39 毒となれ
なんでこんなことになってしまったのだろうか――
慧玲は青ざめながら凍てつくような雪花石膏に額をつけていた。視線をあげることもできない。
「聴こえなかったか」
髭をなでつけながら皇帝がいった。
「今一度、問う――白澤の叡智で毒を調えることはできるか」
…………
……
あの後、藍星はすぐに意識を取りもどした。
虫嫌いの藍星に蟬の抜け殻いりの篭を持たせるのは酷なので、仕事は終わりということにして別れた。女官は妃妾と同じ宮で暮らすものだが、離舎は房室がひとつしかないので、藍星には宮から通ってもらうことになる。
離舎に帰ると貴宮の使者がいた。皇后陛下が御呼びですと促されて貴宮に渡ったところまではよかった。
あろうことか、皇帝がまち構えていたのだ。
それだけでも息が詰まったというのに、皇帝からの依頼は予想をはるかに超えたものだった。
(私に、毒を作れ――だって? どうなっているの)
皇后は横で睫毛をふせて、黙している。いかに寵愛を享ける皇后とはいっても、皇帝の選択に異を唱えることはできない。
「毒は薬、薬は毒であろう。毒をもちいて国境まで進軍してきた敵軍を斥けたい」
先帝がいなくなってから、領土を奪おうと侵略してくる敵国が増えたという話は宦官たちの噂から聞き及んでいた。
(昔から戦争に毒はつきものだ)
それゆえにかつては、皇帝に服する毒師の一族がいた。
だが先帝は、毒をもちいることを是としなかった。
如何に優秀な毒師といえども、毒は制御できない。時として毒は味方、或いは剣を握らぬものまで無差別に害する。また勝敗が分かたれた後にも不要な禍根を残すこともある。
(毒をもって得たものは毒になる、毒矢で猟った鹿が食材にならぬように――)
頭のなかで声がする。敬愛する母親の声だ。白澤の知識はすべて、その声をともなって頭のなかに録されている。
先帝は白澤たる母親にどうするべきかと尋ねたという。
そのとき、母親が語ったのがいまの言葉だ。先帝はそれを受け、連綿と続けられてきた毒師の一族との因縁を絶った。
慧玲に毒の依頼――ならぬ命令がくだるということは、先帝の死後も毒師との復縁は望めなかったということだろう。
「是か非か」
命令。そう、これは命令だ。是と肯うほかにはない。
(死にたくないのならば)
地につけた指が凍りついた。
先帝が毒師との縁を絶ったことを話したとき、母親は最後に微笑んだ。
(――誇りなさい。貴方のお父様は、そのような御方です。そして貴方はその姑娘なのですよ)
唇をかみ締めてから、慧玲は声をあげた。
「毒を調えることは――――できかねます」
皇帝が白髪まじりの眉をはねあげる。
慧玲は緑の瞳をあげ、皇帝を振り仰ぎながら続けた。
「非礼は承知です。陛下の勅であろうと、こればかりは譲れません。許されぬのならば、この場で」
ごくと喉が一瞬だけ、締まった。声の端がみっともなく震えている。
「死刑に、処してください。私は《薬》のままで死にます」
毒に転ずるな、薬であれと望んだのは皇帝だ。さあ、どうするか。慧玲は一縷の望みに賭けるような想いで、皇帝に臨んだ。
皇帝は沈黙を経て、緩やかに唇を割った。
「敏い姑娘だ。そなたが是といえば、そのときは真に処さねばならぬところだった」
つまり、皇帝は慧玲を試したのだ。
自身は毒ではなく薬だと宣言した彼女の意志を。
皇帝に命じられて毒を調えるのならば、他の者に影響されて毒となる危険もあるだろうという警戒心の強い皇帝らしい試しかただった。
「ふふふ、陛下ったら。慧玲を虐めないであげてくださいな。慧玲はね、とても有能で、不器用で、誠実で可愛らしくて……妾のたいせつな食医さんなんですよ」
皇后は鈴を転がすように微笑んだ。
(寿命が縮んだかとおもった……)
「それでは本題に移ろう」
まだ本題があるのか。
慧玲は緩みかけた緊張を再度、張りつめた。
「都からやや離れた東部の罔靑という農村で、奇しき病の報告があった。東部ではかねてから悪天候と穀物の凶作が続いている。おそらくは地毒による毒疫であろう。毒疫は感染しない――そのはずだ」
「仰せのとおりです」
慧玲は頭をさげ、肯定の意を表す。
「調査に赴いた者は全員奇しき病を患い、命を落とした。もっともそれだけならば、現地で地毒に触れたと考えられる。だが一部の患者と接触した家族、知人にも感染者がいたのだ」
異例だ。毒疫が人から人に感染するというのは白澤の書にも記されていない。毒疫が進化を続けているということなのか、あるいは。
「今後、都に毒疫がもちこまれ、蔓延する危険もある」
都で毒疫が蔓延すれば、由々しき事態となる。
「ゆえに蔡 慧玲に命ずる。罔靑に赴いて調査し、農村の患者を解毒せよ。感染の拡大を阻止するのだ。これならば、薬たるそなたに適した務めであろう」
「謹んで御受け致します」
慧玲は肯った。
後宮どころか、都から離れたところで働くことになるとは想像だにしていなかったが、望まれているのは薬だ。それならば、力を発揮できる。
「くれぐれも素姓は隠し、宮廷医として振る舞うように。現地までは馬車で赴くことになるが、到着後は護衛がつけられぬ。先帝の姑娘であることがわかれば、そなたを暗殺せんとする者がおらぬとも限らぬからな」
「承知いたしました」
従順に頷きつつ、考える。
(後宮のなかでも何度も暗殺されかけているし、そもそも表では先帝の姑娘は処刑されたことになっているのだから、いまさら名乗ろうものならば、嘘つきか、死鬼だな)
どちらも勘弁願いたい。
皇后が心配そうに眉を垂らす。
「ひとりだと心細いでしょう? 御供に女官を連れていってね」
「藍星を、ですか」
「ふふふ、なかなかに可愛い姑娘さんだったでしょう。あなたと齢のそう離れていない女官を選んだのよ。なかよくなれそうかしら」
「さ、左様でしたか。御心遣いを賜りまして、なんと御礼を申しあげていいのか。とても心優しい女官で……その、はい」
愛想笑いで頭をさげた。
田舎は虫だらけだが、藍星はだいじょうぶなのだろうか。毎度気絶されては調査や調薬どころではなさそうなのだが……慧玲の懸念をよそに、皇后は「よかったわあ」と満足そうに頷きながら微笑んでいた。