82 盤古経を紐解く
神話回です。
詩のような神話の世界観を御楽しみいただければ幸いでございます。
昼には隊商が差遣され、遠征には軍隊が組まれた。
薬種が揃うまではしばらく、緩和薬を造るのが慧玲の役割となった。頭痛をやわらげ、地毒の廻りを遅らせるだけでも難解な調薬を要する。皇帝が倒れたことは機密事項であるため、慧玲は後宮食医の職務を果たしつつ、宮廷に渡っては調薬をしていた。
今朝は早朝から、後宮のあちらこちらで祈祷の声が響いていた。
いよいよに祭竈なのだ。祭竈を終えれば、約二十三日に渡って春節が続く。天毒の厄を払うためにも祭事は盛大に執りおこなわれることになった。
冬の宮の廻廊を渡っていた慧玲は、冬妃である皓梟妃と逢った。
「索盟の姑娘ではないか。偶さかよの」
丁重に揖してから、慧玲はいう。
「皓梟妃は先帝と親しかったのですか」
「ほほ、索盟とは暇があれば朝まで飲み明かしたものよ。吾と対等に語らえるのはあの男くらいのものだったからの」
懐かしきかなと皓梟妃は微笑んだ。
「思慮ぶかく、時風をつかまば敏なりて勇ましく、だが朗らかな男だった。意外な視野で物を観、想わぬことを雄弁に語りだすが、それが妙に理に適っておってな。だがそうか、彼は……死んだのだな」
椿でも落ちるようにこぼされた言葉が、慧玲の胸に風を吹かせた。
皓梟妃の語る先帝の姿は、慧玲が知らぬものだ。逢ったこともない誰かの話を聴いているように遠いのに、なぜか懐かしさがこみあげた。
(ああ、想いだした)
彼女の父親は微笑んだとき、頬にえくぼができるのだ。
慧玲は先帝が壊れてから、彼の顔を想いだすことができなくなった。彼女のなかに強く刻まれた先帝の姿は、眼もなく鼻もなく耳もない渾沌だったからだ。
だが、そうか。
彼は、化生ではなかったのだ。
皓梟妃は慧玲の心境を知ってか知らずか、こう続けた。
「索盟は麒麟が祝福するにふさわしき帝であったよ」
だからこそ、慧玲は悔しかった。彼が毒を盛られ、毒に敗けたことが。
胸が張り裂けそうになった。だがとうに終わったことだ。
(そう想わなければ)
薬であり続けることは、できない。
「時に麒麟といえば、そちは天地開闢を知っておるかや」
「…………《盤古経》に記された創造神話ですか?」
思索の海に落ちこみかけていた慧玲を気遣ってか、或いは脈絡のない話を繋ぐのがくせなのか、皓梟妃は唐突にそんなことを言いだした。
「左様。ならば知っておろう。なにゆえに麒麟が帝族の護り神として奉られているのか」
春節ということもあって、廻廊の壁には盤古経を題材とした織物の幛が連ねられていた。神話の大筋にそって、天地創造の場景が織りあげられている。
昏い思考を振りきるため、慧玲は神話の篇首を誦する。
「源に混沌あり。陰陽は別れずして天地境なく、昏々と眠りたる。軈て一声響きて、殻は割れ、卵の裡に滞りたる混沌は散ず。鳳の翼は麗らかに舞いあがらん――」
幛はまず、禽が舞いあがるところから始まる。
梅に芍薬に芙蓉と、季節折衷の花綵の翼を携えた鳳凰だ。割れた天地の殻は螺鈿を鏤め、表現されていた。
「鳳の風が渡りて天は漸うに天となる。鳳、循環りて還るべく、地は地として万象を産霊ぶ」
《盤古経》は詩に似ている。慧玲は流暢に諳んじた。
「地に降りた鳳は翼を折り、蹄を携えて麒と転ず。麒が踏むところに命息吹き、命は時を循らせるものなりき――」
続いては、鳳と麒が輪廻する場景を描いた幛だ。
鳳凰は天を統べ、麒麟は地に君臨する。鳳凰と麒麟が環をなして絡まりあう様は、華やかな陰陽太極圖を想わせた。陰陽とは循環することではじめて分離する。麒と鳳も然りだ。双璧をなすものでありながら同一であるともいえる。
「此、天地の明けとなす――」
慧玲が盤古経の序章を語り終えた。皓梟妃が頷きながら、続きの一節を引き継ぐ。
「左様。その後はこう続く――時、循るところに春夏秋冬の季神産まれ、刻の皇に傅かん。天地永遠に盤石となる――とな」
刻の皇が地を統べた時の場景は、特に大きな織物になって飾られている。刻の皇は、その時の皇帝を模すのが慣例だ。現在は雕皇帝の顔をしている。
「剋はこの《盤古経》に登場する《刻の皇》からコクという韻を継承したと教わりました。なので剋は地を統べる麒麟を皇帝の象徴として奉り、後宮には季節に准えた妃を置き続けているのだと」
「さすがは白澤の姑娘よの」
感心したように皓梟が息をついた。
幛は廻廊の最端まで延々と続いている。
「鳳凰と麒麟は同じものだが、天が先に産まれ、後から地が築かれたことを鑑みれば、鳳凰は麒麟の前身ということになろうや。麒麟は不死に非ず。されども不滅だと語られる。つまりよ」
皓梟妃が笏を鳴らす。
「麒麟が死に絶えれば、その魂は天に循りて鳳凰になるのであろうかや」
皓梟妃はやはり、麒麟は死んだものだと考えて、調査を進めているのだ。
しかしながら、鳳凰か。織物に描かれる鳳の翼は、孔雀の羽根と殆ど違いがなかった。
この身に宿る《毒を喰らう毒》は孔雀の刺青となって、表に現れる。だが、あれが孔雀ではなく、鳳の紋様だったとすれば、麒麟の骸に触れてから毒の効かない体質になった事と繋がるのではないか。
皓梟妃ならば、この刺青についてもなにか識っているのではないかと考えたが、何処まで打ち明けるべきかが解らず、結局は唇を噤んだ。
皓梟妃はなにかを察したのか、瞳の端を綻ばせる。
「ふむ。なにかあれば、吾を訪ねて参れ。茶でも一服淹ててしんぜようぞ」
羽根で織られた襦裙をひるがえして、皓梟妃がすれ違っていく。
皓梟妃と喋っているあいだは遠く聞こえていた祭の喧騒が、再び押し寄せてきた。祭竃の祝詞も盤古経の一節だ。
解からないことばかりだが、確かなことがひとつ。
(ああ、この地は、ほんとうに麒麟のいない国になってしまったのね)
とうに解っていた喪失があらためて、胸に落ちてきた。重く。
心の底が抜けそうなほどに。






