53・名前。
オフィリアが出産して1週間がたったところで、院長先生に呼び出されたからお願いできる? と、少しだけ大きくなったベビーを養育室に預け、院長室に行ってしまったオフィリアを見送った私は、コップに入ったミルクをひっくり返してしまったアニーを着替えさせながら、一緒に養育室で働いているハンナの方を見た。
「どうしたんでしょうか、呼び出し、なんて。」
「本当、どうしたのかしらねぇ。 ねぇ、ベビーちゃん。 お母さんと離れたら不安になるよねぇ。」
首を傾げたハンナは、その腕の中に抱かれて眠る、小さな小さなオフィリアの赤ちゃんをゆらゆらと揺らしながら言った。
(もしかしたら、マーガレッタ様の時のように……辛い話をしているのではないかしら……。)
ふと、産んだ子供との別離を示す書類を突き付けられたマーガレッタ様の顔が脳裏に浮かぶ。
「心配することないよ。 ミーシャ。」
「……え?」
アニーに抱っこをせがまれて慌てて顔を上げた私にハンナは笑った。
「まだ生まれて1週間だ。 ローリエの時みたいにって心配になったんだろうけど、オフィリアはここに来るお嬢様達とはちょっと事情が違うからねぇ。 親子が離されたりすることは今はまだないよ。」
顔に出ていたのだろうかと一瞬焦った私に、あははと笑う。
「わかるさ。 この愛児院も、昔からまぁ、色々あったからね。 今だってそうだ。 ここは愛児院。 2歳になったら幼児院へ子供は住む場所を移すって約束があるだろ? なのにねぇ、2歳を超えたアニーもシンシアも、まだここにいるだろう?」
「……はい。」
そう。 私が来て2年が過ぎた。
しかし2人には今だ引き取りたいと言う家族が現れない。 ここは愛児院。 規定によって近いうちに幼児院へ移されるのだろう。 それは何時言われるだろうか……と思っていた。 しかし院長先生からそれを言い渡される気配はないまま2人は2歳のお誕生日を迎えてなお、ここにいて、私たちがお世話をしている。
「……こういう事は多いんですか?」
「いや、今まではなかったね。 ……まぁ、今の世の情勢じゃ仕方がないかもしれないねぇ。」
「え? 何かあるんですか?」
その話に首をかしげる。
「う~ん。 ちょっと聞いた話なんだけどね。 今、王都の幼児院や孤児院はどこもいっぱいで、2歳を超えても愛児院を出れない子が多いそうなんだよ。 愛児院だって、2歳超えた子を出せないまま、新しい孤児を受け入れてる場所もある。 うちみたいに教会じゃなく、国が独自に運営してる孤児院では、年若の子を受け入れるために、退所年齢に達していない年長の子を追い出してるところもある。 昔はそんなことなかったんだけどね。 きな臭い噂もあるくらいだし、なにかあるのかねぇ。 最近は、王都を歩いていても、どこもかしこもギスギスして嫌な空気だよ。」
「……そう、なのですか?」
噂通りとは何だろうと思いながら、難しい顔をしたハンナに尋ねる。
「あんたは外に出ることがないからわからないだろうけどね、王都の治安は悪くなっているよ。 孤児は増えているし、職を失う者も多い。 なのに税金は上がる一方。 大通りを一本入れば、あちらこちらで騒ぎが起きてる。 もうずいぶん前から、女は夜は出歩いては駄目だと言われているよ。」
「そんなにですか……?」
「あぁ。 ここ1、2年で急激に悪くなった感じだね。 それなのに建国記念で他の国からお客様が来るとか来ないとかって貴族街は大騒ぎ。 不敬罪になるから口には出せないけどね、上は何をやってるんだって、誰だって思っているよ。」
ため息交じりの言葉は重く、そんな言葉に私はただ驚くばかりだ。
私がまだ公爵令嬢であり、王太子の婚約者をやっていた時には、王都は夜間は警備兵が巡回し、貧民街以外の場所は、夜間に女性が出歩いても大丈夫であったと記憶しているし、もし何かあってもすぐに警備兵や騎士たちが対応できる状況だったと記憶がある。
孤児問題は確かにあった。 しかし国営の孤児院には国庫から定期的にしっかりした支援もあり、退所年齢未満の子供が追い出されると言うようなこともなかったはずだ。
(お母様とアイザックは帝国へ行ってしまったし、お父様は領地に戻っていらっしゃったから、王都の様子を知る事がなかったけれど、あれ以降、治安も経済もかなり悪化していたのだわ。 外交はエルフィナ殿下が頑張っていらっしゃるようだけど、市井に支援が届いていないのは明らかに国王陛下と王妃殿下の職務……このままでは不満がたまり、王家に対して不満だけが募るわ。 何も起きなければいいけれど……)
そんなことを考えながら仕事をしていると、オフィリアはやや疲れたような顔をして帰ってきた。
「おかえりなさい、オフィリア。 院長先生のお話は終わりましたか?」
「……うん。」
「?」
やや浮かない顔が気になったため、私は時計をちらりと見、笑った。
「オフィリア。 そろそろ3時のお菓子の時間なんですが、久しぶりにこっちに来たのでここで食べていきませんか?」
そういうと、オフィリアの顔に笑顔が戻った。
「いいの?」
「せっかくこちらに来たのですし、気分転換にいいのではないですか? どう思います? ハンナ。」
「あぁ、いいんじゃないかい? オフィリアの可愛いベビーは私が抱っこしててやるから、ゆっくり食べな。」
パチン、とウインクして言うハンナに、オフィリアが声を上げる。
「嬉しい!」
「じゃあ、皆と座って待っててください。 すぐに用意してきますね。」
嬉しそうに頷いたオフィリアを確認した私は、抱っこしていたアニーをベビーゲートに入れると、おやつを取りに行くために養育棟を出た。
「……名前、ですか。」
「うん。」
今日のおやつである野菜ドーナツとホットミルクを子供たちと一緒に食べ終えたオフィリアは、体も温まってほっとしたのか、養育室の中を『懐かしい』と言いながらきょろきょろと見まわしていた。 そんなところに同じく、お腹いっぱいで満足したのか、椅子をはい出したシンシアが、すごい勢いでオフィリアに突進した。
「わぁ。」
どーんとぶつかって、よろめくオフィリア。 床に座っていたため何とかシンシアを抱きとめていたが、立っていたら危なかったかもしれない。
「シンシアもオフィリアも大丈夫ですか?」
「あい!」
「うん、大丈夫。 シンシアちゃん、おっきくなったねぇ。 かわいいね。」
膝の上に抱きかかえてぎゅっとシンシアを抱き締めたオフィリアに、ハンナが笑う。
「懐かしい、おっきくなったって、ここに来れなかったのはまだたった1週間じゃないか?」
それにはオフィリアは首を振る。
「そうなんだけど、もうずっとこっちに来たかったの。 みんな会いには来てくれるけど、あの部屋の中にずっといると、気がめいっちゃうの。 だから今日は、久しぶりにここに来れて嬉しい。 まだ部屋で安静にしてなきゃダメかな? 明日からはお昼の間、ここにいたらダメかな?」
それにはハンナがう~ん、と考えるようなしぐさをする。
「お産から1週間たった頃だし、少しだけここに来てるくらいならいいかもしれないけれどねぇ。 念のためにノーマに聞いてからにした方がいいね。 それから、来てもいいって言われても、仕事してもいいってわけじゃないんだから、手伝いとかはするんじゃないよ? 基本的にお産の後のひと月は何もせずに体を休めるっていうのが大前提だからね。」
そう言われて、オフィリアは嬉しそうに頷いた。
「うん。 じゃあ、後でノーマとシスター・サリアに相談してみる。」
「いいよって言われるといいですね。」
「うん。」
うふふと笑いながら、膝の上で遊んでいるシンシアを見ていたオフィリアに、ハンナがそういえば、と問いかける。
「それで、オフィリア。 名前ってベビーの事かい?」
「そう。 赤ちゃんの名前をね、どうするか聞かれたの。 ここで赤ちゃんを産んだらアリア修道院から国に届け出るの? それでね届け出をするのに名前が必要みたいで……どうしたいかって院長先生に聞かれたの。」
なるほど、と、私はおやつの食器を片付けながら答えた。
「あぁ、そうでしたね。 この国では生まれて1ヵ月の間に貴族であれば貴族籍、庶民であれば国民籍に登録するために登録する義務がありますね。」
「うん、それは向こうでもあったからわかるんだけど、でもそれって、両親の名前とかも一緒に届け出るんでしょ?」
そう言ったオフィリアは、ハンナに抱っこされて眠る自分の子供を見て鳶色の瞳を揺らした。
「……この子の、お父さん……。」
「あ~、それなら大丈夫だよ、オフィリア。」
「……え?」
泣き出しそうな声になっていたオフィリアに、ベビーを抱っこしたハンナが笑う。
「修道院で生まれた子なんだから、親も子もない。 子供の名前だけが登録される。 あんたの名前はもちろん、相手の名前だって必要ないさ。」
「……そっか、良かった……。 相手の名前もだけど、私の名前も出したらよくないもんね……。」
ふっと強張った顔を緩ませたオフィリアは、目元を拭ってから、うん、と大きく頷いて笑う。
「それで、名前なんだけどね? 如何したらいいかなって思って。」
「1週間もあったんだ、考えてた名前はないのかい?」
不思議そうに答えたハンナに私も頷くと、難し気に顔を顰めるオフィリア。
「それが、あるにはあったんだけど、それを院長先生にいったら、この世界ではとても珍しい名前になるし、書類に文字が綴りにくい? から、難しいわって言われちゃって。 で、こっちでもおかしくない名前の方がいいんじゃないかってって言われて……考え直し中?」
「そうなんですか? 難しいですね。」
たしかに向こうで使っている名前はこちらでは使いにくいかもしれない。 現に今、前世の名前を言えと言われたら、凄く発音に悩む自信がある。
「うん。 だからね、どうしたらいいかなぁって。 ハンナさんは子供の名前、どうやって決めたんですか?」
「うちの娘の名前かい? うちの子供の名前は2人とも旦那がつけたんだよ。 上の子の名前は北の国の宝石みたいな花の名前、下の子の名前は幸せを運んでくる鳥の名前だって言ってたね。」
少し照れながら答えたハンナに、オフィリアは目を輝かせる。
「ハンナさんの旦那さん、凄くロマンチックな人なんだね! 宝石みたいな花の名前に、幸せの鳥の名前かぁ……素敵! ミーシャは? 名前の由来あるの?」
「私ですか?」
話を振られて、私はよどみなく答える。
「私の名前は曾祖母の名前です。」
「曾祖母って……あぁ、ひいおばあちゃんだ。 え? ミーシャの名前はひいおばあちゃんの名前を貰ったの?」
「えぇ。 貴族階級ではよくあるのですよ。 曾祖母は帝国の侯爵家の長女で、当時、社交界では淑女の鏡と言われる方だったそうです。 そのように育ってほしい、という意味と、その家の伝統を引き継ぐと言う事もあるのだそうです。 ちなみにですが、弟のアイザックの名前は母方の祖父の名前です。」
「ふぅ~ん、おばあちゃんの名前、かぁ……。」
シンシアを抱っこしたまま、なるほどなぁと考え始めたオフィリアは、そうだ、と声を出した。
「ハンナさん、ミーシャ。 『エリ』……って名前、呼びにくい?」
「エリ、ですか? こちらではエリーと語尾を伸ばしたりしますが、こちらでも聞く名前ですし、響きも綴りも綺麗な、とても素敵な名前だと思います。」
そう答えた私に、ハンナも相槌を打つ。
「うん、いい名前だよね。 そんな名前のついた花もあったような気がするし、いいんじゃないかい?」
私とハンナの答えに嬉しそうに笑ったオフィリア。
「ほんとに!? そっか、じゃあ、エリ、にしよう。」
ふふっと笑って、エリ、エリ……と何度も口の中で繰り返すオフィリアに、私は聞いた。
「それは、お祖母様のお名前ですか?」
私の話を聞いて思いついたのならそうかと思って聞いたのだが、それには、少しだけ泣きそうな顔をして、オフィリアは笑った。
「ううん。 『衣里』はね、ママの名前。」
その言葉に、ズキン、と胸が痛んだ。
「……お母さまの……。 そうだったのですね。」
聞いてはいけなかった。 後悔して、唇を噛む。
そんな空気を吹き飛ばすように、ハンナは嬉しそうに笑った。
「素敵な名前じゃないか。 ベビーちゃん、貴女の名前は今日からエリだそうよ。 可愛らしいお花のような、眩しい光のような、ベビーちゃんにピッタリの素敵な名前じゃないか。 よかったねぇ。」
つんつん、と頬をつつかれたエリと名をつけられたベビーはむずがゆそうに顔を歪め、産まれた時より青みの増した瞳を開け、ふにゃっと笑った。




