87「私は毒を絶つ」
房室の暖かさに身が解け、すっかりとしばれていたことをはじめて意識する。火鉢では炭が燃えていた。時々乾いた炭が弾け、妙に心地のいい調べに聴こえる。杏如は揺り篭に横たえられ、健やかに眠っていた。
「なにか、あったのね。貴女がそんなふうに落ちこむなんて」
杯に黄金の茶がそそがれて、茉莉花の馥郁たる香が拡がった。梅とはまた違った芳香だ。茶杯を唇に運んで慧玲は微かに息をつく。
久しかた振りに呼吸をしたような心地だった。
何を話すべきかと考えて、言葉にできるものがひとつもないことに後ろめたさを感じる。それを察したのか、雪梅嬪は唇を綻ばせた。
「無理に話せとは言わないわ。隠すのは華の妙ですもの。一緒にお茶を飲みたかっただけ。それだけでも解けるものがあるでしょう」
慧玲は唇をかんでは解き、細やかな弱音をひとつこぼした。
「……どうするべきなのか、解らなくなってしまって」
「どうするべきか、ねえ」
雪梅嬪が紅梅のような唇の端を持ちあげる。
「貴女はどうしたいのかしら」
考えたこともなかった問い掛けに慧玲が、ほつと瞬きをした。
「私は、幼い頃から華であれといわれ続けて、その言葉に縛られてきたけれど、華でいたくないと望んだことはないのよ」
舞うように紅絹の袖を振って、彼女は華やかに咲った。続けて彼女は、給仕として側についていた小鈴に視線をむける。
「小鈴。貴女は確か、殿方みたいに国子監へ通って勉学に励みたかったのよね」
「左様です。女は書など読めずともよいというのが、家人の考えでしたから。お兄様は非常に億劫そうでしたが、私は……うらやましかった。今は雪梅様が用意してくださった書で勉強ができて、とても嬉しいです」
「貴女は偉いわねぇ。私なんか読んでいるだけでも眠くなるもの」
小鈴は恐縮して、頭をさげる。
「私は舞が好きだもの。舞い踊る私は、麗しいでしょう?」
雪梅嬪は凛と胸を張った。
慧玲はまだ一度しか観たことがないが、雪梅嬪の舞台は、言葉を絶するほどに瑰麗だった。静かな舞は季節を俟ちわびる莟のようで、激しき乱舞は花吹雪を想わせた。華の舞姫という称は飾り物ではない。
「でも、華はかならず、冬を迎えるものよ。だからこそ、冬に散っても愛するといってくれる御方がいれば、また春に咲き誇れるものなの」
雪梅嬪にとっては、それが殷春だったのだろう。
彼女は愛される華だが、愛する華でもある。たったひとりの男を。産まれたばかりの命を。そして舞を。
彼女は愛している。
「……眩しい」
慧玲は感嘆して霜のような睫をふせた。
「あら、そうかしら。薬である貴女は季節を違えて一輪だけ咲き続ける華みたいで、傷ましい時もあるけれど――とても、誇らかよ」
誇らかという言葉が、しんと胸に落ちてきた。
「私は貴女に二度命を助けられたわ。貴女がいなかったら、杏如にも逢えなかった。小鈴だって、貴女に助けられたようなものだわ」
「仰るとおりです。あの時、雪梅嬪が命を落とされていたら……私は今頃、冬の宮の高殿から身を投げています」
慧玲は彼女らのことを助けたとは想っていなかった。為すべきを為しただけだ。
「貴女は、誇るべきよ。誰かに敷かれた道だったとしても、貴女自身が歩いてきたことに違いはないもの」
けれども、彼女らが今、微笑みかけてくれることがどれほど重いか。
助けることは、助けられることだとおもった。
雪梅嬪の言葉をかみ締めて、慧玲は張りつめていた緑の瞳を微かに緩める。
(何処までいっても、私は、薬なのね。梅の莟からは芍薬が咲けないように)
先帝はかつて宣った。
毒を喰らいて、薬と為せ。毒を喀くなかれと。
だが先帝は誓いを破り、白澤たる母親もまた毒となって息絶えた。
毒は薬に転ず。
だが薬として律することができなければ、毒は毒だ。
これまで慧玲は、天毒地毒に侵された様々な者たちと関係してきた。罔靑の農民たちは地毒で飢えた。昊族は天毒で滅びた。ある者を助けられたが、ある者は救えなかった。それは慧玲のなかで、後悔として刻まれ続けている。
(なればこそ私は毒を絶つ――処刑されるはずだった命を賜った時、そう誓った。皇帝陛下ではなく、母様や父様にでもなく)
惑いを絶つ。
緑の瞳がすうと透きとおった。月にある静かの海のように。
「ありがとうございます。雪梅嬪の御言葉で霧が晴れました」
「あら、それはよかった」
雪梅嬪が嫣然と微笑した。咲き誇る梅の貌で。
慧玲は雪梅嬪の宮を後にする。藍星には心配を掛けてしまった。離舎にむかっていたところ、宮廷からの使者が駈けてきた。使者は一揖してご報告いたしますといった。
「今朝がた、例の薬種が揃いました。直ちに宮廷の庖房にお越しください」
ついにこの時がきた。
孔雀の笄を奏で、慧玲は胸を張って踏みだす。
「承知いたしました。すぐに参ります」
争いに赴く果敢な眼差しで。