61 彼ほど強い毒はいない
霜風が吹きつけ、雪は煙るように吹雪きはじめた。
早暁には都を白銀に凍てつかせるだろう。石畳は白い帷をかけたように雪に埋もれている。新雪を蹴って慧玲は鴆を捜し続けていた。
「鴆!」
鴆は宮廷と後宮を結ぶ橋を渡って帰るところだった。鴆は貴宮つきの風水師だが、男の身で後宮に暮らすことは許されておらず、宮廷から通っていた。彼は慧玲の声に振りかえる。
雪が吊灯篭のあかしを映して、血が滲むように潤んだ。
橋の中程で慧玲は、鴆とむかいあう。
「……雪梅嬪が毒を盛られたの。外掛に毒の銀糸が縫いこまれていた。毒に触れたら身体が水になる毒よ。地毒を模してはいるけれど、毒師によって調えられた毒だった。おまえが持つ毒の知識を借りたい」
先程の口論を思いだせば、胸が掻きみだされた。
葛藤はある。警戒もある。それでも雪梅嬪の命が懸かっているのだ。
鴆は黙して動かなかった。値踏みするような、冷たい視線をしている。
「どうか、助けて」
慧玲が頭をさげた。
「……毒である貴女ならばいくらでも力を貸してやるよ。あんたを疎むものを全部殺してやってもいい。でも薬である貴女は、別だ」
冷ややかに唇の端をゆがめて鴆は笑う。
「それに毒師に頼るなんて白澤の恥だとはおもわないのか」
「思わない。ただの毒師ならばいざ知らず、おまえほど毒に精通している者はいないもの」
だが、鴆はにべもなかった。
「僕が助ける筋あいはないね。それともなんだ。ふさわしい報酬でもあるのかな。だったら考えてやらないこともないけれどね」
「……ない。私からおまえにあげられるものはなにひとつ」
恥じることがあるとすれば、それだけだ。
「命ならば、いつでも賭けられるけれど」
「患者ならば誰にでも賭けるあんたの命なんか、僕は要らない」
鴆は唾棄するようにいった。
張りつめた静寂に雪ばかりが降り続ける。沈黙を破って、鴆がはっと嗤った。底しれぬ悪意を振りかざして。
「僕がその毒を調じたと、貴女は僅かも疑わなかったのか?」
風が強くなる。氷雪をともなった旋風が頬を打ち据える。
「僕の一族は、錬丹を得意としていると教えてあげたのに」
銀糸は、絹糸に金属を蒸着させて造る。金属による調毒はまさに錬丹術の本分だった。雪梅嬪に御子が産まれて最も窮することになるのは誰かということを考えれば、答えは容易に導きだせる。
鴆が仕える欣華皇后だ。皇后であれば女官を買収するのも容易だろう。
だが、慧玲は静かに頭を横に振った。
「疑ってない」
「へえ、疑うだけの事由は充分に揃っているだろうに。信頼しているから、なんて戯言はいわないでくれよ。僕と貴女の仲じゃないか」
鴆は意地の悪い微笑に眸をゆがめる。例えるならば、言葉の剣戟だ。斬りかえされた言葉の隙をつくように慧玲は続けた。
「この毒は臭った。おまえほど優秀な毒師が毒に臭いを残すはずがない。違う?」
「……っ」
虚をつかれ、紫の眼睛が揺らいだ。
「硫黄。僅かだけど、草いきれも。嗅いだことのない植物のにおいよ。確かめて」
鴆は黙って手套をつけ、慧玲から毒を帯びた外掛を預かった。外掛の刺繍に触れて毒を検め、彼は一瞬だけ瞳を見張った。
「……前言撤回だ。事情が変わった、この毒について調べてやるよ」
無償でねと、彼は紅の外掛をひるがえして、橋を渡っていく。如何なる心変わりがあったのか。慧玲は戸惑いながらも遠ざかる背に「ありがとう」と感謝の言葉を投げる。鴆は雪を掃うようにひらりと袖を振った。
これで雪梅嬪は助かる。
(だって彼ほど、強い毒はいないもの)
毒師といっても大陸には様々な一族がいる。薬草による調毒を得意とするものもいれば、言葉の毒である呪詛に携わるものもいた。
だが彼に比肩するものは、いないだろう。それは禁毒を身に帯びていることとは別だ。
(宮廷に服していた毒師の一族――先帝が縁を絶った後、里を棄てて離散したというかの一族のひとりが鴆ではないだろうか)
あるいは同族であっても彼ほどに毒を扱うことに秀でているものはいないかもしれない。
毒であるために、命を燃やし続けているような男だ。慧玲と同じ地獄。それでいて真逆の道をいく背を眺めながら、慧玲はひとつ息をついた。
疑いながら寄りそい、信じずして頼ることは愚かだと理解していながら。
(……それでも、これが、わたしとおまえの関係よ。なまえなどなくとも)
◇
一刻も経たずに鴆は毒を解析してきた。
「愚者の水銀。これは方鉛鉱ともいうね」
方鉛鉱は鉛と硫黄からなる鉱物だ。だから硫黄の臭いが残ったのだ。
「後は、水毒のある水脈に根を降ろした山荷葉の葩だ」
「山荷葉?」
聴きなれない植物だ。
「東の島にだけ群棲する植物だよ。葉は蓮に似て、葉からつきだすように白い花が咲き、青い実が結ぶ。水に触れると葩が透きとおるという珍しい特徴がある。玻璃みたいにね。毒はないが、水毒を吸い続ければ無毒なものほど強い毒になる」
「だから、雪梅嬪の腕が透きとおってしまったのね」
「東の島では鬼臼としてこれが処方されたそうだよ」
聞きながら、慧玲の頭のなかで竹簡が解かれていた。
鬼臼といえば、八角蓮の実のことだ。死産を未然に治癒するという。つまり妊婦のための薬だが、似て非なるものではその効能は望めず、毒と転ずる事例もある。水毒を吸い続けた植物ならば、なおのことだ。
「……はやく解毒しなければ」
雪梅嬪はもとより、御子の命が危うい。
他にもいくつかの毒が調合されていたが、問題はそのふたつだ。
「毒師にできるのはここまでだ。ここからは薬師の管轄だろう。せいぜい頑張りなよ」
方鉛鉱は濡れるほどに輝きを損ない、山荷葉は透きとおる。どちらも水の影響を強く受けるものだ。
だが《水の毒》ではなかった。
鉛は木の毒で、山荷葉は水毒を吸ってはいるが、白い葩ならば金の毒に寄る。金、水、木は順に相生の関係にある。すなわち、水がふたつの要素を結びつけたことで、木毒、金毒が強くなっているのだ。
(土の薬で水の毒は容易に解ける。でもそれだけでは解毒しきれない。残った毒は水を欲して胎水にまわり、胎児を蝕む)
鉛も偽薬も死産、もしくは胎児に害を及ぼすものだ。
(むしろ、解毒されてからのほうが害になる毒だ)
この毒を盛ったものは雪梅嬪に水毒を解ける食医がついていることを知っていたということになる。
(微弱な金毒と木毒ならば、ともに火の毒で相剋できる。けれど水の毒があるうちに火の薬を投与しても効果はない。だとすれば順番は……)
頭のなかで薬を組みあげる。
(さきにこの薬をのませて、後からこれがあふれだすように……火薬の原理でいけるはず)
最大の問題は食材だった。
解毒には強い土の薬が必要だ。土は味においては甘みをつかさどるが、蜂蜜、甘蔗等では水の毒に侮られる。最適な食材は異境の果実だが、手に入るかどうか。
(思いだした。確か、もうすぐ冬季の宴が催される)
春と同様に宴の食事は慧玲が監修することになっており、またも大陸の各地、あるいは異境からも希少な食材が集められていた。すでに後宮の庖房の倉房に輸入されているという。
慧玲は急いで春の宮に戻りかけていたが、進路を変え、庖房にむかった。