３６ ふたりを結ぶは天毒の縁
「三年前に毒を盛られるまでは」
鴆が瞳をとがらせた。
「毒、ね。貴女の母親は白澤の一族だろうに」
そうだ。先帝が豹変したとき、白澤たる皇后はすぐにそれが毒によるものだと理解した。慧玲は今際まで知らされていなかったが――
「おまえ、魂を壊す毒というものを知っている？ 父様が盛られた毒は、それだった」
鴆はすうと眸を細めただけで、肯定も否定もしなかった。おそらくは毒師の禁に触れるものなのだ。
「なぜ、今、僕に話した」
「暗殺者から助けてもらった。毒を貰った――その御礼にふさわしいとおもって」
緑の袖を風に遊ばせて、彼女は振りかえりざまに微笑んだ。微かに睫毛をふせて。
「おまえにあげられるものなど、わたしには、ほんとうにないの。だから、秘する華をひとつ」
それは彼女の命を賭けた秘密だった。
だから、これまで慧玲は、それらの真実を胸のなかだけに収めてきた。
「……誰に盛られたのかは、解っているのか」
「さあ。皇帝を怨むものなど、いくらでもいるでしょう。捜したいとおもったことはあるけれど、諦めた。すべて終わったことだから。その者を殺したところで、父様は帰らず、母様も息を吹きかえすことはない」
意外だったのか、鴆は眉の端をあげた。
「怨まないのか」
「怨む」
慧玲の声は重かった。
「いまだって、考えるだけで身のうちが燃える。でもあれは、私だった」
声の端が震えた。燃え落ちたふたりの死に様を想いだすだけでも脚が竦む。
「怨みを絶たずに凬は死に進み、依依は万物を呪いながら死に絶えた。私はふたりの最期を瞳に灼きつけて、ああ、あれは私だ――と想った」
ひとつでも選択を誤ったら、彼女もまた燃えさかる地獄に落ちていく。
「私はまだ、死刑になるわけにはいかないの」
瞳のなかで怨嗟が燃えさかる。
だがその昏い火群は今、彼女自身を燃やすばかりだった。それでいい、そうでなければならないのだ。さもなければ、毒に喰われる。
「解かねばならない毒が、あるの」
華やかに微笑を重ねた。
「復讐ではなく？」
「莫迦ね。私の復讐は、薬で為すものよ。毒ではなく」
喋りながら、慧玲は歩きだす。笹を揺らすと火垂が惑う。わざと緑の火を散らして、彼女は躍るように林を進んだ。
「天毒地毒という言葉は知っているでしょう？ ふたつの毒はかならず、相そろって生ず。でも昨今は地毒ばかりが騒がれていて、天毒については語られていないの」
「天毒は視えないからね。そもそもなにを天毒というのかが不確かだ」
地毒は万象が毒に転じたものを表す。ならば、天毒とはなにか――伝承にもほとんど記されていなかった。
進んでいったさきには、細流があった。火垂の群が乱舞しているためか、瀬は光を帯びている。慧玲は靴をそろえて、素脚を浸けた。
「私は、運命を害すものが天毒だと教わった」
水を蹴って、星屑のような雫を散らしながら彼女はいった。
「運命を害す、ね。雲をつかむような言葉だ」
「そう？ 星の循り、天の循りというものはある。風水師はそうしたものを重んじるんじゃないの」
「僕は贋物の風水師だからね、それに星を読むのは占星術師の役割だ」
鴆は肩を竦めてから、青竹に縁どられた満天の星を指す。降ってきてもおかしくないほどの星だった。燃えるように瞬くのは熒惑か。
「天の循りは万物に影響を与える。吉ならばいいけれど、凶となれば、逢わざるべきものが逢い、速まるべき時期が後れ、小難で終わるべきものも大難になる……昔からいわれていることよ」
思いあたるところはないか、と彼女は眸をすがめた。
「山脈の火禍か」
「昊族の集落を燃やした火は、些細な事故だった。誰かが速やかに鎮火できていれば、例年どおりに雨が降っていれば、昊族の集落の側でなければ、毒の大火にはならなかった。けれど、最悪なことに不運は重なった。その後、凬が後宮にあがれたのも……彼女は幸運だったといったけれど、あきらかな悪運よ」
天毒は誰知らず、滴々と穹蓋より垂れる。
万事始まりは觴より濫ると昔人は宣った。滴り続けた天の毒はやがて、剋を亡ぼす激流となるかもしれない。
「私は天毒地毒を絶ちたい。先帝が振りまいたわけではなくとも、先帝の死がもとになったことは確かだから」
「それは……《渾沌の姑娘》としての責任か」
「《白澤の姑娘》としての責任よ」
彼女は薬であることを誇る。ともすれば、縋るように。その誇りひとつを損なえば、崩れてしまうからだ。
鴆は視線を遠くに放つ。
「それにしても……逢うべきではないものが逢う、ね」
紫の双眸を細めてふっと、毒っぽく嗤った。
「まるで僕等のことみたいじゃないか」
毒と薬。逢ってはかならず縺れる縁だ。
然れども、天はふたりの縁を結んだ。
うす昏がりのなかでふたりは静かに睨みあった。透きとおるような緑の瞳と、陰に濁る紫の眸が重なる。紫は毒を暗喩する色だ。だが遠き異境では毒は緑をもって表すとか。喰らうのはどちらか。喰われるのはどちらか。
何処からか、蜩の声がした。
絡めていた眼差しを解く。視線を落とせば、日陰に鳥兜の莟があった。まだ緑がかった白い莟だ。
「ああ……まもなく、夏も終わるのね」
青嵐の季節は過ぎ、錦秋の風が訪う。
季節は散りし華など振りかえらず、進み続けるものだ。
そうして、姑娘がすべてを喪ったあの季節がまた循る――弔いのひとつもできぬうちに。
これにて第二部完結でございます。
ここまでお読みくださった皆様にこころから御礼申しあげます。楽しんでいただけましたでしょうか？(*^^*)
連載は一旦停止となりますが、現在第三部を執筆中です。なるべく早く……（八月中には！）連載再開させるつもりですので、どうかそれまで御待ちいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
