79 先帝と現帝 いかにして渾沌の帝は討たれたか《回想》
本格的な連載再開ではありませんが、
今晩から1月1日2日3日と連続で先読み投稿させていただきます!
時は、昨年の秋にさかのぼる。
菊の風が吹き渡る宮廷で皇帝が盛大な宴を催していた。
皇帝の姓は蔡、名は索盟――慧玲の父親にあたり、後に死刑となる渾沌の帝である。
彼が酒を満たせと掲げる盃は、敵の髑髏で造られていた。
妃妾たちは一様に青ざめながらも、皇帝の機嫌を損ねまいと微笑を振りまいている。だが、張りつめた緊張のなかで、若い妃妾が銚子を倒した。酒が食卓にこぼれる。がたがたと震えながら詫びる妃妾に皇帝は嗤いながら「構わぬ」といった。
安堵して唇を緩めた妃妾の頚がずれて、落ちた。
「そなたが死ねばよいだけのことだ」
血潮が噴きだす。妃妾たちは悲鳴をあげかけて、なんとか、のむ。さもなければ、今度落ちるのは自身の頚だと解っているからだ。
嗤い続ける皇帝の瞳は血に飢え、濁っている。
宮廷の枝葉を紅に染めるのは、秋風ではなく吹き荒ぶ血の嵐だった。
廷臣たちも皇帝の暴虐に身を竦め、項垂れるほかにない。苦言を呈した碧血の忠臣は全員処刑された。死刑に処された者たちの心臓を取りだしては、皇帝が貪っているという噂まであった。
誰もが憂う。索盟皇帝は渾沌の化生に落魄してしまったと。
あれほどまでに敏く、勇敢で、人徳のある君帝であったのに。
その時だ。宴の場に踏みこんできたものがいた。索盟皇帝の兄である胥 雕だった。
「兄上か。どうだ、ともに飲もうではないか」
索盟皇帝は赤ら顔で盃を掲げて、雕に笑いかける。雕は頚を落とされ絶命している妃妾に視線をむけ、頬を強張らせながら、索盟皇帝に跪いた。
「陛下、私が献上した異境の蜂蜜酒は御気に召して頂けたでしょうか」
「左様であったか。ああ、非常に甘露だ」
「それはようございました」
索盟皇帝は正室の嫡嗣だが、雕は下級妃妾を母親に持ち、兄に産まれながら皇帝にはなれなかった。姓が蔡ではなく胥であるのも妾腹のためだ。もっとも、雕が正室の御子であったとして、皇帝になれたかは甚だ疑わしかった。剣もまともに扱えず、そもそも馬に乗ることからして得意ではなく、かといって巧妙な策を練れるわけでもない。索盟皇帝の後ろに隠れているだけの臆病者。それが周知された雕の評であった。
雕には索盟皇帝の暴虐は制められぬ。誰もがそう諦めていた。
「それでは私も有難く頂戴致します……」
雕は索盟皇帝から盃を受け取る振りをして身をかがめ、刹那――剣を抜き放った。
だが斬撃は索盟皇帝に達さず、弾かれた。
「この程度の剣で殺すつもりだったとは。侮られたものだな、兄上」
索盟皇帝もまた、瞬時に抜剣していたからだ。不意をついたはずの剣撃を弾かれた雕は、咄嗟に後ろに退り、哀しげに眉根を寄せていった。
「さすがだな。落ちぶれようとも、剣だけは衰えぬとみえる。剣ではとうとう、一度もそなたには勝てぬようだ」
索盟皇帝は廻廊に控えさせていた側近たる武官にむかって叫ぶ。
「謀反だ――――雕を捕えよ!」
一拍後れて廻廊から現れた武官は、胸から血潮をあふれさせて満身創痍の様だった。
「御逃げ、ください……陛下。雕の軍が造反を」
それだけいって、武官は絶命する。
鬨の声があがった。
雪崩れこむように雕の軍が侵入してきて、索盟皇帝を包囲する。妃妾たちは今度こそ絶叫して逃げだし、廷臣たちも索盟皇帝に加勢することなく全員が後ろにさがった。孤立無援となった索盟皇帝は剣を振るい、軍勢を退けようと抵抗する。
索盟皇帝は強い。戦場で武の神と称えられただけはあった。だが、ぐらりと重心が傾き、動きが鈍りはじめる。
毒だ。
雕の贈った酒は、水銀蜂の蜂蜜を醸したものだったのだ。
索盟皇帝の脚が麻痺しはじめた隙をつき、雕が背後から索盟の腹を刺し貫いた。
索盟皇帝が血潮を喀きながら、雕を振りむく。濁りきっていた索盟皇帝の瞳が一瞬だけ、澄み渡った。
「ああ、……そうか、お前だったのか」
索盟の言葉に雕は一瞬だけたじろいだが、惑いを振りきるように声をしぼりだす。
「……私は、そなたの補佐も充分にできぬ愚兄であったが……それでも、弟のあやまちを糺すのは兄の役割だッ」
最後は喉を猛らせて、雕はいい渡す。軍が湧きたった。
腹を刺され、毒に侵された索盟皇帝は何か言いたげに唇を動かしたきり、気絶する。
「索盟を捕縛し、解毒を急げ。死刑の時まで絶命させるわけにはいかぬ」
索盟皇帝がひきずられていく。
続けて雕は廷臣にむかい、堂々と宣言する。
「渾沌の帝は討ち倒した! この時をもって私が剋の皇帝となる!」
廷臣たちは雕に跪き、軍は剣を掲げて、高らかに歓呼の声をあげた。
「雕皇帝陛下万歳、雕皇帝陛下万歳、万歳、万歳……」
歓喜の渦は宮廷を擁し、都にまで拡がっていく。渾沌の終焉を報せる鐘のように。
……
「……あの時の夢、か」
几に肱をついて転寝していた雕皇帝は、独り言つ。
先帝を廃してから、五季が経った。約一年と三カ月。光陰矢の如しと昔人は語ったが、真に瞬きのうちに過ぎたものだと皇帝は息をついた。最後に振りかえった時の、索盟のひどく静かな瞳がいまだに皇帝の胸を縛る。
正午を報せる鐘が響いてきた。
思索を振りほどいて、皇帝は几に拡げられた木簡に視線を落とす。新たな政策についての重要文書だ。高官たちがすでに目を通しているため、皇帝は印顆を捺すだけだ。繰りかえしの職務であるため、眠けを催す。
前触れもなく房室に影が差した。
窓に視線をむけた皇帝は、俄かに天が昏くなっていくのをみた。嵐か。だが夏の霹靂でもあるまいにこうもいきなり掻き曇るものだろうか。窓から振り仰いだ皇帝は、言葉を絶する。
日輪が端から陰っていく。蟲にでも喰われるように。
「……不祥な……これは天毒なのか?」
刮目する皇帝の視界に横ぎったものがあった。
燃えさかる火か。違う。あれは。
皇帝が青ざめ、震えだす。
陽焔を帯びたそれは屋頂から屋頂に渡って、鐘塔の頂まで駈けあがり、蝕まれていく日輪を背に咆哮する。
「っ……ぐ、あぁ……」
突如として皇帝が頭を抱えて、崩れ落ちた。
皇帝を襲ったのは頭蓋が割れんばかりの激痛だった。皇帝がぶつかった拍子に青銅の大香炉が倒れて、音をたてる。房室の外に控えていた衛官が異変に気づき、確かめにくる。
「なにかございましたか、っ……これは」
皇帝の尋常ならざる様子をみて、衛官は大慌てで飛びだしていった。
「直ちに宮廷中の典医を集めよ!」