4 四肢から梅の咲きこぼれる妃嬪
華の舞姫は荒んでいた。
春の宮の一郭にある雪梅嬪の房室を訪れた慧玲は怒声に迎えられた。
「苦いのよ! 飲んだところでどうせ治りはしないくせに!」
「で、ですが、雪梅様! こちらは医官が希少な植物の根を取り寄せ、煎じた薬湯で」
「要らないといっているのよ!」
雪梅嬪は喚きながら、盆を差しだす女官の腕を払い除けた。盆が傾き、急須が落ちる。割れた急須から薬湯があふれだして、紅葩が散らばった床を濡らした。漢方薬の臭いが梅の香とまざり、噎せかえるほどに充満する。
梅――そう、梅だ。
綺麗に整えられた房室のあちらこちらに紅梅の葩がこぼれていた。さきほどの梅の香はここから漂ってきたものだろう。
(さながら、花に嵐だ)
春分をすぎ、後宮の梅は散っているはずだ。葩だけではなく莟もある。これらの梅は何処からきたのか。
「……ああ、今度は食医なのね」
倚子に腰掛けていた雪梅嬪は慧玲に視線をむけ、あからさまにため息をついた。
「小鈴、喉が渇いたわ。茉莉花茶を淹れてきて」
「承知いたしました……」
小鈴といわれた女官は雪梅嬪の機嫌をこれいじょう損ねないうちに房室を後にする。慧玲とすれ違うときに小鈴が気まずそうに一揖した。「雪梅様のことをお願い致します」と頼むように。
あらためて慧玲は雪梅嬪にむきあった。
春の宮に常咲の梅がありと語られるだけあって、雪梅嬪は妃妾たちとは比にならないほどに婉麗だ。燃えさかるような真紅の羅綾を気後れなく纏えるのは彼女くらいのものだろう。煙る睫毛に濡れた丹唇。艶やかな髪は絹糸を想わせ、日頃から余念なく手を掛けられているのがわかる。爪の先端までもがみがきあげられ、華やかな紅が挿されていた。病に侵された身であるにも拘らず、だ。
「貴女が後宮の食医ね。なんでも奇しき病をたちどころに癒す薬を調えたとか」
「慧玲にてございます」
雪梅嬪は慧玲を睨みつけ、ふんと唇をとがらせて笑った。
「渾沌の姑娘――なんですってね。なんていとわしい。貴女のようなものが何故、末端とはいえ妃妾のひとりとして後宮にいられるのかしら」
食医という肩書はあるが、慧玲はあくまでも《後宮の食医》にすぎない。
食医とは皇帝や皇后の食を司る高位の医官である。
食は体の基礎を造る。調和の取れた食は健康をもたらし、偏った食は病を招きいれる。食によって免疫を調えるのが食医の役割である。
だが皇帝のいないこの後宮で食医という役職を与えられ、さらに患者にだけ薬膳を処方している段階で矛盾があるのだ。
よって、慧玲の公式な位は妃妾の最下位たる正八品・婇にあたる。
「ああ、陛下の姪だから、ご慈悲を賜ったのね。ほんとうならば、死刑だもの」
(……こういうときは反論するだけ、徒だ。実際、陛下が私に利用価値を見いださなければ、今頃は頚が身体からさよならしていたし)
慧玲がにこにこと黙り続けていると、雪梅嬪はひとりで毒づくのが馬鹿らしくなったのか、またひとつ嘆息してからいった。
「おおかた、女官の誰かに依頼されたのでしょう」
嬪である彼女には九名の女官がつかえている。美人に属する女官が二名であることを考えれば、如何に高位かが伺える。なお、慧玲のもとに薬の依頼にきたのはさきほどの小鈴という女官だった。
「薬が苦いと仰せでしたが」
「なによ、私に説教でもするつもり? 苦いばかりで効きもしないのが悪いのよ。あんなものは毒と変わらないわ」
「仰せのとおりでございます。舌に苦く感ずる薬は、貴女様の御身に適していないのです。舌に楽しくあらねば、薬とは申せません」
実際、漢方薬は患者に適していれば、如何に苦い植物をつかっても旨く感じるという。
雪梅嬪はふうんと瞳を細めて、ちょっとばかり気を好くする。
(もっとも)
慧玲は壊れた急須に視線をむける。
薬湯からは強い甘草の香りが漂ってきた。甘草は根に砂糖の百倍ものあまみ成分を有する植物で、おもに薬の味を調えるときにつかわれる。医官は雪梅嬪が苦みを嫌がることを懸念して、可能なかぎり飲みやすい薬湯にしていたのだ。
(それでも苦いということは……薬があわないばかりではなく、他にも原因があるはず)
彼女を侵す毒疫の影響か。あるいは。
「まあ、いいわ。どうせ貴女にもこの病は治せぬでしょう。宮廷で最も腕のいい典医もとうに匙を投げたもの」
雪梅嬪は襦裙のすそを摘まみ、するりとたくしあげた。慧玲が息をのむ。
梅だ。
しなやかに引き締まった脚からは紅の梅が咲き群れていた。
八重の葩に飾られた黄色の雌蕊が歌うようにそよぎ、馥郁たる梅の香を振りまいている。眩暈がするほどに華やかで、それゆえに残酷だった。
梅枝は人肌を突き破り、伸びている。脚頚から先端は硬い木膚に覆われ、梅の枝とも根ともつかないものになりかわっていた。
あらためてみれば、手指の爪を飾っていたのも端紅ではなく梅だった。
異様だ。
それでいて、彼女を侵す病は――美しい。
「毒疫、というのでしょう」
雪梅嬪は強張る唇の端だけを微かに持ちあげた。死の恐怖にさらされながら、無理して気丈に振る舞っているのがわかる。
「まずは触診を。失礼致します」
木膚に侵食された肌はごつごつとしていて梅の幹の質感そのものだった。到底人の一部だとは想えない。枝に貫かれた肌には傷らしきものはないが、柔らかな肌の裏には硬い木の根が張っていた。根の脈は動脈と重なっている。あるいは動脈に根が通って、血を吸いあげて紅い梅を咲かせているのか。
慧玲の頭のなかで竹簡が解かれる。白澤の医書だ。そのなかに――人の身に葉が繁り、花が咲きみだれる――という叙述があった。木の毒によく知られている症例で、他には喉から花をはきだす、涙が葩になるという患者もいた。
「《木の毒》ですね」
「ふうん。診察するまでもないわね。そのくらい、私にも解かるわよ」
「さすがです。仰るとおり、地毒とは意外にも解かり易いあらわれをなすものです」
続けて脈を取る。脈には珠が転がるような拍があった。慧玲は微かに眉の端を持ちあげる。これはあることを表す脈拍だ。だとすれば、甘草を苦いと拒絶したのも頷ける。頭のなかであれこれと思考しながら、慧玲は喋り続けた。
「もっとも、ひと言に《木の毒》とはいっても、毒のもとをたどれば《木》だけが御身を害しているわけではないのです。木の根が吸いあげた《水の毒》や《土の毒》はたまた《火の毒》が絡んでいることもございます。
そうなれば、《木》に克つ《金の薬》を調えても、毒疫を癒すことはできません。難解なのは薬のほうなのです」
地毒の素とは様々だ。戦死者の血の穢れが土を毒に換えることもあれば、沼地を埋めたてた土地に暮らすことで知らず、水の毒に蝕まれることもある。前者の場合は土の毒に金の毒が加わり、後者は沼の汚泥を表す土の毒が含まれる。
先人は宣った。
〈治病求本――病を治するには必ず本を求む〉と。
「ゆえに毒のもとを解かねば、解毒もできかねます」
それもまた毒の理だ。
「地毒、ね。そもそも地毒とはなんなの。毒ではないものがどうして毒に転ずるのよ」
慧玲が触診していた指をとめた。意外だったからだ。
地毒や毒疫は人知の及ばぬ現象だと恐怖し、端から理解を放棄するものばかりで、理窟を尋ねてきた妃妾はこれまでいなかった。
患者にとっては、治るのか、治らないのか、だけが重要だからだ。
「失礼ながら、雪梅嬪は、毒とはどのようなものだとお考えですか」
慧玲は嬉しさを隠せず、瞳をつうと細めた。
「なぜに毒は毒なのか」