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94 毒と薬の決戦

 佛跳牆フォーティァオチャンという宮廷料理がある。

 南の諸島から北の最端まで大陸を旅して、万の食材を堪能した賢者がいた。賢者は各地方で最も旨かった食材をその都度つど酒に浸け、都に持ち帰った。それらをあわせて煮こんだところ、百里先にまで言葉につくせぬ芳醇な香が漂って、都のあらゆる身分、あらゆる職の者たちが集まってきたという。貧しき者も富める者も、果ては神につかえ禁食きんじきをしていた者までもが塀をとびこえ、食べにきてしまった。

 ほとけも跳ねて、へいを越える――故に佛跳牆フォーティァオチャンである。


(この佛跳牆フォーティァオチャンもとに、薬を造る)


 紹興酒しょうこうしゅ漬けにしておいた麒麟きりんの骨でだしを取り、四八珍しはっちんを順に煮こむ。こうが抜けないよう、玻璃蓮はりよもぎの葉を落として蓋をした。玻璃蓮はりよもぎならば、なかの様子も確認できるし、煮続けても崩れることがない。

 後は三日三晩、煮続けるだけだ。

 だが問題は昼は陽の、晩は月の傾きにあわせて、火の強さを調整し続けなければならないことだった。かたときも側を離れることはできない。


「……食医の姑娘むすめ、あれから一睡もしてないぞ」


「すごい緊張感だな。調薬というよりは敵とたたかっているみたいな」


 二晩を過ぎたあたりから衛官が騒ぎだす。衛官はすでに何度か交替を経ているのに、慧玲フェイリンだけは眠らずに立ち続けていた。


「ああ、そうか。あの根の張ったような後ろ姿、どっかでみたことがあるとおもったが、想いだしたぞ。先帝の背だ。先帝は戦線では絶えず先陣をきり、兵隊たちに背を預けた……あれは、陣にたつ者の背だ」


 刺すようだった衛官たちの視線が次第に、畏敬の念をもちはじめる。

 だが、慧玲の耳には今、彼らの言葉など聴こえてはいなかった。


(これだけ煮こみ続けているのに、濁りがなくならない。段々と澄みわたるはずなのに、なぜ。混沌こんとんと濁ったままでは薬にならず、毒になる)


 調薬に不備はなかった。薬種やくだねを再確認する。

 きのこの育ちかたは充分で、海の物も乾されているので傷みなどない。ならば、どこに不備があったのか。順に確かめていた彼女の瞳が見張られる。


(ああ、やられた)


 禽八珍きんはっちんの項には彩雀ランというものがある。

 ランという煌びやかな翼を持ったとりのことだ。赤に青、緑に紫と綾なす翼を拡げた雄姿ゆうしは舞い踊る虹と語られる。だがこのらんと酷似した翼を持つものがいる。


 䲰日(ピトフゥイ)だ。

 ランの全長が鶴程はあるのにたいして、䲰日(ピトフゥイ)は鳩と変わらない。嘴のかたちも違い、翼をのぞけば、似ても似つかない。

 慧玲は薬には彩雀ランの羽根が必要だと伝達した。つまり、倉房くらに運びこまれたのは羽根だけだった。

 だから気づかなかったのだ。


(これは䲰日(ピトフゥイ)の羽根だ)


 そしてランが薬能を備えた鳥であるのにたいして、䲰日(ピトフゥイ)は毒鳥だ。

 それもただの毒鳥ではなかった。䲰日(ピトフゥイ)が囀れば風が毒されて植物は枯れ、羽根が湖に落ちればたちまちに腐って魚が死に絶えるとまで伝承される。羽根の先端で撫でるだけであらゆるものが毒に転ずるため、古くは暗殺にもちいられた。

 だが、強すぎる毒を怖れた帝族が遠い昔に絶滅させたはずだ。

 それがなぜ、ここにあるのか。


ヂェンだ)


 この䲰日(ピトフゥイ)。異称をちん――という。


 彼は自身の称がついた最強の毒で、慧玲フェイリンに最後の争いを挑んできたのだ。


「いいでしょう、受けてたつ」


 佛跳牆フォーティァオチャンは火の薬、水の薬、木の薬、金の薬、土の薬の総てをあわせた薬だ。如何なる不調和であろうとも、中庸ちゅうように還すことができる。

 たいする䲰日(ピトフゥイ)の毒は、陰と陽のふたつの毒からなる。


(この鍋のなかに完璧な中庸――つまり、火は強からず、水も侮らず、木は滅ぼされず、金は乗らず、土も制されずという調和ができていれば、䲰日の毒をも薬と転じて、最強の薬ができあがるはず)


 そのためには、ひとかけらの毒意もあってはならなかった。無意識の端にでも皇帝にたいする怨嗟があれば、復讐にたいする未練があれば、この薬は毒となるだろう。

 よもぎの葉に白磁の蓋を被せ、さらに時間を掛けて煮続けた。

 朝になり、昼を過ぎ、夕に傾きだす。


 まもなく、三日三晩が経つ。


 慧玲フェイリンが神経を張りつめた。息をとめ、鍋の底に意識を集中する。


 魂だけが毒と薬の陣中にむかう。


 視界に拡がったのは混沌たる嵐だった。

 薬が毒を喰らい、毒が薬を貪る――螺旋をなして毒と薬が争うさまは、尾をのむ蛇の姿を想わせた。混沌の坩堝るつぼに誰かがたたずんでいる。

 ヂェンか。いや、違う――薬たる慧玲を睨みつけていたのは緑の襦裙きものを羽織り腰にあおき帯を締めた姑娘むすめだった。結いあげた白き髪に孔雀のこうがいを挿して、左には毒を帯びたかんざしひとつ。他ならぬ慧玲自身だ。

 薬の慧玲フェイリンは毒の慧玲とむきあう。


(私は、おまえを択ばない)


 慧玲は握り締めていた剣を振りあげ、ひと息に絶つ。もうひとりの(自身)を。

 慧玲の像がゆがみ、続けてヂェンの姿をかたどる。


(ああ、やっぱり、おまえは私か)


 ふたりは、等しい。


 折れた指を結び、熟れて崩れかけた傷跡に接吻せっぷんをした。慧玲が毒になり、鴆が薬となる星のめぐりもあったのだろう。


 だが、そうはならなかった。

 だから重ならない。


 互いにひき返せないところにまで進んでしまった。いまさら別の道は選べない。産まれ変わらないかぎりは。

 ここが、薬と毒の終端しゅうたんだ。


(時間ね――)


 遠くから晡時ほじ(*午後四時)の時鐘ときがねが響いてきた。


 殻を破るように慧玲の意識が現実に還る。

 佛跳牆フォーティァオチャンは三日三晩煮こみ続けて調薬するものだ。逆にいえば、三日三晩を越えて煮てはならない。煮すぎた薬はかならず、毒に転ずるからだ。

 あと十秒経てば、薬ができあがる。


「ひ、ふ、みい」


 そのときに鍋が濁っているのか、透きとおっているのか。

 できあがるまでは、わからない。


「よ、いつ、む」


 だが、如何にあろうと皇帝に渡す。

 薬でも、毒でもだ。


「なな、やつ」


 それがたたかいというものだから。


「ここの、とお――ああ、終わりね」


 慧玲は鍋をあげ、薬を壷に移す。驢窩菌こうじかびから醸造された酒を最後にそそぎ、再度蓋を乗せる。慧玲はひと呼吸を挟んでから、声を張りあげた。


「調いました」

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