69 その華は愛を秘める
筆がよどみなく動き、墨痕あざやかに愛の詩を綴る。
夕日の差す窓べで皇帝に宛てた懸想文を認める女がいた。李紗だ。流れる春のせせらぎを彷彿とさせる達筆さだ。
そんな彼女の側には假面具の宦官がついていた。彼は土壁にもたれ、刀を握り締めながら暗がりを睨みつけている。
「はつ雪の候にふさわしい律詩が書きあがりました。ふふ、陛下に歓んでいただけるかしら。明晩こそはわたくしのもとにきてくだされば、嬉しいのですけれど」
簡牘をあかりにかざして、李紗は華のように微笑んだ。その指には皇帝から贈られた金の指輪がある。
宦官は一重の双眸を細めていう。
「俺にゃ詩の妙は解らんが、媛さんほどの女に慕われて歓ばない男はいねェさ。そんな野郎がいたらそいつは不能か、男寵家だ」
「まあ、卦狼ったら」
卦狼と呼ばれた宦官の、品の悪い言葉に李紗はこまったように眉を垂らしたが、後から嬉しそうに瞳を緩めた。指を組み、恥ずかしそうにはにかむ。
「あなただけですよ。そんなふうな優しい言葉をかけてくれるのは」
日頃から華だと褒められることはあっても、それらは打算や世辞に過ぎず心をともなった言の葉ではなかった。彼女は愚かではない。それらの称賛は季妃にむけられたものであり、姚家という士族の家筋にたいするものだ。
「今度陛下が御渡りくださる晩のために、御薬をつくっていただけませんか。その、房事の時にきもちよくなれる御薬を……」
「皇帝にか。なんだ、勃たねえのか」
「そんな! 陛下はご健在でございます。それに……皇帝陛下には御薬は盛れませんよ。薬は、わたくしが飲むためです」
思いあたる節があったのか、卦狼はばつが悪そうに眉根を寄せ、視線を逸らした。
「だめなんです。嵐に散らされて、あれきり。でも、わたくしは華ですもの。咲かなければ、ね……陛下にきちんと歓んでいただかないと」
卦狼の厚い胸にもたれかかるように頬を埋めて、李紗は睫をふせた。皺棉紗の長袍を握り締める指は強張り、微かに震えている。金の指輪が光を弾いてちらちらと潤んだ。
「……わたくしが触れられるのはあなただけです」
咲き惑う莟を嵐からかばおうとするかのように、卦狼は李紗の頭を抱き寄せた。
「俺は、媛さんのためだったら、なんだってしてやる」
髪を梳く武骨な指の優しさに李紗は酷く瞳をゆがめ、哀しそうに微笑む。愛されることの罪をかみ砕き、飲みほそうとするように。
◇
日が落ちた。
慧玲は離舎に帰ろうと提燈を提げて、梅の庭を通り掛かったところだった。藍星は毎朝夏の宮にある官舎から離舎に通ってきているので、すでに別れている。
「慧玲」
後ろから声を掛けられ、振りかえれば雪梅嬪が追いかけてきていた。
「貴女にもう一度、きちんと御礼を伝えたくて」
「わざわざ、そんな。まだ産後でご体調もすぐれないでしょうに。それに今晩もお寒いです。私のために風邪でもひかれたら」
「貴女にだけ、聴いてほしいことがあって」
雪梅嬪は白い息で言葉を紡ぐ。胸の裡にあった想いを解くように。
「私は、華であれと育てられたわ。縛られた、といえばそう。でも、私は杏如のことも同様に育てるでしょう」
「承知しております」
それもまた、母親の愛だ。
意外だったのか、雪梅嬪は瞳を見張った。
「貴女は、責めるかとおもったわ」
「こうあれと教えることは呪詛ではないと想っております。それは毒にも薬にもなることです。ですが、そうあれなかった時にいっさいを否定し拒絶することは、……毒だと」
産まれたときに捨ててもよかったといわれたと小鈴は嘆いた。そういわれた時に、こころは捨てられている。捨てられるほどに子はなおも親に縋りつくものだ。その時に挿しこまれる毒――恩をかえせ、さもなければ。
あれは酷い毒だ。
「杏如に愛する御方ができたら、その時は、好きな季節に咲きなさいというつもりよ。それが真冬でも、真夏でも。見事に咲き誇れるかどうかはわからずとも。……散っても、しおれても、季節を選ぶのもまた華だもの」
雪梅嬪がそうであったように。
彼女は雪のなかでも咲き続ける梅だが、真に咲き誇ったのはただ一度、最愛の男のためだけだ。殷春といったか。彼は愛に殉じ、雪梅嬪の愛も永遠になった。
「雪梅嬪はよいお母様になられますよ」
「ありがとう」
紅の唇を綻ばせて、彼女は笑った。
「後ひとつ、これは墓場まで抱き締めていくことなのだけれど……貴女にだけは」
慧玲の耳もとに唇を寄せて彼女は囁いた。華の、麗しき秘めごとを。
「私はこの姑娘を殷春との子孩だと想って、育てるの。……女にはそれができるから」
人を愛した、ただそれだけ。明かしてみれば、他愛なく。だが、明かせば散る。ゆえに最期まで秘を抱き締めて、華は咲く。
雪梅嬪は静かに微笑みながら、袖を振った。慧玲の後ろを指すように。
息をのんで振りかえれば、廻廊からは、雪花を咲かせた梅の枝が視えた。季節を違えた白梅。燈篭のせいか。そこだけがぼんやりと光を帯びている。
ああ、あれは殷春が命を絶った梅だ。
「愛しておられるのですね」
季節が循っても。
女の愛は、強い。慧玲はなぜか、母親のことを想いだす。先帝を、あるいは先帝だけを愛していた女のことを。
雪梅嬪は黙って、睫をふせた。
「……ねえ、貴女はつらくはないの」
理解が追いつかず、慧玲は頭を傾けた。髪がひと筋、衿もとに垂れる。
「私が飾り物の華であれと育ったように、貴女は薬であれと産まれ、薬であり続けているわ。命を賭け、こころを砕き、身を捧げて。それは、つらいことなのではなくて? 私は貴女の薬に助けられてばかりだから、なにもいえないけれど」
毒であれ、華であれ、薬であれ。
斯くあれと産まれて、育つことは等しく重い。
「いつか、薬でなくともいいといって、貴女のすべてを愛してくれる御方が現れることを祈っているわ。貴女は……ほんとうは薬などなくとも、愛されるにふさわしい姑娘だもの」
雪梅嬪の眼差しは、慈愛に満ちていた。
(雪梅嬪は優しい御方だ)
それなのに、胸に棘が刺さったようにひりついた。曖昧に微笑みながら、慧玲は頭の端で想う。
(私は薬であり続けたいのよ。薬でなくともいいなんていわれても、どうすればいいのか、わからない)
鴆に囁きかけられた言葉が、頭のなかで渦を捲いた。
(知ったら薬ではいられないから、あんたはこわいんだ……か)
胸の底にある潤んだ傷を、鴆は的確に啄ばむ。認めずにはいられない、彼は彼女の理解者だ。恐ろしいほどに彼は彼女の傷を知っている。
あるいは彼もまた、同じ傷を何処かに隠しているからなのか。