35 化生の悪夢
夢をみていた。
繰りかえし、慧玲を侵す悪夢だ。
夢のなかで彼女は、命からがらに逃げ続けている。雲を通して差す日は弱く、竹藪はうす昏かった。まだ夏の終わりだというのに、風が凍てつくほどに寒かった。慧玲は裸足だった。笹が足裏に刺さって血潮が滲んでいる。それでも息をきらしながら、彼女は駈け続けた。
背後を振りかえれば、化生がせまってきていた。
熊とも虎ともつかぬ躯に鋼鉄の爪を振りかざして。顎からぼたぼたと涎を垂らしながら、それは人の言葉で呻いた。
「喰ろうてやろうぞ……そうだ、喰らうのだ……今晩こそは」
悲鳴をあげ、慧玲は喰われまいと懸命に地を蹴る。だが草の根に足を取られて、転んでしまった。飢えた虎を想わせる荒い息が、項に掛かる。
喰われる――そう想ったのがさきか。
化生は頭を抱えて、よろめいた。強い毒にでも侵されているかのように喉を掻きむしって、苦しみだす。
「ああ、貴様さえ殺せば……殺せれば、このようなことには」
化生が、泣いている。
実際のところは解らない。なにせ、それには眼も耳も鼻もないのだ。だが慧玲はそう感じた。泣き続ける化生が哀れでならず、彼女は想わず、腕を差しだす。
途端に化生は頭を振りかぶり、咬みかかってきた。
――しまった。今度こそ殺されると身を硬くした、そのときだ。
何者かが割りこんできた。
「母様――――!」
悲鳴をあげ、夢が破れる。
……
「はあ……はあ……また、あの夢」
醒めれば、無人の房室に月が差し渡っていた。静かな夜陰に視線を馳せて、乱れた呼吸を落ちつかせる。
眠りの底で繰りかえす――あれは、昨年の晩夏のことだ。
先帝が壊れてから、母親と慧玲は離舎に軟禁されるようになった。
先帝が離舎を訪ねるのはきまって、月のない晩だった。
母親は毎度、慧玲を唐櫃に隠しては外側から鍵をかけた。姑娘を護るために。櫃には僅かにすきまがあって、彼女はそこから覗いていた。壊れたように母親を殴りつける父親の姿を。人の魂を損なった父は、次第に人の姿から遠ざかっていった。もっともこれは、慧玲の瞳に映る姿にかぎる。……ほんとうに虎にでもなっていたら、まだこの話には救いがあったのだ。
(もう、父様がどんな顔をしていたのか、かけらも想いだせない。想いだすのはただ、禍々しい化生の姿だけ)
それまで先帝が真昼に訪れることは、一度もなかった。
だから母親は、時々薬草を摘みに出掛けた。先帝に負わされた傷を癒すための薬草だ。慧玲は母の帰りを待っていたが、突如扉が剣で斬り裂かれ、先帝が侵入してきた。姑娘たる慧玲を殺すために。
間一髪、間にあった母親が身を挺してかばったことで、慧玲は命拾いをした。だが母親はわき腹を剣で斬られ、酷い傷を負った。
貴様さえ殺せれば――あの言葉がいまだに喉を締めあげる。慧玲があの時、父親に殺されていれば、先帝は死刑などにならなかったのだろうか。
(覆水難収……考えるだけ、むだなこと)
頭に絡みつく毒のような思考を振りはらうため、慧玲は表にでた。
風鈴ではなく青笹を奏でて、涼やかな風が渡っている。
よき呼吸は調合の要らぬ薬だ。大気の循環は身のうちを清浄にし、こころを静めてくれる。
「……今宵は月が蒼いね」
物音ひとつさせずに鴆が屋頂から降りてきた。
「なんでいつも涼しい顔して、うちの屋頂にいるの、おまえ」
「獲物を横取りされたくはないからね」
「人を、鹿か雉みたいにいってくれるのね」
慧玲がため息をついた。
縁側に腰かけて、視線を遠くに馳せる。風が吹きつけると、篠笹の繁みから緑火が舞いあがっては落ちる。刹那に燃える、命の火だ。火垂にかぎらず、命とは果敢ないものだ。散るとわかって咲き誇り、死にむかって息をする。哀しいほどに熱く。
「先帝が死んだ晩に」
沈黙を経て、慧玲は言葉を紡いだ。禁じられた書を紐解くように慎重に。
「――麒麟の死をみた」
鴆が凍りついた。
これは、それほどのことなのだ。
先帝が戦争を繰りかえして悪政を敷いたことで、地毒の禍が訪れたと考えられているが、真相は違う。地毒の原因となったのは麒麟の死絶、だ。
「麒麟は陰陽の根に通ずる。人と天地の調停者にして、万物の統制者。護り神を喪ったことで万象の調和が崩れ、剋は衰退にむかっている」
「……それがどういうことか、解らないはずはないよね」
慧玲は沈黙で肯定した。
麒麟は永命だ。正統な帝が継承するかぎり、麒麟は幾千年でも国を護り続ける。麒麟が死を迎えたということは、皇帝になるべきではないものが帝の座に就いたことを示唆する。それは現皇帝にたいする糾弾と否定に等しい。公言すれば不敬どころか、反逆者として死刑にされかねなかった。
「先帝は武勇に優れ、人徳を備えた賢帝だった」
先帝は武をもって大陸を統一することで、長きに渡る戦乱を終わらせた。争いを好む覇者だと彼を畏れるものもいたが、姑娘に語りかける声は穏やかで、静かに大地を潤す水脈を想わせた。
慧玲は父を敬愛していた。
「三年前に毒を盛られるまでは」