6 梅の根かたで自害した宦官
雪梅嬪には昔から色事の噂がつきなかった。
馨しき花に蝶がまつわるがごとく、宦官までもが舞姫に魅了され、言い寄っていたという。雪梅嬪は宦官たちを散々弄び、飽きては無残に捨てていたと妃妾たちは眉を顰めていた。もっとも雪梅嬪ならば「蝶はひとりで舞いあがって、落ちたのよ」とあきれて笑いそうだ。
後宮で懐妊といえば皇帝の御子に他ならない。
後宮には宦官はいても《男》はいないからだ。いうまでもなく宦官とは去勢を施された官吏のことだ。雪梅嬪を妊娠させることは不可能である。
慧玲は雪梅の毒に繋がる手掛かりがないかと春の宮を廻っていた。
聞きこみをしたくて女官に喋りかけてみたが、死鬼にでも遭ったように悲鳴をあげて逃げだすか、祟りがあるとばかりに視線もあわせず無視するかのどちらかだった。
(……哀しいというか、なんというか)
とはいえ、慧玲はたいして傷ついてもいなかった。
冬までは確かに帝姫だったとはいえ、もとから宮のなかで鍾愛され、護られて育った姫ではなかったからだ。
(後宮にも宮廷にも、そもそも親しい者なんかいないもの)
慧玲は物心ついたときから、母親のもとで育てられた。
慧玲の母親は皇后でありながら後宮には入らず、旅から旅を続けていた。時々宮廷に還っても留まることはなく、東で時疫あり、西で急患ありと聞きつければ、馬を駈って患者のもとに赴いた。慧玲も母親と行動をともにすることで、白澤の医たるは如何なるものかを実地で教わった。そのあいまで帝姫として恥じぬ振舞いは身につけたが、慧玲は《白澤の姑娘》であるという自認のほうが強かった。
(先帝が落魄してから、帝姫であったことをこうも意識するようになるなんて。想像もつかなかった)
感傷に浸りながら慧玲は廊橋にもたれて、小鈴から貰った揚げ菓子を頬張る。梅枝というだけあって、かたちがよく似ていた。軽やかに揚がった生地が割れて、ふわっと肉桂の香りが弾けた。素朴だが、飽きのこない味わいだ。
蜂蜜の甘みが舌に拡がり、思わず微笑がこぼれる。
(懐かしい)
先帝に連れられて一度だけ、都の市場に出掛けたことがある。
先帝は、もとから壊れていたわけではない。
慧玲が幼い頃、先帝は素姓を隠して都の視察をするのが好きだった。民の暮らしを実際に観てはじめてに民心が解かるのだと彼は常々語っていた。
慧玲は屋台で売られていた梅枝を食べ、民の食べ物にも漢方で馴染みの丁子と桂枝が練りこまれていることに感服した。
慧玲はその頃、八歳になったばかりだったが、髪には霜雪が積もったように白銀がまざり始めていた。先帝は「勉強熱心なのだな」といたわるように頭をなぜ、微笑みかけてくれた、はずだ。
(なのに、父様の顔が、どうしても思いだせない。声も言葉も全部覚えているのに、顔だけが)
慧玲は耳で聞いた言葉ならば、一字一句違わずに憶えることができた。
これは口承の一族として必需な才能だ。
白澤の叡智は書に非ず。
師から口承された知識を一篇たりとも洩らすことなく、頭蓋に蔵する。たかが十歳に満たない孩子の頭に、千年に渡る知識のすべてを収めるのだ。白澤の一族はこの知識を継承したときに総じて白銀の髪となる。
ここは後宮である。
風に乗ってきた噂だけでも、それなりに情報が収集できる。
廊橋から梅園を眺めているうちにふと想いだしたことがあった。
仲春の候だったか。ひとつ、梅にまつわる噂を聞いた。
いまから、ふた月も前のことだ。
梅の根かたで喉を貫いて自害した宦官がいたという。
彼は他ならぬ雪梅嬪に懸想していた。雪梅嬪もまんざらではなかったのか、逢瀬を重ねていたそうだが、突如飽きたとばかりに縁を絶たれた。弄ばれたことを嘆いた彼は、咲き誇る梅のもとで命を絶った。
宦官の死は、雪梅嬪を侵す毒と繋がりがあるのではないだろうか。
慧玲は廊橋を渡り、階段をつかって庭に降る。
梅の春はとうに終わり、紅の萼と雄蕊を掻きわけて小さな実が結びはじめていた。
宦官が命を絶ったのは後宮に双つしかない、八重の枝垂れ梅のどちらかだという噂があった。だが八重白梅というものもいれば、八重紅梅と噂するものもいる。散ってしまえば、紅梅も白梅も変わりはなく、八重かどうかも見分けがつかない。
(さて、どうしようか)
考えこむ慧玲の視界を蝶が横ぎっていった。
(魄蝶……確か、雪梅嬪の房室にも舞いこんできた)
雪梅嬪には教えていなかったが、あれは毒の蝶だ。幼い子どもなどが誤って舐めでもしないかぎり、毒に侵されることはないが、それなりに強い神経毒がある。重ねてもうひとつ、魄蝶にはある特徴があった。
慧玲は蝶を追い掛け、赤い反橋のたもとにある梅にたどりついた。
特に変哲のない梅だったが、根かたにはこんもりと雪が積もっていた。雪――いや、蝶だ。梅が散ってから久しく、残り香に誘われたはずもない。慧玲は袖を振って、群がる蝶を払いのけた。
蝶に埋もれるようにして、黄金の簪が落ちていた。血の錆がついている。
(魄蝶は血の香を好む)
戦場や刑場で舞うことから、死者の魂を運ぶ死蝶とも称された。
例の宦官が命を絶ったのはこの梅だ。
非業の死は強い陰をともなう。
陰陽は秤のようなものだ。強い陰が載れば、秤は傾いて調和が崩れる。そこに地毒が生ずる。
慧玲は簪を懐にいれた。
死穢は強い《陰の毒》となる。解毒には強い薬を要する。
(夾竹桃の露を調薬して……いや、だめか)
強すぎる薬は胎の御子に障りかねなかった。
慧玲が識るなかにひとつ、雪梅嬪に最適な薬がある。水銀蜂が集めた水樒の蜂蜜だ。希少な物で、後宮ではとてもではないが、調達できない。
(陛下は調薬に要るものがあれば申請せよと仰せだったけれど――検問をとおるとは思えない)
秘するは《華》――慧玲の薬にも他者には明かせぬ禁秘がある。
窮する慧玲のもとに近寄ってきた者がいた。銀糸が織りこまれた襦裙からして、非常に高位の女官であることがわかる。
「蔡 慧玲、皇后陛下が御呼びである」
慧玲は絶句した。後宮の最高位にあたる皇帝の正室が慧玲にいかなる用事があるというのか。慌てて「すぐに参ります」と頭をさげる。
些か緊張しながら、慧玲は皇后の御居す貴宮にむかった。