手をしている。むしろここへ来た当初は、酷く荒れ果てていて、モニカはこっそりヴィムに手荒れに効く薬を頼んだのだ。それを毎朝、毎晩、モニカが「治療だから」と言いくるめて塗り込んだ。
おかげでひび割れて、あかぎれていた手は大分綺麗になった。
「ロナルド様とおでかけするのは、嫌?」
正直なところ、ここ数年は魔力過多症がひどくなっていて、ロナルドが町歩きなんてほとんどしたことがないのは知っている。だからロナルドがクラリスを案内できるか分からないのだが、ロナルドはとても優しく誠実で真面目な紳士なので大丈夫だという謎の自信が育て親のモニカにはあるのだ。
それに自身も傷を抱えるロナルドだからこそ、クラリスの傷にきっと気づいてくれる。
「い、嫌ではないです……っ。で、でも私は町を歩いたことがないので、きっと、ご迷惑をかけてしまいます。あの、やっぱりお断りして頂けませんか……?」
すがるような眼差しに頷きそうになるのをこらえて、モニカは首を横に振った。
「あら、だめよ。お約束はお約束だもの」
のほほんと笑いながら返すとクラリスは困ったように眉を下げた。シエルが「ちゅん……」と心細そうに鳴く。
あかぎれは治っても、きっとこの子がその心に抱えている傷は、癒えていない。
クラリスが何か明確な言葉をくれたわけではないけれど、外出したことがないとか、離れで母親と二人暮らしだったとか、その断片からなんとなく苦労してここまで来たのだろうな、ということは察している。
それに歌は母と自分を繋ぐものだと母親を慕っているように話すのに、心配なんてしてもらえるような存在じゃないと悲しそうに告げた。母親と二人きりの暮らしは、幸せだったと言ったのに。
クラリスが時折、モニカとアランに何かを言いたそうにしているのは知っているが、なかなかその先を続けてくれることはない。無理矢理聞き出したら、きっとクラリスはその翼を広げてどこかへ飛び立ってしまう。
クラリスの心の傷にモニカがしてあげられるのは、何も気づいていないふりをして、辛抱強く待っていてあげること、そしてほんの少し、細い背中を押してあげることだ。
「あのね、クラリス。わたしは、あなたに人生を目一杯、楽しんでほしいの。だってまだ十八歳じゃない。お給料だってまだ一マールも使ってないんでしょう?」
真面目に働いてくれているクラリスには、きちんと仕事に見合った金額を先日、初給与として渡した。クラリスはとても恐縮していて、最初は受け取れないと拒否していたのだが、アランが強引に渡したのだ。
「でも……」
「だったらわたしとアランにお土産を買ってきてくれるかしら? わたしも足を痛めてからはあまり買い物をしなくなってしまったから、何か買ってきてくれると嬉しいわ」
「モニカさんと、アランさんに?」
「ええ。ロナルド様はわたしたちにも詳しいから、迷ったら相談もできるでしょう?」
「私からのお土産、嬉しいですか?」
伺うような視線にモニカは笑みを浮かべて頷く。
「もちろん! それをわたしたちの大好きな二人が選んでくれたなら、より嬉しいわ。あ、大事なことだけど、そんな高価なものじゃなくていいからね」
クラリスのような子の場合、何か目的があったほうがいいだろうと思っての提案だったが、モニカが想像していたよりそれはクラリスの心に響いたようだ。
それにこれまで一度もお金を使ったことがない上、あまり自分に何かをすることを良しとしないクラリスがいきなり自分のためにお金を使うのは難しいだろう。
「私、行ってきます」
どこかほっとしたような顔でクラリスが言った。
「まあ、本当? よかったわぁ。あ、でも当日、具合が悪くなったりとかしたら我慢しなくていいからね」
「はい。でも体だけは丈夫なので」
「ふふっ、じゃあワンピースを選びましょう?」
「でも、それは……」
「あら、いいじゃない。本当にわたしは娘が欲しかったのよ。それに孫たちも男の子ばっかりだし……ね、お願い、クラリスが嫌じゃなければ、貰ってほしいのよ」
「……では、あの、もう一着だけ」
「本当? ありがとう。さ、どれがいいかしらねえ」
実は、夫のアランは現在、クラリスのために仕立てた靴を取りに行ってもらっている。メイド服一式を仕立てる時に木型を作ってあるのだ。
「流行ものではないけれど、生地はしっかりしているから。鳥人族用に背中のところを仕立て直すついでに、袖とかもいじっていいからね」
「私は流行が分からないので……でも、とても可愛いと思います」
そう告げるクラリスの青い瞳はキラキラと輝いていて、モニカもつられてニコニコと笑みを浮かべる。
今日は一着だけれど、じわじわと理由をつけてすべて譲る予定なのだ。
モニカの実家の商会は生地の卸売りをメインに仕立て屋も経営していて、これは全てそこで作ってもらったものだ。身内ということで色々融通してもらい、とても質の良い品だ。
だからこそ丁寧に手入れをし、年月を経ても、どれもとても綺麗なままだ。
「ふふっ、どれがいいかしらねぇ。好きな色はある?」
「ちゅんちゅん」
「あらあら、シエルのほうが積極的ねぇ」
くすくすと笑うモニカにクラリスも、ふふっと小さく笑いだし、穏やかな時間が過ぎていくのだった。




