7 華の頂と皇后からの依頼
後宮は風水に護られている。
風水とは地理学に基づいて地相を読み解き、建造物等を最適な地に導く学術である。帝都は背山臨水という風水における最高の土地に築かれた。さらに後宮内部は四地思想を取りいれて造られている。
四地思想とは季節神の布置に倣うことで結界を設けるというものである。これに則り、水清く花咲う春の宮は東に、黄金で飾りたてられた秋の宮が西に、水上に建てられた夏の宮は南に、都を一望できる高殿を有する冬の宮が北に、其々建てられた。
四季の宮にかこまれた貴宮は風水の力が最も強い浄域である。
各宮に架けられた橋から貴宮に渡ることができるが、橋には衛官がおり、季妃であろうと皇后の許しもなく足を踏みいれることはできない。
皇后自身も宴を除けば、季節の宮を訪問することはなく、慧玲は一度も皇后陛下と会ったことはなかった。
橋では麒麟紋が織りこまれた緞子織の旗がはためいていた。
麒麟は龍に似て蹄と鱗を携えている。地を統べるにふさわしき帝が仁政を敷くときに現れ、万象の調和を司り泰平をもたらす――という。
この故事から剋では建国時から現在まで麒麟の旗を掲げ、守護神として奉っている。
よって、麒麟紋は皇族の象徴でもある。
慧玲が橋を渡っていると、桜吹雪にまぎれて紅葉の錦、続けて紫陽花の青が瞳に飛びこんできた。
貴宮では春から秋にかけての花々が絶えることなく咲き続ける。よっていまも桜の隣では芙蓉が咲き誇り、睡蓮が池を飾り、枝垂梅もまだ咲き残って風に舞っていた。一幅の絵のような佳景に慧玲は想わず、感嘆の息を洩らす。同時に風水の力をあらためて思い知った。年中花が咲き続けているということは、尋常ではないほどの命の息吹がこの地にそそぎこまれていることの証左だ。
地毒が侵入する余地はない。そのはずだ。
貴宮の敷地についた慧玲は女官に迎えられて、玻璃張りの宮殿へと通された。
この建物は、水晶宮と称される。
透きとおった壁は玻璃で造られており、東西南北に拡がる万季の庭が一望できた。天花板には万華鏡を想わせる彩色玻璃が鏤められている。真昼の日差しが虹の結晶となり降りそそぎ、雪花石膏の床に曼荼羅めいた光の文様が投映されていた。
華の宮の最たる処だ。
眺めているだけでも眩暈がした。
(この後宮の頂に君臨するのはどんな《華》なのだろう)
慧玲が跪いて暫く待っていると、からからと車輪の音が響いてきた。
「あらあら」
綺麗な声がした。頭上から光が差すような調べだ。
「どうか、そんなに畏まらないで」
うながされるように視線をあげれば、麗らかな春の日差しに擁かれて、天仙を想わせる女が微笑んでいた。
欣華皇后――御子もいない身でありながら、皇帝の寵愛を一身に享ける女だ。
(後宮の麗しき華にかこまれる陛下を、なおも魅了し続けるくらいだ。どれほどまでに妖艶な佳人なのかと想像はしていたけれど……これは、意外だった)
紅も乗せず、着飾らず。今朝がた摘んだばかりの芍薬や月季花を髪に挿して、肩には薄絹の領巾を掛けている。これにも麒麟紋の刺繍がひとつあるだけで、金糸銀糸等の豪奢な飾りはなかった。遠い異境から嫁いできたそうだが、天から降りてきたといわれたほうがまだ、頷ける。
(まるで仙女だ)
いまにも翼を拡げてふわりと舞いあがりそうな彼女を現実に留めているのが、大きな車輪のついた輪倚だった。
皇后は幼い頃から下肢が動かず、女官たちの補助がなければ身のまわりのこともできない。懐妊も望めないだろうと宮廷医からは宣告されたという。
「まあ、貴女が慧玲なのね……そう、ふふ、よかった」
慧玲は皇后の真意を理解できず、睫毛を瞬かせた。
「角のひとつくらいあるような噂ばかりを聴かされていたものだから……とても緊張していたのよ。でも安堵致しました。こんなにも可愛らしい姑娘さんだったのねぇ」
皇后は折扇を拡げて鈴の転がるような微笑をこぼす。
「恐縮にてございます。皇后陛下」
「貴女を呼び寄せたのは他でもないわ。まもなく春季の宴があるのはご存知かしら」
雪梅嬪が招かれたといっていた皇后主催の宴のことだ。
「そのときに振る舞う宴の膳を、食医である貴女に任せたいの」
予想だにしていなかった依頼に慧玲は戸惑った。
「地毒の禍に見舞われてからというもの、聴こえてくるのは昏い報せばかり――東部では水が毒されて作物が根ごと朽ちたとか。西部では毒に侵された家畜が人を襲いはじめたとか。都でも毒疫がいつ蔓延するかと民たちは憂慮しているわ。春だというのに、後宮の華たちもすっかりとしおれてしまって」
皇后は傷ましげに瞳をふせる。睫毛の先端に光の結晶が乗り、微かに瞬いた。
「民の憂いは陛下が取りはらうでしょう。妾はせめて後宮の華がしぼむことのないよう、宴で薬膳を振る舞いたいのよ。薬膳は心身の調和を調え、未病をも治すというわ。お願いできるかしら」
慧玲は喜んでいいのか、あきれていいのか、分かりかねて途方に暮れる。欣華皇后は慧玲が重罪人の姑娘だと解っているのだろうか。
「畏れながら、申しあげます」
非礼にあたることは承知で、それでも黙してなどいられなかった。
「蔡 慧玲は大罪人の姑娘にてございます。そのような大役を賜れる身分ではございません。どうか、薬膳は宮廷の食医に――」
「けれど貴女は白澤の叡智を継いだ特別な食医だわ。違うかしら」
先帝の頃は、叡智の一族たる《白澤》が後宮にありと噂されたものだった。いまではそれを知るものも僅かになったが、慧玲が皇帝から恩赦を賜っているのは白澤の血脈と知識を受け継いでいるからに他ならない。
正確には、今まさに――免罪か死罪か、毒か薬か。
試されている。
「それは……ですが」
言葉を濁す。毒疫に侵された患者は藁にでも縋るような想いで慧玲に薬を依頼してくるが、妃嬪たちはそうではない。
「毒でも盛られるのではないかと……怖がらせてしまいます」
「あら、毒をいれるの?」
慧玲は一瞬、言葉をつまらせ、凍りついた喉から声をしぼりだす。
「――造るのは薬です」
「だったら、なにひとつの懸念もないわね」
皇后が屈託なく微笑む。後光が差すほどの、慈愛の笑みだった。
何故、皇帝が彼女を寵愛するのか。慧玲にもいまさら理解できた。
皇后とは民草の母でなければならない。すべてを抱き締めて、等しく慈しむだけの雅量が欣華皇后には備わっている。
「ねえ、慧玲……聴いてちょうだい。貴女の御父君は確かに《渾沌》という異称に違わぬ悪政を為したわ。忠臣たちを続々と処刑し、無辜の民を些細な理由で斬り捨て、妃嬪にまで乱暴を働いて……」
渾沌。その言葉が表すのは不条理や無秩序の意ばかりではない。麒麟とおなじく、いにしえから伝承される化生のことを表していた。
神話いわく――渾沌は狗に似て身躯は熊を凌ぐ。眼も鼻も耳も舌もないが、胴まで割けた大顎をもって、善人だけを喰らうとされる。麒麟が瑞祥であるのにたいして、渾沌はまさに邪悪の最たるものだ。
「けれども貴女は御父君の罪をも一身にかぶり、懸命に償おうとしている――なんて愛おしく、いじらしいのでしょうか」
皇后は涙ぐみ、瞳を潤ませた。
「あなたを支援してあげたいのよ。たいしたことはできないけれど、せめてあなたの技量に値する職分を与えてあげたいと想うのは……いけないことなのかしら」
慧玲は食医という職位を与えられているが、日頃から貴人の食に携われるわけでもなく、重篤な患者に薬を処方するだけに留まっている。実際の処遇は下級医官にも劣っていた。慧玲自身はそれに不満はなかったが、厚意は有難い。それに宴ともなれば大陸の各地から、多様なる食材や生薬が集められるはずだ。雪梅嬪の《木の毒》を解毒するための素材もあるかもしれない。
「ご慈悲に……謹んで御礼申しあげます。かならずや、最高の薬膳を調えましょう」
皇后が瞳を輝かせる。「宴が楽しみね」と皇后が弾んだ声で語るのを聴きながら、慧玲は償いという言葉を喉の底でひそかにとかす。
皇帝の遺した毒を絶つ、というのが償いにあたるならば、そうだ。だが彼女の望みはそれだけでは、なかった。
(……許せるものか)
緑の瞳のなかで昏い焔が燃えさかる。誰にも知られることなく。火を飲みくだすように、彼女は黙って唇をかみ締めた。