55・トルスガルフェ侯爵邸でのわずかな休息
ガタゴトと、何度か大きくその車体を揺らした馬車が止まり、外からゆっくりと扉が開けられる。
「ここは……馬車庫……?」
ちらり、開いた扉から外を見ればそこは厩舎につながる、馬車庫の中だった。
「はい。 このような場所で申し訳ございません。 この屋敷は今、夜目の利かない烏がたくさん群がっているものですから、このように偽装する必要があったのです。」
馬車の扉の下にしっかりとした足置きを置き、黒衣の女性、それから私、最後にオフィリアとエリをエスコートして降ろしてくれた護衛騎士がそう言って頭を下げて謝罪したけれど、私はそれに微笑みながら首を振った。
「大丈夫ですわ。 非常事態であることは理解しておりますから。 ここまで守ってくださってありがとうございます。 それよりも、申し訳ありませんが、オフィリアを休ませてあげることは出来ますか?」
「かしこまりました。 では、こちらへ。」
護衛騎士が先導してくれ、厩舎の中に作られた地下への階段を降りた私たちは、青ざめ、ふらつきながらもしっかりとエリを抱き締めているオフィリアの歩調に合わせながらその道を通り、足元を気を付けながらその先にある階段を上がり、開けてもらった扉を抜けた。
薄暗い部屋から急に明るさが増し、目がくらむ。
「お手を失礼いたします。」
クラリ……と軽いめまいを起こし、少しよろめいたところで、侍女が手を貸してくれる。
「大丈夫でございますか? ザナスリー公爵令嬢様。」
「……大丈夫ですわ、手を貸してくれて感謝します。」
一つ、息を吐き、手を貸してくれた侍女にお礼を言った私は、黒衣の女性の後をついて扉の外に出た。
「……ここは……。」
目を開けて周囲を見ると、天井には明るく輝くシャンデリア、目の前には噴水、ガーデンテーブルのセットがあり、周囲を様々な花木で囲まれた庭園のようである。
「こちらはトルスガルフェ侯爵家の室内庭園でございます。 皆様、お疲れ様でございます。」
噴水を背後に、私たちに深く頭を下げたのは、この家の執事か家令であろう、ゴールドの鎖飾りのついた片眼鏡を付けた初老の男性だった。
「お待ち申し上げておりました、 無事の御到着、安心いたしました。 お嬢様。 ザナスリー公爵令嬢様。 マミ様。」
(――家名に、マミ、様……。 ここでは修道女見習いとして滞在するわけにはいかないのね。)
彼の言葉を反芻し思案する中、腰の曲がった黒衣の女性が言葉を返した。
「えぇ、ありがとう。 何事もなく無事について私もほっとしたわ。 さて、ついて早々で申し訳ないのだけれども、部屋は用意してあるかしら? 彼女達を休ませてあげたいの。」
「はい、すでにご用意は整っております。 お食事はいかがなさいますか?」
「そうね……。」
先ほどまで、腰を曲げ、杖を突いていた黒衣の女性は、手に持っていた杖を男性に渡すと、すっと背筋を伸ばし、ゆっくりと被っていたヴェールも外し、いつもであれば見ることのない美しい長い髪と顔をさらして、私とオフィリア――マミの傍に歩み寄って来た。
「ミズリーシャ嬢、マミ嬢、大丈夫かしら?」
「……院長先生……?」
青い顔、震える声でそう呼んだマミに、院長先生は穏やかに微笑み、そっと背を撫でる。
「えぇ、そうですよ。 ごめんなさいね、私は少し、目をつけられているから、外にでるときはこうして素性を隠しているの。 さ、マミ嬢。 部屋を用意させてあるから、エリと一緒にゆっくり休みなさい。 乳母の手配もしてもらっているから、安心して眠るのですよ。 食事は食べられるかしら?」
「……。」
「そうね、ちょっとつらそうね。 では少しだけ、負担のない口当たりの良いものを用意させるわ。 無理をさせてごめんなさいね。」
ふるふると無言で首を振ったマミにそう声をかけた院長先生は、そっと背を擦ると近くにいた侍女に命じ、用意されていた車いすに彼女を座らせ、温室から用意されているであろう部屋へと連れて行くよう指示を出した。
「公爵令嬢様もどうぞ。」
「……院長先生。」
マミを乗せた車椅子を先導する侍従が、私に向かって頭を下げたため、院長先生に視線を移す。
「ミズリーシャ嬢も今日はゆっくり休んで頂戴。 明日、ちゃんとお話しする機会を設けます。」
「かしこまりました。 お気遣い感謝いたします。」
しっかりとカーテシーをし、侍従や侍女に従って温室を出た私は、しばらく歩いたのち、ひとつの部屋に案内された。
「こちらのお部屋をお使いくださいませ、ザナスリー公爵令嬢様。 中に湯あみと軽食の準備が整っております。 他、足りないもの等ございましたら、遠慮なく侍女にお申し付けください。」
「ありがとう、お心遣い感謝します。」
「……シャ……?」
説明され、軽く会釈をした私の耳に、名を呼ぶ声がした。
「どうかした? オフィリア。」
傍に寄った私の手をきゅっと握る彼女の顔色は悪い。 きっと馬車に揺られ続けて体調を崩していることと、環境の変化にひどく緊張しているのだろう。
「あの、彼女の部屋はどこに?」
「ザナスリー公爵令嬢様のお部屋のお隣にご用意させていただいております。」
それを聞いた私は、車椅子に座る彼女の目線に会うように膝を折り、そっと肩に触れた。
「ここでもお隣の部屋のようよ。 もし何かあったら侍女に申し伝えて私を呼んで頂戴。 すぐに行くわ。 でも、今日はもう休んだ方がいいわ。 乳母もいるそうだから、今日は院長先生のおっしゃったように、エリの事は心配しないで寝るといいわ。 大丈夫、ここはきっと安全よ。」
「本当に?」
「えぇ。 院長先生は、嘘をつかれたことはないでしょう?」
言って、自分でも少し引っ掛かりを覚えながらも、その言葉は彼女を安心させるには十分だったようで、彼女は小さく頷いた。
「おやすみなさい、ミーシャ。」
「えぇ、おやすみなさい。 オフィリア、エリ。」
夜が怖くて寝れないと言った私に母がしてくれた時のように、2人の頬にキスをすると、少し、表情を緩ませた彼女もまた、私の頬にキスをくれた。
「また、明日。」
手を振って車椅子を押され隣の部屋に入っていった彼女を見送った後、私は侍女に促され部屋の中に入った。
洗練された落ち着きある設えの客室に入ると、侍女の手を借り湯あみをした。 久しぶりに他者の手によってしっかり髪や体を念入りに洗われた上、香油を使ってマッサージやお手入れを受けていると、本当に修道院を出たのだと実感する。
用意された柔らかで上質な新しい下着と寝間着に着替えさせられると、テーブルの上には暖かなお茶と軽食が準備されている。
それらをいただき、洗面を終えた私は、思ったよりも疲れていたのだろう、そのまま天蓋のある大きなベッドに体を横たえると、あっという間に眠りについてしまった。
翌朝。
夜に紛れた移動の緊張と、修道院のベッドよりも柔らかでしっかりしたベッドのお陰でいつもよりもぐっすり寝入ってしまった私が目を覚ましたのは、なんと、お昼前だった。
「ごめんなさい。 トルスガルフェ侯爵閣下へは、滞在のご挨拶もしてないのにこんな時間まで寝てしまって。」
様子を見に来てくれた侍女にそう謝ると、彼女は穏やかに微笑んでくれた。
「旦那様とお嬢様より、お目覚めになるまでゆっくり休ませてあげてほしいと言われておりましたので大丈夫でございますよ。」
と、侍女には言われたが、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
その後は、以前公爵家で暮らしていた時の様に、侍女に手伝ってもらって洗顔をし、用意されてた濃紺のシンプルだがとても品のいいものとわかる美しいワンピースを着せてもらい、同じく濃紺色のヒールのある靴を履く。
姿見には、昨日までの修道女見習い姿のわたしではなく、公爵令嬢としての私が映っていてやや気恥ずかしいと感じながら、私は、少し首をひねった。
(綺麗なワンピースに靴。 しかも誂えたかのようにサイズもぴったりだわ。 トルスガルフェ侯爵家に、私と同じ年頃の令嬢はいなかったはず。 ワンピースや靴もだけれど、下着や寝間着まで新しいものが用意してあった。 ……わざわざ用意してくださったのかしら?)
確かに侯爵家に滞在している間、修道女のワンピースで過ごすわけにはいかないだろう。 しかし、教会からの通達が出たのが一昨日の夜として、そこから急いで用意したとしても、令嬢のいない家にしては、随分と用意が良すぎる気がする。
(もしかしたらかなり前から計画が……。 いえ。 でも、院長先生がトルスガルフェ侯爵家は今、賓客をお迎えしていると言われていたわね。 その中に同じ年頃のご令嬢がいらっしゃるのかもしれないわ。)
そう自分を納得させ、侍女に促されて鏡台の前に座ると、髪を丁寧に梳いてもらい、綺麗にハーフアップに整えてもらって私に合わせ鏡で髪型を確認してくれながら、侍女は声をかけてきた。
「ミズリーシャ公爵令嬢様。 当家の主人より、マミ様とご一緒に、本日のお茶の時間を是非ご一緒したいと伝言を預かってございます。」
それには、私は頷く。
「えぇ、是非。 突然お邪魔したにもかかわらず、ここまでよくしてくださっているお礼も申し上げたいので、お願いします。」
「かしこまりました、そのように主人に申し伝えます。 それから、マミ様もお目覚めになられたようなのですが、主人が指定したお茶の時間までしばらくお時間もございますので、軽食をご用意してさせていただいております。 それを一緒にどうかとお伺いが来ておりますが、いかがなさいますか?」
告げられたマミの名前に、そうだった、と思い出して、笑顔で応じる。
「えぇ、きっと彼女も落ち着かないでしょうから、是非。 こちらから出向くわ。」
「かしこまりました。 そういたしましたら、マミ様のお部屋に軽食を準備させていただきますね。」
「ありがとう。」
鏡を片付けながら笑顔で応じてくれた侍女に、私はお礼を言い、それから、鞄の中から取り出した手紙を差し出す。
「それから、大変申し訳ないのだけれど、この手紙を送ってもらうことは出来るかしら。 勿論、中は確認していただいて結構です。」
「かしこまりました。 家令に確認後、手配させていただきます。」
マーガレッタ様宛の手紙を預けた侍女が部屋から出て行くのを待って、私は目覚めのハーブティの用意された窓辺に置かれたソファに座った。
ハーブティの注がれたティカップを摘んだ指先のあかぎれを見つけて笑みが漏れる。
「こんな生活、ゆったりとした時間を過ごす事なんて、本当に久しぶりだわ。」
夜明け前に起きて、掃除をして、洗濯をして、子供たちの世話をして。 バタバタと忙しくも充実した日々だったと、つい昨日までの日常を懐かしく思い返し、それから窓の外を見る。
美しい庭園。
背の高い花木で庭の先を見ることは出来ないが、何処から見ても美しく花木が愛でられるようにと計算され作られたと解る。
私の部屋の目の前には見事な薔薇が咲いているが、少し遠くに目を向けると、花壇があり、小さな色とりどりの花が咲いているのがかすかに分かる。
各部屋の窓から見える花を部屋のテーマに合わせて育てる趣向なのかもしれない。
歴代のトルスガルフェ侯爵家の中に、屋敷のどこからでも花木を愛したいと願った方がいたのだろう。
そう思い、ふと、院長先生の顔を思い浮かべた。
このトルスガルフェ侯爵家のご令嬢だった人。
考えることはいくらでもある。 何故ここなのか、何故私たちだけここに連れてこられたのか。
何故……何故?
考え出したらキリがない。
それでも、私たちはここにいる。 ここにいて、何かに巻き込まれようとしている。
そう考えると気になる事はたくさんあるが、院長先生は説明をすると言った。
ならば、下手に探ったり想像をして悩むよりは、その説明を待とうと考えた。
(そうすると今は……。)
「今は……そうね、難しいことを考えるより、目の前の花を愛でましょう。」
ふふっと笑ってハーブティを飲んだ。
この余白の時間を、心落ち着けて過ごしていると、しばらくして、扉をノックする音がして侍女がやってきた。
「失礼いたします。 ザナスリー公爵令嬢様、軽食のご用意が出来ましたので、ご案内させていただいてもよろしいでしょうか?」
「えぇ、お願いします。」
ティカップを置いた私は、ゆっくりとソファから立ち上がると、侍女の後をついて廊下に出た。
数歩歩いて、ついた部屋の扉を侍女が開けてくれる。
「こちらでございます。」
お礼を言って中に入ると、目の前が急に暗くなった。
「あぁ! ミーシャ、良かったぁ。」
マミの部屋に入ってすぐ。 そんな声と一緒に飛びついてきたマミを抱き留めた私は、一瞬あっけにとられ、それからつい、笑ってしまった。
「どうしたの? 吃驚したわ?」
「だって、だって……。」
今にも泣き出しそうな顔をしたマミの頭をよしよしと撫でながら、首をかしげてテーブルの傍にいた侍女を見ると、ひとつ、頭を下げた。 可愛らしいベビードレスに身を包んだエリを抱っこした乳母もこちらに会釈してくれる。
「お嬢様方、お食事の用意が出来ましたのでどうぞこちらへ。」
「さ、行きましょう?」
そっと背を押してマミを促し、テーブルに足を進める。
侍女が椅子を引いてくれたのに合わせてゆっくりと腰を掛けると、マミも戸惑いながら私の真似をして丁寧に椅子に座った。
マミが身に着けているのは、柔らかなベージュのブラウスと、落ち着いた濃紺に白の花柄のスカートで、黒髪の彼女には大変にあっている。
「さ、頂きましょう?」
「うん……あ、はい。」
そう言ってから、慌てて言いなおしたマミに微笑みながら、一緒にお祈りをし、用意されていた軽食に手を伸ばす。
果物の入ったヨーグルトに、小さなオープンサンドが数種類、それからミルクティだ。
「さて、どうしたの?」
食事を食べ終わり、紅茶を飲みながら目の前のマミに問うと、彼女は困った顔をして、大きく目を見開いて私を、傍にいたエリを抱っこした乳母を、最後に穏やかに微笑む侍女を見ると、大きく部屋を見回すように視線を巡らせて、困ったように笑った。
「何かもう、よくわからなくって、パニックだったの。 えっと、ごめんね。」
「パニック……?」
「えぇと、頭の中が混乱してた、んだと思う。 目が覚めたら知らないところだし、エリは隣にいないし。 だから……その……。」
「……?」
「一瞬、私、エリと一緒に捕まっちゃったんじゃないかと思って、パニックになっちゃって……。」
ちらっと侍女と乳母の方を見れば、なんともない、とでも言うようにほほ笑みを浮かべ、会釈された。
なるほど、私がぐっすり寝ている間に、何やらあったようだ。
確かに、昨夜は私でさえ本当に緊張した。 マミにしてみれば体調も万全でない中、長時間にわたり馬車に揺られ、緊張と不安にさらされ、到着後はなにも確認できないまま、気を失うように寝てしまったんだろう。 それで目が覚めたらここにいて、エリもいなければ確かに慌てるわよね、と納得する。
「そうだったんですね。 大丈夫でしたか?」
「うん、皆がすぐエリに会わせてくれて、説明してくれたから。 でも不安で……そしたらミーシャを軽食にお誘いしてみましょう? って言ってくれて。 ……わがまま言って、ごめんなさい。」
項垂れ、シュンとしてしまっているマミに、私は困ったように笑った。
「それは、全然かまいませんよ。 私の方こそごめんなさい。 ぐっすり寝てしまっていて。 起こしてくれてもよかったのに。」
「ううん。 みんなはそう言ってくれたんだけど、私が大丈夫って言ったの。 説明してもらって一応は解ったし、昨日はミーシャも疲れてたでしょう?」
フルフルと首を振って、それからほっとしたように紅茶を飲むマミの姿を見る。 どうやら彼女の方も、私に気を使ってくれたようだ。
(あのオフィリアが、ね。)
つい嬉しくなってしまった私は、ティーカップを置くと一つ、提案をした。
「もしお許しが出るようなら、ここにお世話になる間、お互いの時間が合うときは、食事を一緒に取りましょう。」
「本当!? うれしい! ありがとう!」
私の提案に、マミはぱっと顔を明るくして何度も頷いた。
それからしばらく、マミと他愛ない話をして、エリを抱っこしたりして過ごしていると、扉をノックする音とともに、侍女が現れた。
「そろそろお時間になります。 申し訳ございませんが、正装へ整えさせていただきますので、お部屋へお戻りいただけますでしょうか?」
「……わかりました。」
エリを乳母に預けた私は、マミと手を振り別れると、部屋に戻り、2年ぶりにしっかりとした正装をさせられた。
その後、同じく、しっかりとした正装を着けられたマミと、華やかなベビードレスを着たエリを抱っこした乳母と共に、侍女に先導されて屋敷の奥へと、案内されたのだった。




