54 孔雀の笄
朝になって気づけば、鴆はいなくなっていた。
肩にかけられていた外掛に握り締め、意外な気遣いに慧玲は微笑をこぼした。艶のある黒絹からは檀香を想わせる烟のにおいが漂ってくる。いつのまにか嗅ぎなれてしまった香りだ。
「おはようございます、慧玲様!」
玄関から賑やかな声が聞こえてきた。藍星だ。
「……ごめんなさい。まだ身支度が整っていなくて」
咄嗟に外掛を隠す。男物の服を借りていたとなれば、藍星のことだ、大騒ぎするに違いない。そうなれば説明するのが面倒だ。
「皇后陛下から贈り物を預かっていますよ。なんでしょうね」
小箱を渡される。中には銀の笄、真珠の耳飾り、珊瑚の帯飾りなどが収められていた。眩耀なる品々に藍星が歓声をあげる。
「わわっ、すごい! 高値な品ばかりですよ」
確かにどれも素晴らしい品だが、食医に必要だとは思えなかった。
「藍星」
「はい、なんでしょう。どれか、身につけてみます?」
藍星がわくわくと瞳を輝かせる。
「あなたに全部、差しあげます」
「はい……え、ええええっ! だめですよ、頂けません! 私なんかがこんなのをつけたら禿げそうです」
ぶんぶんと勢いよく頭を振る藍星の手を取って箱を握らせた。
「大変な旅でしたが、あなたは最後まで頑張ってくれました。わたしには御礼としてあげられるものがなかったので、せめてこれだけでも貰ってはくれませんか? 身につけにくいのでしたら、売って換金してはいかがでしょうか。故郷の御家族に差しあげてもよいですし」
それに先帝の罪とはいえども、彼女には償いきれないことをした。敬愛する父親を奪い、母親の心を壊し……あるじが処刑された一族は、族誅には処されずともかならず没落し、貧する。
藍星の掃除などの手際をみていても、ずっと懸命に働いてきたことが窺えた。
「……有難く頂戴致します……そのかわり、もっともっと働きますからね」
藍星は涙ぐんで頭をさげる。
さあ、きまったところで身支度をしよう。襦裙を着替え、乱れていた髪を結い直して笄を挿したところで藍星が声をかけてきた。
「慧玲様はその笄しか身につけられないんですね」
青碧の孔雀の羽根でつくられた笄に触れて、慧玲が「ああ、これですか」といった。
「願掛けのようなものです。白澤の一族は孔雀を信仰していますから」
「孔雀を、ですか?」
「孔雀は毒蛇を捕食することから、昔から万毒を喰らうといわれているんです。だから白澤の一族は、笄年を迎えたときに師から孔雀の笄を賜ります。私は師を喪ってから笄を迎えたので、母親の笄を継ぐことになったのですけれど」
笄からは小さな水琴鈴がさがっている。竹の実を象った珠だ。動くと微かに水の滴るような音を奏でる。
「お母様も白澤の一族だったんですよね。あ、そっか、先皇后さまになるのか。どんな御方だったんですか」
慧玲が遠くに視線を馳せる。
「敬うべき恩師でした。……最期まで、父を愛していた」
彼女から教わったことはたくさんある。
薬であれと教わった。その言葉だけを縁に今、彼女は争い続けている。けれど最期、彼女は何を想い命を絶ったのかを考えると胸の裡にざわりと影が差す。
触れてはいけないことに触れてしまったと想ったのか、藍星はぎゅっと唇をひき結んでから、わざと明朗な声をあげる。
「お掃除しましょうか。あーやだやだ、蜘蛛の巣まで張っちゃって」
藍星がそそくさと窓に張った蜘蛛の糸を掃う。彼女の朗らかさにはいつも助けられている。
そう、物想いに耽っている暇はないのだ。二週振りに後宮に帰ってきたら、依頼がかなり溜まっていた。
「私はまず、秋の宮の妃妾の診察にむかいますね。午後には雪梅嬪の健診にも伺わなければ」
雲のない秋晴だ。風に乗って秋蜻蛉が渡る。荷に薬をつめ、最後にふと想いだして外掛をいれた。会えたらかえそう、そう思いながら。