86 薬の娘は惑う
(しまった)
そうおもったのは、鍋が煮たたって吹きこぼれた後だった。無残に濁ってしまった鍋のなかみを覗きこんで、慧玲はため息をつく。
(ああ、毒になってしまった)
この薬は煮たつと途端に苦みが強くなり、旨みもなくなる。旨くないものは毒だ。
(こんなもので失敗するなんて)
吹きこぼれたものを拭き取ろうとして鍋の端に触れてしまい、火傷をした。慌てて手を引っこめた時に袖をかけ、鍋が落ちる。
「だいじょうぶですか! 慧玲様!」
掃除をしていた藍星がびっくりして、駈けつけてきてくれた。
「御手に火傷をなさってるじゃないですか。すぐに水を御持ちします」
「そんな、このくらい、たいしたことでは」
「だめですよ、ちょっとした火傷でも後から大事になることもあるんですからね!」
藍星は包帯を施してくれた。
「ごめんなさい。また下処理からやりなおさないと」
「下処理くらい私にできますから、まかせてください。その、……ちょっとだけ、休憩を取られてはいかがでしょうか」
慧玲の心身を気遣い、藍星が眉を垂らす。
「この頃、お疲れみたいです。後宮だけではなく、宮廷でも働いておられますし」
女官である藍星は皇帝が倒れたことは知らされていなかった。だが、宮廷に連日呼びだされ、調薬をしていることは知っている。
慧玲は藍星の言葉にあまえて、外掛を羽織り、離舎を飛びだす。ほんとうは薬のにおいを嗅ぐだけでも、胸が締めつけられ、まともに息もできなかった。
根雪を踏み締めて、あてもなく歩き続けながら、慧玲は鴆の話を想いだす。
(鴆の母親は最後まで鴆に毒をそそぎ続け、毒であれと縛り続けた――)
それならば、慧玲の母親はどうだったのか。
髪に霜が降るほどに膨大な叡智を頭に収めながら酷しい旅を続け、薬であれと育てられた。それなのに、母親は慧玲を薬として《《遣わなかった》》のだ。
(私は薬だったの。それとも姑娘だったの)
母親はなにを想って、姑娘を櫃に押しこめ、先帝から隠し続けたのか。
母親は最後に「これは先帝との約束だった」といった。壊れた父親に姑娘を害させないことが。約束だけ、だったのならば。
(あの時、殺されたかった)
最後の最後に怨まれるくらいだったら、いっそ。
(どうすれば、よかったの――私はこれから、どうすれば)
不意に視線をあげれば、枝垂れた梅の枝があった。冬の遠い日輪を縁どるように細い枝が絡まりあい、神韻なる水墨の絵を想わせる。
無意識に雪梅嬪の宮に足がむいていたらしい。
「慧玲!」
離れたところから声を掛けられた。
亭で茶を嗜んでいた雪梅嬪が袖を振る。慧玲はよほどに酷い顔色をしていたのだろう。雪梅嬪が慌てて階段を降りてきた。
「御茶を淹れさせるから、あがっていきなさい」
「あの、私は……」
「いいからきなさい」
雪梅嬪はなかば強引に肩をつかみ、春宮の房室に慧玲を連れていった。