46 月に叢雲 花に風
細い烟が竜のように昇った。
盆の月をふり仰ぎ、煙管をふかしているのは鴆だ。鴉のような彼の背後に何処までも拡がるのは乾いた砂漠だった。彼は今、宮廷から遠く離れた国境の戦線にいる。
鴆は思いかえす――あの晩、慧玲の後で貴宮に呼び招かれた彼は皇后から遠征の命令を受けた。意外だとは想わなかった。風水師が最も活躍する場は戦線だからだ。戦地の風水を読破することで軍を勝利に導くのである。
だが欣華皇后は最後にこういったのだ。
「どうかその能力をいかんなく発揮してちょうだいね、……毒師さん」
いつもと変わらない微笑を馨らせて。
(いつから毒師であることを見破られていた? そもそも、どうやって気づいた?)
煙管をふかしながら鴆は思考を巡らせる。
宮廷にきてから八人、毒殺した。
元の依頼者である左丞相はまっさきに暗殺し、その後は宮廷風水師になる際に障害となる者をふたり、怪しまれないためにも無関係なものを更にふたり殺した。後は慧玲の暗殺を目論んでいたものを三人程。いずれも証拠は残しておらず、素姓を探られるとは考えにくい。
(だとすれば、唯一僕が毒師であることを知っている左丞相と皇后が繋がっていた?)
だが左丞相は、他ならぬ皇后が主催で参加する春季の宴に毒を盛ろうとしていたのだ。慧玲が未然に防いだが、最悪、皇后も毒で命を落としていた。
(……いや、このふたつは矛盾しない)
あらかじめ、毒が盛られることを知っていれば、皇后は食した振りをすればいいだけだ。皇后は一命を取り留めたということにすれば、ただの被害者であり、後のことはどうとでもなる。
(喰えない女だ)
鴆は眼差しをとがらせた。
そのとき、遠くの丘陵を影が過ぎった。人影だ。南の方角では今晩あたり、剋の軍と敵国である戊の軍が衝突しているはずだ。敗北を喫して逃げてきた敵の兵隊かと想ったが、風になびいた領巾から女だと解った。
だとすれば、娼婦か。戦場に娼婦を連れてくる軍もいる。だが、それにしては背が低すぎた。幼い姑娘か、いやあれは。
(輪倚か?)
皇后の姿が頭に浮かぶ。ありえない。
ここは戦線だ。
皇后がいる、はずがない。
砂漠は障害物がないので遠くまで一望できるが、実際の距離は想像するよりもはるかに遠いものだ。いまから馬で駈けつけて、確かめられるかどうか。
鴆が馬を取りに行こうかとおもったところで兵がきた。
「鴆殿! こちらにおられましたか! 取り急ぎ、ご報告申しあげます」
兵は軍礼をして、息も接がずに続けた。
「鴆殿が厄有と仰せになっていた浅い湖ですが、徒歩で渡っていた敵の援軍が全員、溺死した模様です」
今朝のことだ。敵の援軍を迎撃するのに、水深の浅い湖を渡ることになった。だが鴆は軍師に「湖に水難の厄相有り」と進言し、迂回することになったのだ。軍師はそれでは湖を横断するであろう敵軍に後れを取ると非常に怒っていたが、皇帝から権限を預かっている風水師の指示を閑却することもできず、軍の進路を変えることになったのだ。
「わが軍は鴆殿の読みに順い、湖を渡らず遠まわりして命拾いを致しましたが、鴆殿の指揮がなければ、今頃は……」
兵は青ざめている。
「ああ、敵軍に優秀な風水師はいなかったようだね、残念だ」
鴆はわざと嘆いたふりをして、肩を竦めた。
実際のところ、風水なんて嘘だ。
風水というのは知識だけではなく、能才が物をいう。いわゆる風水の声を聴けるかどうかだ。鴆は風水師を偽称するため、可能なかぎりの修練は積んだが、実際のところはやはり本職ではない。
皇后の言葉は正鵠を射ている。彼は毒師だ。
(毒をもって万事にあたる、それが僕のやりかただ)
敵軍が湖を渡る頃にちょうど猛毒が流入するよう、細工をしておいた。毒が持続するのは一晩だけ。加えてこれは、魚には無害な毒だ。後から敵軍が調査にきても、毒で身動きが取れなくなって溺死したとは疑わないだろう。
「つきましては軍師様が御呼びです」
「わかった。すぐにいく」
兵が遠ざかってから、鴆は砂漠に視線をこらしたが、とうに人影は絶えていた。いまさら馬を駈ったところで捜せるはずもない。
息をついて、月を仰ぐ。どこからか吹かれてきた雲が月に掛かりはじめていた。 緑の星がひとつ、雲を斬り裂くように落ちていった。
「――慧玲」
薬たる姑娘もいまは、後宮を離れている。昇格にともなって、皇后が選抜した女官がついたとか……なぜか、無性に胸騒ぎがした。
鴆は毒を帯びた双眸を細める。
「慧玲、僕じゃない誰かに殺されたりするなよ」
◇
慧玲、と誰かに呼ばれた。かすれるような響きを帯びた、毒のある声だ。いつのまにか、聴きなれてしまった声だった。
(わかってる――これくらいで死ぬものですか)
水底から腕を伸ばすように意識をひきあげる。
慧玲は古ぼけた外屋の藁のなかに横たえられていた。視線をあげれば、格子の窓からはすでに朝の光が差している。腕は縄で縛りあげられていたが、拘束はさほどきつくなかった。
「慧玲様……よかった! 死んじゃったのかと……」
「藍星、あなたまで捕まったのですね」
藍星も縄で縛られている。転がりながら慧玲の隣にきて、彼女はわあんと泣きだした。
「もう、ほんと、訳がわからないんですよ。言いつけどおり火の番をしてたら、急に村の人たちがきて、抵抗するな! って怒鳴られて……なんで、こんなことに。はっ、まさかどんぐりと一緒に鍋で煮こまれて、食べられちゃったりしないですよねえ!」
「安心なさい、そんなことにはなりませんから」
殺すのならば先ほど気絶しているうちに泉に投げこまれていただろう。捕縛されている段階で最悪の事態はまぬがれたはずだ。慧玲は器用に腕を動かして縄を抜け、起きあがった。
「へ、どうやって……わっ、私のも解いてくださいよ!」
藍星が瞳をまるくして、縛られている腕をばたつかせる。
「やだやだ! 置いていくつもりじゃないですよね? 見捨てないでくださいよ!」
大声で喚いている藍星の縄を解くのは後にする。
(縄を解いた途端に逃げだしそうだからなあ)
まだやらなければならないことがある。やっと毒のもとが解けたのだから。
埃だらけの棚には様々な農具が雑多に詰めこまれ、端には俵が積まれていた。藁を解くと質は落ちているが、雑穀米だ。おそらくは昨年か、一昨年の残りだろう。
「こんなときになにしてるんですか! そんなことしてないで、はやく助けてくださいよお」
藍星は悲鳴のように叫ぶ。
騒ぎを聞きつけてか、外屋の扉が乱暴に開かれた。様子を見にきた椙は慧玲が縄を抜け外屋の物を漁っていたのをみて、ぎょっとしたように眼を見張る。
「おめえ、どうやって」
「ああ、ちょうどよかった」
慧玲は晴れやかに微笑みかけた。今しがた彼女を殺そうとしたものにむける微笑ではない。
「今、調薬の段取りが調いました。庖房をつかわせていただいても?」
椙は今後こそ毒気を抜かれたらしく、何度も口をもごつかせてから、やっとのことでいった。
「小姐ちゃん、あんた、他にいうことはないのか」
「ないわけではありませんが、患者の解毒が最優先です。あなたがたも私に薬を作らせるため、殺さずに捕らえたのでしょう?」
「それはそうだが……」
「だったら、都合がいいはずです」
「……けんどよ」
椙は煮えきらない。良心の呵責に堪えかねている様子だ。彼らは悪人ではない。人を殺めた罪人ではあっても。
「金の毒は眼を侵し、最後には肺にまわります。呼吸が細くなっているのは肺が結晶になりはじめている証拠です。一昨日、男孩さんを診察したかぎりでは、もって後五日というところでした。今晩のうちには薬を処方しないと解毒が間にあわなくなります」
椙の様相が変わる。縋るような眼差しをむけられ、慧玲は再度、微笑みかけた。子を想う親を安堵させるように。
「毒の理は解けました。かならず助けます」