43 金の毒を診る
農夫は椙と名乗った。
耳順を過ぎて暫く経ったところだそうだ。足があまりよくないらしく、杖をついている。
いわく畑仕事に携わっていた働きざかりの若者がまっさきに倒れたという。続けて妻や子孩……と家族に感染していった。なかには一家全員が倒れているところもあるそうだ。
「熱はない。咳もない。感冒とはまったく違う。ただ、眠り続けてる」
「眠り続ける、ですか」
どういうことだろうか。
慧玲は頭のなかで白澤の書を解く。
「ああ、せがれは二週間眠り続けてて、日に日に痩せ衰えていきやがる。たまに起きて食事を摂れることもあるが、俺のこともわかってるのか、わかってないのか」
「意識がぼんやりとしているということですか」
「いんや、記憶が雑ざってるかんじだな。十年も前に死んだおふくろのことを呼び続けたり、こどもみたいな喋りかたになったり……そんで結局、食べながらまた寝ちまう」
だがそれだけじゃないと椙は頭を振った。
「……まあ、診りゃわかる」
彼の房屋は土壁の昔ながらの造りだった。それぞれの房室に分かれているということもなく、土の上に敷かれた筵に身を横たえて若者が眠っていた。痩せ衰えた若者の側に膝をついて、視診した慧玲は言葉を絶する。ついてきていた藍星が後ろから覗きこみ、ひっと声をあげた。
(ああ……《金の毒》だ)
若者の瞼を濁った石英の結晶が蓋っていた。純度の低い細かな結晶が群をなしてひとつの塊になっている。
若者は悪夢にうなされているのか、呻いている。
「……おかあちゃん。暗いよお……雨が降ってきたよ、迎えにきて」
「倒れてから、この調子だ。五歳くらいの頃だったか、目を離したすきに森でいなくなっちまったことがあってよ。たぶん、ずっと、その頃の夢をみてんだな」
記憶の混濁か。神経に障る毒ではまれにこうした症状も現れる。
地毒における《金》とは金銀、鉄、銅等の貴金属や卑金属のみならず、鉱物全般を指す。鉱物のなかには有毒なものもあるが、石英に毒はない。だが、無毒であるはずのものが毒を有する――それが地毒だ。
想いかえせば、畑の土壌を埋めつくしていたのも石英の砂だ。だから農業をしていた若者から続々と倒れたのか。砂ならば靴にもつく。知らないうちに毒を持ち帰ってしまい、家族にも影響が及んだのだろう。
(調査にきた官吏の家族、知りあいに感染したのも同じ経路だろうか)
鉱物とは地脈の底で眠り続けるものだ。眠り毒になるのも理にかなっていた。
「このちかくに鉱脈はありますか」
水晶鉱山等があって、そこからなんらかの毒が浸みだしているという可能性もある。農夫は一瞬だけ、視線を彷徨わせてから、「いんや」といった。
「知らねえな」
僅かな沈黙から慧玲は椙が何を隠していることを察したが、敢えて問い質すことはせず、別のことを頼んだ。
「灌漑を確認させていただけませんか。灌漑は地下水ですか、それとも湖や川等から水を運んでおられるのですか」
「灌漑は池から、飲み水は水井だが」
「石英は純度の低い水晶を指します。これだけ結晶になっていたら、多少濁っていても、すでに水晶といえるでしょう。水晶は言葉どおり水に属します。水の毒が絡んでいることは充分に考えられます」
水晶と聞いた途端に椙の眉がぴくりとあがった。
「……そうはいっても、もう日が落ちた。松明をもっていっても、暗くて確認できんだろう。明朝でも構わんか」
慧玲はあらためて患者の脈を測り、舌を引っ張りだして舌診する。衰弱しているが、今晩明晩のうちに死に到ることはなさそうだ。
「それでは明朝にお願いします」
「あのぅ……宿は借りられるんですか。さっき遠くで虎の声がしたんですけど……」
藍星が心細そうにいった。慧玲はすっかりと野宿をするつもりだったのだが、椙がそうだったと頷いた。
「宿はねえが、空き房屋がある――ついてこい」
松明を掲げた椙に連れられて、東の端にむかった。
「好きにつかってくれ、庖房もあるぞ」
空き房屋ときいて崩れかけた小屋を想像していたが、予想と違い、邸といってもいいほどの建物がたたずんでいた。もっとも戸を潜ればそこらじゅうに蜘蛛の巣が張り、障子は破れ、荒れ放題になっていた。
「なんか、死鬼邸みたいなんですけど」
藍星が思わずこぼした言葉に椙が苦笑した。
「官戸の邸だった。……一家が例の病で倒れてな、いまは誰もおらん」
官戸とはいわば地主のことだ。均田制――国家が民に農地を貸しだし、収穫の一部を受け取るという昔ながらの制度が崩壊したのは最近の事だ。現在は地方官戸に雇われた佃戸がその領地を耕す佃戸制がおもになっている。官戸は豪族、士族が就くことが多く、都鄙に場違いな建物に暮らしているのもそのためだ。
椙が帰ってから、慧玲と藍星はひとまず邸のなかを確認する。確かに庖房もあるが、想像を絶する汚さだ。竈を覗いたら狸が飛びだしてきた。ただでも壊れていた格子の窓を突き破って逃げていくのをみながら、藍星が途方に暮れたような声でいった。
「まずは掃除ですかね、……掃除ですよねえ」
あまりに荒れているせいで何処から掃除するべきかと気が遠くなる。慧玲が袖をもちあげて、布条を掛けた。
「一緒にやりましょう」
「いえいえ、慧玲様はちょっとやすんでいてください。私、掃除だけは昔から得意なんですよ。……さすがに狸の房屋を掃除したことはありませんが」
「あら、私も掃除は得意ですよ」
これでは眠るに眠れない。埃を掃いて、蜘蛛の巣を払い、狸の糞が溜まっていたので全部掻きだし、綺麗になったところで邸に訪ねてきたものがいた。
女衆だ。こんな時間帯に何の用だろうかとおもったら、慧玲が表にでるなり、いっせいに頭をさげてきた。
「お願いでさ、料理さ教えてください」
「あんた、若いのにすごいよ。森にごろごろ落ちてるどんぐりさ、あんなに旨えなんて……考えたこともなかった」
「どうやったらあんなふうになんのか、おらたちにも教えてけれよ」
よほどに感銘を受けたのか、彼女たちの眼はすでに余所者を睨みつけるようなものではなく、純然たる敬意に満ちていた。
「もちろんです」
慧玲は残っていたどんぐりで調理の手順を彼女たちに教えはじめた。そのあいだに藍星が残りの掃除をして、秋の宵は忽ち更けていった。鐘がないので正確にはわからないが、丑の刻は過ぎただろうか。もはや早朝といえるくらいの時間帯だ。
女は焼きあがった餅をみて、ぽつりといった。
「ああ、これがありゃあ、ちゃんと御乳さ出て、嬰孩も死なんで済んだのかなあ」
そういえば、罔靑には子孩の姿がほとんどなかった。ひとりだけ、嬰孩を抱いた母親の姿があったが……嬰孩もやつれていた。飢えも疫病も年寄と幼い子孩から順に蝕んでいくものだ。
(助けられるものは、助ける)
だがどれだけ強く誓っていても、助けられないものは、ある。
懸命に力をつくせども、人の腕は天網ではない。腕からこぼれ落ちていく命のほうがはるかに多いのだ。慧玲の母親もまた患者を助けるために大陸全土を駈けまわっていたが、息絶えた嬰孩を抱き締めた母親に「なぜ、あと一晩早くきてくれなかったのか」と責められたこともある。
「……食べてください、いっぱい」
慧玲がほかほかの餅を差しだす。
「死人には、できないことです」
ともすれば無情な言葉だった。けれど愛する子孩を喪った母親の悲しみに他人がどんななぐさめをかけても、結局は不実だ。
彼女は頬を酷くゆがめて、なにかを言い掛けた。だがぼろぼろと涙があふれだして言葉にはならず、きゅうと喉が締まった嗚咽の音だけが洩れた。
「食べなさい」
慧玲は再度、差しだす。女はこたえるかわりに震える指で餅をつかみ、かじりついた。
「旨い、旨いよお……」
女は涙と洟を垂らしながら懸命に餅を頬張った。そうすることが、せめてもの弔いだといわんばかりに。
◇
女衆が帰って落ちついてから、藍星が盆を運んできた。
「お疲れ様です、慧玲様」
茶杯を差しだして、微笑みかける。瞳の端にある星のような泣きぼくろに影が落ちた。
「薬茶を淹れました。ひと息ついてから、今晩は……というか朝ですけど、ちょっとでも眠りましょう」
「ありがとう。藍星もお疲れ様でしたね」
房屋の掃除もすっかりと終わっていた。これだけの面積を短時間で綺麗に清掃できるのだから、かなり手際がよい。
慧玲は有難く、茶杯を受け取り、唇を浸した。
想わず眉をひそめる。吹きだしそうになるのをぎりぎりで堪えた。
(……まっず! 苦いやら酸っぱいやら。しかも、なんだか生臭いし……なにをどんなふうに淹れたら、こんな毒々しい味に……)
ひと言でいえば、生ごみを搾ったような御茶だ。
「どうですか! 蒲公英の根を乾しておいたんですよ。ついでに薬になりそうなものをたっぷり淹れました! 玄酢とか梅干とか卵黄とか蜂蜜とかどんぐりとか!」
「今度、蒲公英茶の淹れかたを教えますね……」
こうも好意に満ちた眼差しをむけられては、不味いともいえず視線を逸らす。だが余程に自信があるのか、藍星は続けて「合格ですか?」と身を乗りだしてきた。
「………………藍星も疲れたでしょう。ぜひ飲んでみては?」
「いいんですか! それじゃあ、いただきます……ぶっは、まずっ」
口に含んだ瞬間に藍星が盛大に噎せて噴きだす。さながら鯨の潮吹きを想わせる勢いだった。






