65 根の深い木
季節を憶えぬ貴宮にも雪は降り、水晶宮は雪洞のようになっていた。
冬の水晶宮はさながら暖房で、三百種を超える花々が咲き群れている。真昼になって融けだした雪の隙から差す光は疎らで、花たちを真綿のように擁き、穏やかに微睡ませていた。
「毒は滞りなく。春には命を落とすでしょう」
鴆の声は硝子張りの房室のなかでも響かない。高筒鞋の音も然りだ。
「そう、よかったわ。お疲れさま」
欣華皇后が微笑する。不穏な会話にもかかわらず、どこまでも純真に。
皇后つきの風水師など、建前でしかない。
今や鴆は宮廷つきの毒師として暗躍を続けていた。
時々戦線に赴き、風水を騙って策謀を張り巡らせる。この頃は頓に国境を侵略されることが増えていた。先帝がいなくなったことで隙をつこうと動いている敵も後を絶たないのは事実だ。だがそれだけではない。
避けようと働きかければ避けられる衝突や侵攻もあるのに、皇帝は敢えて牽制することなく、受けいれている節があった。
(皇帝は戦をしたがっている? いや、それにしては規模が小さすぎる)
小競りあいでも戦争は戦争だ。雑兵は命を落とす。敵味方を問わず、だ。こんな争いに何の利があるのか。
(皇后も皇后だ。何を考えている? 僕を御しきれるつもりか。他に考えがあるのか。そもそも、皇后は僕の素姓を何処まで知っている?)
「ねえ、あなた」
鈴のような声に鴆は一度、思索から意識をひきあげる。螺鈿を鏤めたような瞳が鴆のことを真下から覗きこんできた。
鴆はこの瞳が嫌いだ。
水至清則无魚――透きとおりすぎたそれは、毒に等しい。それでいて、彼女から悪意というものが感じられないのだ。毒殺の任を言い渡す時ですら慈悲を施すように微笑を絶やさない。
異様だ。壊れているのか。或いは人に非ざる化生のような。
「あなたの系譜は《窮奇の一族》というのだったかしら」
「左様ですが、それがなにか」
鴆の語調からは詮索されることにたいする強い拒絶が滲んでいる。だが素知らぬ振りをして皇后は続けた。
「窮奇といえば、毒のある有翼の虎のことよね。渾沌に匹敵する化生から称を戴くだけあって、最強かつ難解な毒を扱っていたとか。大陸で最も優れた毒師として連綿と宮廷につかえてきたのに」
可哀想に、と欣華皇后は哀れむように眉を垂らす。
「先帝は毒を嫌っておられたけれど……いくらなんでも、火をつけて焼きはらうのは酷いわよね」
「……何が言いたい」
咄嗟に声が低くなる。
かの一族は確かに、先帝の裏切りによって滅ぼされた。
先帝は毒師の一族と縁を絶つとき、毒が持ちだされて他を害すことのないよう、一族の隠れ里ごと焼いたという。生き残ったのは鴆の母親ただひとりだった。鴆が産まれたのはその二年後だったが、母親から繰りかえし語られたその光景は現実に経験するよりも凄惨に網膜に焼きつき、骨髄に達するほどに深い根を張っていた。
「ふふ、怖い顔をしないで。……だからね、なにを知られているんだろうとか、考えなくてもいいのよ。妾は全部、知っているの。あなたがなにを望んで、宮廷に帰ってきたのかも、全部よ」
でも構わないのよと彼女は睫毛をふせた。
「妾のものを取らないでくれたら、他はすべて許すわ。あなたがなにをしても、妾だけは許してあげましょう」
どんな毒蟲に触れてもなんとも思わない鴆が総毛立った。百の蛇に絡みつかれても、こうは感じまい。
だが、だからこそ解る。
皇后が欲しているものは鴆ではなく、もっと他にあると。
「食べ損なったものがあるのよ。妾はそれがとても、食べたいの。他の物では満たせないくらいに。とてもとても、とても……ね」
ちろりと唇を舐めて、欣華皇后は笑った。
「貴方はいったい」
天花板から差す光の筋を横ぎって、蝶が舞い降りた。
藍銅鉱の毒々しい青を帯びた蝶だ。
「奇麗な蝶ね、あなたのおつかいかしら」
「どうでしょうね」
鴆は敢えてはぐらかした。彼女にはこれ以上は何ひとつも情報を渡すつもりはない。
「まあ、内緒なのねぇ、ふふふ」
皇后は気分を害した様子もなく、微笑をこぼす。
彼女は喋りながら真冬でも咲き続ける薄紅の月季花を愛でていたが、なにを想ったのか、花の頚をもいて摘んでしまった。欣華皇后には花を壊すくせがあるのだと、この頃になって鴆は知った。花が哀れだとは想わないが、みていて気分のいいものではない。
もぎ砕かれていく月季花から視線を逸らせば、皇后は気づき、花瞼を細めた。
「華はね、摘まれるために咲くのよ」






