僕を守る悪魔2
誰かが歩み寄ってきた。
白髪交じりのおじさん、すぐそこの小さな文具店の店長をしている人だ。店の前を掃除しているのを毎日見かける、いつもそこにいる人の一人だ。
僕の方を軽く揺さぶりながら、大丈夫かと繰り返す。
依然気になる三人組に注意を払いつつ、少し上の空になりながらも無事に済んだ、大丈夫だと答える。
「危なかったなぁ、あんなもんがぶつかってたら命が危なかったところだ。いやぁ、肝が冷えたろう」
あんなもん
おじさんの視線を追うと、そこにあったのは変形したガラス戸のようなものがある。
あれが落ちてきたのだろう、状況的にそれ以外思いつかない。確かに命の危機だったようだ。
見上げた先にはマンションがあり、最上階あたりに壁面が大きく四角く抜けているのが確認できる。
物だけを見ると縦長のガラス戸に見えたそれはどうやら横長の、多分内側から押し開けるタイプのもののようだ。専用のハンドルを回して10センチくらい斜めに開くすごく重いやつ。
何キロあるんだろう。こんなものを受けたらギロチンを落とされたみたいに真っ二つだったんじゃないだろうか。
そんな風な事を思っていると、また誰かが近付いてきた。
誰が見ても分かるほど青白い顔をした年配の女性がしがみついてくる。
何かを言うわけではなかったが物凄くホッとしているような感じ。どちらかと言えば僕よりこの人の方が命拾いした感のある様子だ。
僕はそれを見て
あぁ、あの部屋に住んでいる人なんだなと察する。
さぞかし安堵を覚えた事だろう。
「肝を冷やしましたね」
なんて言ってみたりした。
気になる三人娘は集まってきた野次馬の一部になりつつある。
よかった、何も無かったのだ。
その後救急車がやってきた。
特にけがはない事を伝え、軽く確認もしてもらったがとりあえず一度乗ってくれと言われたためそのようにした。
件の部屋の主がやや錯乱気味だったこともあり、そちらへの対応も必要だと感じたからだ。
救急車の中に入ってドアが閉められると、靴を脱ぐように言われた。
「土足禁止なんですか?」
脱ぎながら、冗談のつもりで言った。
バラバラとガラスの破片が落ちていく、隙間から中に入ったのか、それなりの量があった。
「ほら見ろ、危うく二次災害が起きるところだ。さあ、靴下も脱いで。刺さってるかもしれない」
全然なんともないつもりでいたけど、これは想定していなかった。さすがプロフェッショナル、見事な観察眼だ。
足の裏やくるぶしの辺りをチェックしてもらい、大丈夫そうだとお墨付きを貰ったところで部屋主の対応をしていた人が車内に戻ってくる。何かを確認し合って、そのまま走り出した。
「え――あのぉ……」
「とりあえず病院まで来てもらおう、保護者の方に連絡したいから自宅の電話番号を教えてもらえるかな」
そんなちょっと署までみたいなノリがあり得るのか?
「えぇと、ミーは何をしに病院へ?」
「そうした方が物事の収まりが良いと判断した。君を置いていくとあの人だかりはしばらく解消されないだろうからね」
「あんまり母さんに余計な心配はさせたくないんだけど」
「うーん、じゃあお母さんへの電話は君の方からしてくれ。ただその他はこちらの提案を飲んでもらいたい。忙しい仕事なんだ、頼むよ」
断れない言い方をされ仕方なく承諾する。
早速電話をかけた。
あまり心配をかけないよう通学中に近くで事故が起こり、その近くにいたので念のため同じように近くにいた人達とまとめて病院まで連れて行ってもらったということにした。特にケガはなかったが歩いて帰るのは遠いから迎えに来てくれ、そんな風にちょっとだけ嘘を織り交ぜる。
電話を切る、なかなか上手い言い方じゃないかと笑われた。
お互い様である。
救急車は病院の敷地へ入ってそのまま車庫の方へ入って行った。
少し待つように言われ、全員が出ていったかと思うと一人が僕の靴を持って戻ってきた。
コンプレッサーを使ってガラス片を吹き飛ばしてくれたそうだ。その後手でしっかり確認したから履いて帰って大丈夫だとのこと。
自分のものだからそれほど気にはならないとはいえ、男子高校生の運動靴はそれなりに臭うはずである。
ちょっと申し訳なくなりながらお礼を言って受け取り、それから総合受付のある入り口の方へ案内された。そこのロビーで迎えを待つようにとのことだ。
『総合受付のところで座って待ってる。診察料はタダでいいみたい』
スマホでショートメッセージを送って母さんを待つ。10分もせずに合流できた。
母さんはなかなか大袈裟に心配しているようだったので、このまま学校を休んでいいかと聞いてみた。
予想では許可が出るはずで、返事は勿論オーケーだった。
学校へ行くのとダラダラ過ごすのとでは後者の方が体験できる回数が少ない。であればレアな方を選べる時はそっちを選ぶべきであると僕は考えている。
まあ、これといって何をしようというプランは無いからこれからそれを考える必要がある。
人生において、こういうちょっとした空白を埋める経験と能力はもっと重要視されるべきだと思うのだ。
自由を求めていると言うくせに、自由を怖がる。普通はそんなものなんだろうけど、それを指摘するのはシニカルな笑いを好む人たちばかりではない。近年多くの人たちが社会の持続可能性について語り出したように、敷かれたレールが途中で途切れていることに誰もが気付いているのだ。
先頭を行く選ばれた誰かだけが人生を走り抜けることを許されるのか?
そんなはずはない、誰だってそうしていい。その権利がある。
脱線しても倒れず、どこかへ向かって進むことが出来る力がいつかきっと必要になるだろう。
そのために僕が帰宅して一番最初にやったことは、恐竜図鑑を広げることであった。本棚からこれを取り出すのは一体何年ぶりだろうか、今でも一部の説明書きを諳んじることができるほど幼少期には夢中になったものだ。
まず見た目がカッコイイ。そう、恐竜はカッコイイのだ。そんなカッコイイ恐竜のようなものがいつも傍らにいるのだから僕はとりわけこういうものに思い入れが深い。
「ねえ、さっきはお前が助けてくれたの?」
黒い煙のような靄のようなそれに話しかける。
自分の立っていた場所と、大きな窓枠が元々収まっていた位置。今考えても何故当たらなかったのか不思議に思う。風も吹いていないのに真下より大きくそれた位置に落ちた理由があるとするなら心当たりは一つだ。
悪魔は何も言わない。いつものことだ、何か言うことはあるが会話しているわけじゃない。ゆらゆら揺れ動くその様子から僕が勝手に何かを感じ取るだけのこと。今はそう、どことなく嬉しそうにしている気がする。
そういえば、時々喋る時にどうやって声を出しているのだろう。さかさまに打った釘みたいな歯で塞がった口で。
目の前の図鑑に掲っている肉食恐竜たちも同じような見た目をしているが、実際のところこれには嘘がある。本当の恐竜は大体ワニみたいな感じで口を閉じた状態で口外に歯が突き出ていたりはしないそうだ。
獲物に食いつき捕まえて、失血死させて飲み込むから全ての歯が尖っている。咀嚼しないから人間にある奥歯みたいな平らな歯が必要なくて、飲み込んだ石を胃の中でゴロゴロさせて消化の助けにするっていう話を聞いたこともある。
形には理由があるものだ。恐竜図鑑はそういった事を幼い僕に教えてくれた。
だからなんだか気になってしまう。
そのギザギザの歯は何のための形だというのか。
まかり間違ってそれはお前を食うためだ!
などということになったらどうしようか、考えるのも恐ろしい。
「人間、食う、ダメ!」
悪魔と共に生きてきた者の責任としてこれから教育を始めよう。
学校を休んだ代わりに僕は人類の安全のために力を尽くした。
「いいか、人間、食う、絶対ダメ!」
実に有意義な一日ではないか。