74 その愛は毒となるか薬となるか
久し振りに調薬(錬金術師風味)です!
薬口移しキスもあります!
化蛇の毒は風の毒である。
風の毒は、木毒に属す。
(でも化蛇は造られた毒だ。薬は難解で、毒は単純。その理は調毒されたものにたいしては、覆る。木毒を解くだけでは勝てない)
調薬は争いだ。毒を通して慧玲は鴆と対峙する。
春の宴のときを想いだす。あの時はまだ鴆のことを知らなかったが、今は違う。彼がどんなふうに毒をつくり、なにを語り、どんな顔をするのも想像がつく。
彼は嗤うだろう。紫の双眸を細めて。
解けるものだったら、解いてみなよ、と。
(だから、今は心を静かに。湧きあがる怒りは残らずかみ砕いて、飲みくだせ。喉が焼けただれるほどに熱くとも)
彼と争うならば、喰らうか、喰われるかだ。
ひと呼吸経て、意識を砥ぎすませた。
「始めます」
誰にともなく声を掛ける。
(まずは金を融かす)
金は燃えれば、融けだす。だが温度がさがれば、また金の塊に還元される。食せなければ、薬にはならない。
黄金は銅や銀と違って腐食することのない金属だが、王水という劇毒だけは唯一、金を融解することができる。その劇毒のなかに指輪を落とす。かき混ぜ続けると、指環は跡形もなく融けた。純金が融けた王水を煮沸して、微生物を殺す毒と混ぜあわせれば、純金だけが分離して沈殿する。後は丁寧に洗浄して取りだせば、雪のように細かい純粋な金ができた。
(化蛇は日と月を忌む。金は日の力を帯びた最強の鉱物だ。後は月だけれど、さきに蛇の毒にたいする薬能を調えておこう)
蜜穴熊が食べ残した蜂蜜を鍋で煮る。
蜜穴熊は毒蛇にかまれても毒に侵されることがない。そのため毒蛇の多い砂漠地帯では、穴熊の唾液が混ざった蜂蜜は蛇の解毒薬とされた。
蜂蜜には蠍辣椒、別甲、桂枝、火蠑の蛻を乾燥させた物を挽き砕いてから加え、蜂蜜が煮詰まってきたところで純金を混ぜた。
(火蠑は異境に棲む竜の一種で、火を掌るとされる。とても希少な物だ。これで母様が遺してくれた蛻を全部つかってしまうことになる。王水もそうだけれど、母様にはいつも助けられてるな)
配分を僅かでも誤ったら、蜂蜜は錆色に濁る。
鴆と剣を突きつけあっているような一拍の緊張。鍋の底で毒蛇が牙を剥き、燃えさかる竜の猛る様が視えた。
蛇が竜を喰らうか。竜が蛇を喰らうか。
(敗けるものですか)
光が、弾けた。
鍋の底にある蜂蜜がきらきらと瞬き、太陽を想わせる光を帯びている。
(……私の勝利ね)
ひと匙すくって紙に乗せ、満潮の時にだけつくれる特別な海塩を振りかけた。この海塩には月の力が融けている。
後はかためるだけだ。霜雪の朝は凍れる。蜂蜜はすぐに結晶となった。
「調いました。黄金飴です」
飴を渡された李紗妃は、燈火を渡されたように睫をふせて、瞳を細めた。飴が強い黄金の光を帯びていたためだ。彼女は感嘆の息を洩らしながら、ぽつといった。
「古い伝承を想いだしました。昔は九霄に陽が九つあって、大地の万象が眠りにつけずにいたので、弓の名手が不要な陽を射落として日と月だけを残したと。――その時に落ちてきたひとつがこの飴になったといわれても、わたくしは疑いません」
これは、あまいのですかと、李紗は訊ねてきた。
「残念ながら、毒に侵されていないものには辛すぎて、舌の先端で舐めることもできないでしょう。ですが、必要とするものには、頬が蕩けるほどにあまやかに感じます」
薬とは旨くなければならない。だがなかには薬を要するものにだけ、旨く感ずる薬もある。
李紗妃は薬飴をつまみ、壁にもたれていた卦狼に差しだす。
「薬です。口を開けてください、卦狼」
だが卦狼は、動かなかった。
「卦狼?」
毒がまわり、意識が混濁しているのか、卦狼はあてもなく視線を漂わせるばかりで動かなかった。聞こえないのか。すでに顎を動かすこともできないのか。
「卦狼……ねえ、薬を……お願いよ」
毒紋は肋骨を侵していた。
脈があり、呼吸はしていても、すでに手遅れなことはある。
「食べてちょうだい、卦狼……どうか、死なないで」
李紗妃が泣きながら、彼に飴を舐めさせようと試みているが、押しこんでも裂けた口の端から落としてしまう。
(間にあわなかったのね)
こんな結末になるのではないかと想像はついていた。
(彼は諦めていた。これが報いだと)
命を諦めた患者を助けることは、医師にはできない。
毒が滲むように紋が拡がる。まもなく脈がとまるだろう。
「死なせて、なるものですか……」
李紗妃は眦を決する。
「何度でも助けます。あなたは、わたくしのものですもの」
青ざめた桜唇を割って飴をころんと投げいれた。慧玲は咄嗟に「李紗妃には辛過ぎて堪えられるはずがない」といいかけて、彼女の眼差しの強さに言葉をのむ。
(危険はないはず。毒ではないもの)
ひたすら、地獄のように辛いだけ。
「うっ、くっ」
想像どおり、李紗妃は飴を含んだ途端に噎せかける。はきだすことはなんとか堪えたが、睫の端に涙が浮かんだ。
「ぁ……ねえ、どうか」
燃えるような辛さに喘ぎながら、李紗妃は飴をかみ砕いた。
卦狼の唇に自身の花唇を重ねる。李紗は僅かな隙に舌を挿しこんで、飴を口移した。だが彼には、飴を舐めるだけのちからも残されてはいない。
李紗は舌を絡ませて、一緒に飴をとかす。
「っふ……」
接吻というにはあまりにも懸命な。
祈りめいた情交だった。
その時だ。卦狼の喉仏が、動いた。飴のかけらを飲みこめたのだ。
またひとつ、もうひとつと李紗はかみ砕いた飴を渡す。次第に卦狼の呼吸が落ちつき、毒紋が退いていった。
「っ……媛さん」
卦狼がついに死の際から息を吹きかえす。
李紗妃は瞳を見張って、ほろほろと涙をこぼした。
「……また、泣かせちまったな」
彼は李紗の涙を拭いながら、彼女を抱き寄せる。
「よか、った」
喉まで焼けてしまったのか、李紗妃は息も絶え絶えで、声は嗄れていた。それでも桜のように微笑む。
風の毒は絶たれた。
愛は毒に転ずるが薬にもなる――ほかでもない李紗の愛が、毒を絶ちきったのだ。
「……感服いたしました」
慧玲が感嘆の息を洩らす。
いつのまにか、宵の帳は解けて、ほのかに白い朝がきていた。