84‐1 彼が毒になるまで《鴆 回想》
お待たせいたしました!
いよいよに第五部が本格始動します。
まずは《鴆》の回想から幕をあけます。
鴆が物心ついた時から、枕べで囁かれるのは揺篭歌ではなかった。
繰りかえされるそれは呪詛だ。あまやかな声のかたちだけは、子孩を愛す母親のやわらかさで。
「怨めしい……なぜ、私がすべてを奪われなければならなかったの。愛する家族も静かな故郷の集落も、綺麗な襦裙も髪飾りも、御邸もひとつ残らず、燃やされた……ああ、許せるものか」
か細い呪詛は、言葉も解らぬ幼い耳を侵す。毒をそそぎこむように。
鴆の母親は窮奇の一族を取りまとめる宗家の姑娘だった。
窮奇の一族は、宮廷につかえる由緒ある毒師の系譜だ。表舞台に姿を現すことはないが、皇帝の命に随い、政を動かすために障害となる者を続々と暗殺し、戦争時にも毒を弄して敵軍を一掃した。
だが千年に渡る戦争が終わった後、索盟皇帝は毒師との縁を絶つと宣言した。そればかりか、集落を燃やしたという。
毒師という、邪なる一族を史書から排除するかのように。
生き延びた母親は都に隠れた。だが、毒師であることがばれては迫害され、結局は娼妓に身を落とした。
それからは地獄だったと、母親は幼き鴆に語った。
「毒師だというだけで謗られ、殴られた。職なんかもらえない。眠るところもなく、吹雪のなか都を彷徨い続けた。飢えて飢えて、蛙まで貪った。男どもに虐げられ、おぞましいことを強いられた――全部、皇帝のせいよ。かならず復讐をしなくては」
鴆が産まれたときには、母親はすでに娼妓ではなかった。
働くこともなく、人里離れたところに庵を建て、暮らしていた。
今考えれば、雕が口実をつけて隠とんさせていたのだろう。禁毒を造らせるために。
雕が離宮を訪れることはめったになく、時々宮廷の使者が食物等を届けにきた。
だが、暮らしぶりはきわめて貧しかった。
朝も晩もわずかな穀物をふやかしたような粥ばかりで、腹が膨れることはなかった。春は野草、秋は茸や木の実が取れたが、雪が降りだすと食すものは底をつき、いよいよに飢えることになった。離宮は板張りのすきまから雪が吹きこむ小屋で、毎晩乾いた藁を敷いて眠っていた。母親は破れた襦裙を縫っては袖を通し、笄も折れた物をつかい続けた。
後に知ったことだが、皇帝は豪奢な離宮を建て、豊かな食物や都の装飾品等を届けさせていたが、母親はそれを拒絶していたという。
臥薪嘗胆とは故事の言葉だが、鴆の母親も敢えて惨めな暮らしを続けることで、鴆に怨嗟を植えつけたのだろう。
実際に苦難の歳月は、鴆に劣等感や絶望感を根づかせた。
鴆が七歳になったとき、母親は彼に最初の毒を与えた。
蜂だった。蜂の毒に侵され、三晩に渡って燃えるような痺れと劇痛に見舞われた。苦痛に堪えかねて鴆が毒を嫌がると、母親は彼を抱き締めて囁きかけた。
「毒師が毒に喰われてはだめよ。貴男が、毒を喰らうの」
喰らうことで克服する。捕食とは征服だと。
指を指しこんで、無理にでも顎をあけさせ、母親は鴆の舌に毒蜂を乗せた。
「貴男の毒で、皇帝を殺すのよ。毒師の一族を滅ぼした憎きあの男を」
蜂の毒針が柔らかな舌の腹を刺す。声にならない悲鳴が幼い喉からあふれた。
燃えあがるような劇痛だった。毒の味を憶えさせるように母親はそれを繰りかえした。蜂が終われば、蜘蛛で。蜘蛛の後は蜈蚣で。
鴆は母親にたいして縋るような、それでいて怨嗟の滾る眼差しをむけるようになった。実の子に睨まれても、母親は眉の端ひとつも動かさなかった。
「怨むのなら、皇帝を怨みなさい。貴男を産んだのは皇帝に復讐をするためなのだから」
鴆が毒に蝕まれて命を落としかける度に母親は「皇帝を怨め」といった。苦しいのも、痛いのも、すべては皇帝のせいだと。劇痛で意識も遠ざかるなかで繰りかえされるうち、ほんとうになにもかもが皇帝のせいであるように想えてきた。
次第に鴆は、怨嗟だけを縁に毒と争うようになった。
鴆の母親は笑わないひとだった。
だが箱から玉佩を取りだして眺める時だけは、紅を挿さぬ頬に微かな喜びを湛えていた。
「いつか、貴男が新たな皇帝になるのよ。貴男は帝族の血脈を継いでいるのだから」
これが帝族の証なのよと。
母親が雕のことを愛していたのかは、鴆には解らない。だが、信頼はしていた。少なくとも約束を違えるようなことはないと。或いは侮っていたのかもしれない。帝族でありながら、うだつがあがらない妾腹の男を。母親は無能な帝族に取りいり、操ることで、皇帝にいっそう強い屈辱と絶望を与えられるはずだと考えていた。
人毒の調毒は続いた。
脈うつごとに劇痛に貫かれ、気絶もできず、幾晩も喚き続けたこともあった。毒で皮膚がすべて剥がれ、脚から頭まで包帯をまきつけていた時期もあった。常人ならばみずからで命を絶つか、こころが壊れたはずだ。
だが幸か、不幸か。鴆は堪えきった。
堪えきってしまったのだ。
鉱物の毒も植物の毒もかみ砕き、魚の毒や鳥の毒まで飲みほした。
皇帝に復讐をするために。
斯くして人毒は、為された。
鴆が十七歳の時だ。人毒には十三年掛かるという常識を、彼は才能によって覆した。
だが人毒は、副産物に過ぎない。
母親が望んだのは竜血だ。
腕の動脈に錐を刺して、あふれる血潮を残らず、黒曜石の盆で享ける。
血潮はたちまちに結晶となって盆のなかで転がった。辰砂を想わせる紅の結晶だが、燈火のもとでは透きとおる紫を帯びる。
これこそが竜血と称される禁毒だ。
だがそれは、怨嗟の結実というには美しすぎて、鴆は奇妙な虚しさを憶えた。
「竜血ができたというのは真か」
しばらく経って、雕が禁毒を受け取りにきた。
「御待ちいたしておりました。こちらにございます」
母親が箱に収まった竜血を差しだす。毒の結晶をみて、雕は感嘆の息を洩らした。
「御約束は、果たしていただけますね」
「勿論だとも。七日後、貴女を正室として宮廷に迎えよう」
雕は自身の嫡嗣である鴆には最後まで、視線をむけなかった。鴆はその時、まだ鼻から顎にかけてが毒でただれており、崩れかけた顔半分を包帯で覆っている惨たらしい様相だった。そんな異形を実子だと認めたくなかったのか。或いは自身の罪の具現に想えて直視に堪えられなかったのか。






