墓守の夜
赤いトマトソースがかかった、白身魚のソテーがメインの美味しい夕食を食べてから、セラフィナは最後の準備に取り掛かる。いよいよ、大事なお役目を果たすときが来た。
道具のチェックをし、寒い夜のお供になる温かい飲み物を準備するための、材料や鍋もバスケットに入れる。
「よし、準備できた!」
初日でいきなり遅刻は大変よろしくない。時計を見れば30分前だが、セラフィナは墓地に向かうことにした。
手に持つランタンの明かりを頼りに進むピンクの花を満開にさせた椿の小道は、昼間とは違う幻想的な趣だ。
特にトラブルもなく、目的地に到着する。いつか自分も入る場所だと思えば恐怖はない。ランタンを傍らに置き、持ってきたシートを地面に敷き、腰掛ける。
薪を用意して、魔法で火を着ければホッとした温かさが辺りを包む。
しかし、寒いな。3月の夜の風にどうしたって震えが走る。セラフィナは早々に自分の体に防御結界を張り巡らさせた。冷気が一気に遮断され、快適な温度になる。
墓守らしく、椿の墓地に目線を走らせるが特に異常はない。魔力を広げて、怪しい人間を探るが侵入者の類いもいない。
1時間ほど経てば、平和な夜に気が抜けてくる。セラフィナはちょっと考えて、温かい飲み物を淹れようとした。
「逃げもせずによく来たね」
背筋が泡立つような、ゾクゾクとした響きを持つ低音の甘い声音。まさか夜の墓地で人の声がするとは思えず、セラフィナは弾かれたように立ち上がる。警戒感も露わに、この場に現れた男をじっと見据える。
「驚かせてすみません。長年1人でこの墓地を守って来たので、仲間が出来たのが嬉しくて」
セラフィナは目をパチクリさせた。どうも墓守というお役目はカラスの王の妻だけのお仕事ではなさそうだ。先輩がいたらしい。先輩相手に礼を失する訳にはいかない、とセラフィナは居住まいを正す。
「はじめまして。ザカリアス侯爵が1人娘、セラフィナ・ドゥラスノ・ザカリアスと申します。どうぞお見知りおきを」
「……レジェスだ。よろしく」
「狭い場所で申し訳ありませんが、どうぞお座りになられて?」
「失礼します」
男は躊躇うことなく、セラフィナから少し離れた場所に腰かける。間に剣を置かれたのは、境界線だろうか。いつでも武器を奪えるけど、いいのかな。
焚き火の明かりに照らし出された男の顔は、息を呑むほどの美貌だった。どこにも非の打ち所がない。完璧な美。
でも、その容姿の美しさより何よりも、セラフィナを驚かせたのは青年の魔力だ。国防を担うだけあって、ザカリアス侯爵家の人間の魔力は総じて高い。化け物じみた魔力の持ち主に囲まれて、セラフィナは育ってきたといっても過言ではない。
だが、この青年の魔力は自分や侯爵家当主である父親よりはるかに強い。自分ではとても敵わない魔力の持ち主だ。そんな人間に初めて会った感動に、セラフィナはうち震える。こんな強い方に普通に会えるなんて、王都は素晴らしい。
声からして若いだろうと思っていたが、青年は顔立ちだけなら20歳前後に見える。セラフィナを見る、アクアマリンを思わせる清んだ青は、こちらを知りたいという好奇心に満ちていた。……夜の墓地に平気で1人で過ごせる子どもは確かに珍しいか。
でも、どうしてだろう。青年の持つ烏の濡れ羽色をした髪に、妙な親しみを覚えた。黒という共通の色に、安直にも夫である大鴉を思い出すのだろうか。
「貴方もこの城に住んでいらっしゃるのですか?」
「いや、昼間は外に出ています。契約に従って、夜の間だけこうして墓を守りに来ている」
これは、もしや本当に昼間はお城に1人っきりということもあり得るのか。気づきたくない事実に気づきそうになっているセラフィナを他所に、レジェスは淡々と話を続ける。
「この墓地には、魔王の呪いがかかっているからかカラスの王とその妻の眠りを妨げるように、国内から駆逐されたはずの魔物が現れます。その魔物を退けるのが墓守の役目だ」
魔物。他国では未だ自然が多い場所には時折現れるそうだが、王国においては、すっかりおとぎ話の存在になっている単語に、セラフィナは目を瞬かせる。
かつて、魔物はその残虐さと魔力の強さから殺戮を繰り返し国中の人々を恐怖に陥れていた。
そのため、当時のレオカディオの王であり武勲にも優れていた1人の勇者が立ち上がり、魔物を生み出す能力を持っていた魔王を打ち取りこの国から魔物の存在を根絶させた。
しかし、死に際の魔王に呪いを受けた事で勇者の姿は魔王によく似た大鴉の怪物へと変わり果ててしまった。さらに、王族にはその後も100年単位で魔物の王子が生まれるようになった。
レオカディオに生まれた子どもたちが、夜に眠る前に親から語り聞かされる定番の神話だ。丸っきり嘘だとは思っていなかったが、てっきり王族への忠誠心を国民に植え付けるための物語だと踏んでいた。神話が一気に現実味を帯びて来る。
セラフィナの夫も、伝承の通り見上げるほどに巨大な大鴉の姿をしている。
「魔法の心得は? 国境を守る家のお姫様だし、魔力も魔物を退けるには申し分ないが」
心配そうな目線と声音に、見かけは丸っきり子どもだから仕方ないとセラフィナは嘆息する。さすがに魔物と戦ったことはないが、領内の海域を暴れ回るサメの駆除なら得意だ。
実家は、有事の際は真っ先に最前線で戦うことが義務付けられている家である。いつ必要になるか分からないから、防御魔法も攻撃魔法も一通りは覚えている。
とはいえ、驕るつもりは全くない。魔物にどれだけ自分の魔法が通用するかは未知数だ。城の書庫に魔物に関する本があるかもしれないから、明日にでも調べておこう。
「実戦でどれだけ使い物になるかは分かりませんが、少なくとも防御魔法は得意です」
魔法技能を示すためと、寒くないようにという親切心で自分にかけた結界と同じものをレジェスにも張る。冷気は勿論対物、対熱、対電さらには精神干渉系の魔法までも跳ね除ける強固かつ繊細なシールドの威力に、レジェスは感心する。
「お心遣いには感謝するが、一晩中張っておくのは疲れるのでは。貴方の力量は分かったので、魔力を温存するためにも障壁魔法は解除したほうがいいです」
「この程度の魔法なら、私は楽に1週間でも張り続けられるので心配は無用です。むしろ良い訓練になります」
魔力が化け物な実家で育ったセラフィナには当たり前の常識だが、普通ならこんな魔法効果特盛の結界など熟練した魔術師でさえ一晩維持するのがやっとである。
レジェスは、庇護すべき幼い子どもとしか思っていなかったセラフィナへの認識を改めた。
年上の男から感心する眼差しを向けられて、セラフィナは落ち着きなく体を揺らす。彼女にとっては、魔法の師でもある父の方が余程すごいのだから。むず痒くなる空気を散らすために、セラフィナは上ずった声で提案する。
「あの、チョコラーテを淹れようと思うのですが! 甘いものがお嫌いでなければ貴方もどうですか?」
チョコラーテは、この国の冬の定番の飲み物であるホットチョコレートのことだ。
レオカディオ王国では、更に年越しの夜には必ず家族でチョコラーテを飲みながら新年を迎えるという風習もある。レオカディオ国民にとっては家族の味とも言える大事な飲み物だ。
「チョコラーテ? いいのか。実は飲んでみたかったんです」
レジェスの、この国に生まれた人間なら普通はあり得ない発言にセラフィナは内心ギョッとする。だが、努めて表情には出さない。家庭は十人十色、普通の家庭など幻想の産物なのだから。
鍋に魔法で出した水を入れて、火にかける。お湯が沸いたところで、マグカップにそれぞれチョコラーテの素を入れる。お湯を注ぐだけで簡単に美味しいチョコラーテが飲めるなんて。文明というのは何て素晴らしいものなのだろう。
「どうぞ」
「ありがとう」
ドキドキしながらマグカップを差し出す。パッケージに書かれた手順通りに作り、特に手は加えていない。だから、味は問題ないはずだ。
そのため、チョコラーテを一口飲んだレジェスが固まってしまったのを見て大いに焦る。慌てて自分でも飲んでみるが、芳醇なチョコレートの香りが口いっぱいに広がって、優しい甘さに幸福感に包まれる。
遠い辺境の我が家にも名声がとどろく、有名店の商品だけあってひれ伏すレベルで美味しい。
しかし、嗚咽と共にとうとう涙まで流し始めた青年に、泣くほど口に合わなかったのかとセラフィナはマグカップを取り上げようとする。お口直しはあったかしら。
「違う、違うんです。美味しい……美味しいなぁ」
万感のこもった声音に、カップをもらおうとしていたセラフィナの手が止まる。
その、あまりにも幸せそうな笑みにセラフィナの頬が知らず熱を持つ。なんて綺麗なの。セラフィナはそっとハンカチを差し出した。レジェスは申し訳なさそうにしながら、ハンカチを受け取る。
「すみません。洗ってお返しします」
「構いません。そのハンカチは差上げますわ」
モスグリーンの無地のハンカチなら、男の人が持っていてもおかしくないだろう。いらなければ捨ててくれていい。
涙を拭いて、落ち着いた男は再びチョコラーテを大事そうに飲み始める。合間にほうっと溢される吐息が妙に艶めいていて、セラフィナの鼓動は大混乱に陥った。
名残惜しそうに最後の一口を飲んだところで、レジェスがポツリポツリと話始める。
「子どもの頃、外を歩いていたら、窓から子どもが母親に作ってもらったチョコラーテを美味しそうに飲んでいるのを見かけてね。寒い雪の日だったから、余計に羨ましくてね。どうして私には家族がいないんだって。チョコラーテが家族の愛の象徴みたいに思えて、ずっと誰かが作ってくれるチョコラーテが飲みたかった。当たり前にもらえるはずの愛情がずっと欲しかった。……いい大人なのにな」
「そういうのに年齢は関係ありませんよ。今日、貴方にチョコラーテを振る舞うことが出来て良かったです」
セラフィナは心の底からそう思った。レジェスが望むなら、チョコラーテを何杯だって淹れてやる所存である。
「また、いつでも来てください。私は毎晩ここにいますから。一緒にチョコラーテを飲みましょう」
「……ありがとう」
なんだか可愛いらしい人だな。年上の男性に普通は抱かない感想を、セラフィナは覚えた。




