88 ここが地獄の底だ
いよいよ鴆が動きだします
さながら、宴のようだった。
宮廷の庖房には大陸の各地から取り寄せられた希少な食材が取り揃えられている。
慧玲は感嘆した。
商隊が都を発ってから、十五日しか経っていない。急使の馬をつかい、昼夜の別なく隊を動かし続けたのだろうが、よくぞこれだけの物を取りそろえられたものだ。大陸を制覇した帝国の勢力をあらためて思い知らされた。
海八珍、禽八珍、草八珍、山八珍――締めて、四八珍。
確認を終えた慧玲は布条を結び、声をあげた。
「直ちに調薬に取り掛かります」
これでかならずや皇帝の毒を絶つ。
「調理の補助が必要ならば、宮廷の女官をつかってくれ」
「いえ、恐縮ですが、……信頼がおけません」
職事官の提案にたいして慧玲はきっぱりといった。
「許されるのならば、明 藍星を希望いたします。皇帝陛下が病臥しておられることは藍星には伝えません」
彼女は廃された姫に忠誠を誓ってくれたただひとりの女官だ。職事官はふむと唸ったが、解かったと頷いてくれた。
「だが解毒に仕損じた時には、明 藍星も死刑になる」
「構いません。如何なる毒であろうと絶ちますから」
藍星のことだ。なんて約束をしてくれたんですか! と悲鳴をあげても、最後は腹を括って助けてくれるはずだ。彼女はそういう姑娘だった。
藍星がきてくれるまでに下処理を進めておこう。
慧玲は鍋に湯を沸かしはじめた。
暫く経って、誰かが庖房に踏みこんできた。庖房は今、衛官たちに監視されており、部外者は侵入できない。藍星だろうと想い、慧玲は振りかえらずに声を掛けた。
「藍星、きてくれたのですね。いまは手が離せなくて……」
唐突に殺意を感じて、背筋が凍りついた。後ろにいるのは藍星ではない。ああ、そうかと理解する。
「鴆、おまえなのね」
振りむけば、陰で織りあげたような漢服を身に纏った男がたたずんでいた。
衛官たちは、彼の背後で倒れていた。眠っているのか、気絶しているのか。毒にやられたことは、あたりを舞っている蜉蝣の群をみれば、解かる。
紐で結わえた長髪を掻きあげ、彼はいう。
「毒か、薬か」
「みれば、解るはずよ」
鴆はすうと瞳を陰らせた。失望するように。
慧玲が続けた。
「毒をもって毒を制すとおまえはいったね。けれども薬と転ずることのない毒は毒を制するどころか、毒を重ね、毒をより強くするだけよ」
事実、皇帝が毒殺されたことで、天毒地毒が吹き荒れた。
「私は薬で毒を絶つ」
緑と紫。相いれぬ瞳で睨みあう。
「そうか、……残念だよ」
鴆が隠していた短剣を抜きはなった。
砥ぎすまされた先端をむけられ、慧玲は神経を張りつめた。
哀しいとは想わなかった。彼女が薬を選べば、こうなることはわかっていたから。皇帝を解毒できるのが白澤だけであるかぎり、慧玲を殺せば、鴆の復讐は果たせる。けれども、彼と過ごした時が長過ぎたから、どこかでわすれていた。
(私達は敵だということを――)
鴆が殺すつもりならば、抵抗をしてもどうにもならない。
頚を斬られたら、胸を刺されたら、腹を裂かれたら、どれだけ毒に強くとも関係なく慧玲は息絶えるだろう。嵐が花を散らすように易く。
「地獄の底で息絶えてくれといっていたのに」
「はっ、なにをいってるのさ」
鴆が踏みこむ。距離は一瞬で縮められ、悪辣に嗤う紫の瞳がせまる。
「ここが地獄の底だ。そうだろう?」
殺されるとおもい、慧玲は瞼を塞いで身構えた。だが、いつまで経っても、死は訪れなかった。
かわりに唇が燃える。
「っ……?」
接吻だ。なぜ、こんな時に。
振り解こうにも剣身が頚筋に突きつけられていて、身動きひとつ取れなかった。舌を絡めとられ、人毒を盛られる。
強い毒が、喉から胸に落ちた。肋骨を喰い破るのではないかと想うほどに鼓動が激しく脈打つ。脚も腕も痺れて立ち続けていられず、慧玲は膝から崩れ落ちた。鴆がそんな彼女を軽々と抱きとめる。
意識が遠ざかる。最後に聴こえたのは愛執めいた昏い声だ。
「貴女を殺すものか。離さないよ、なにがあろうと」
それはなぜだか、縋るような響きに聴こえた。






