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33 食医の姑娘は祈らない

 夏の庖房くりやは尋常ではなく暑い。

 朝から晩までかまどを燃やして調理をしているからだ。


 慧玲フェイリン庖房くりやについたとき、木箱に詰まった食材が担ぎこまれてきたところだった。慧玲が皇后に頼み、取り寄せてもらったものだ。木箱からつぶつぶがびっしりとついた塊を取りだす。しっかりと乾いている。すぐに調理に移れそうだ。


「……ね、なんなのよ、それ」


 女官が喋りかけてきた。意外だ。宴の食事を用意した時と同様、無視されるものとおもっていた。


「こちらは草實仔アイギョクシという果実です」

「果実! こんな、いぼいぼの束子たわしみたいなものが?」

「ええ、無花果イチジクのようなものを裏がえして乾燥させたもの、とおもっていただければ」


 果嚢かのうから種子のつぶをこそぐように取る。集めたつぶを真綿の布でつつんで、水を張った鍋に浸けた。


「こうして水のなかで揉み続ければ……段々と」


 おかしい。ほんとうならば、果実の繊維がとけだして、水がぷるぷるとかたまってくるはずなのに。


「なによ。なにも変わらないじゃない」


 女官があきれたとばかりに離れていった。


(……何が足らないの)


 母親にして師が、この果実をつかって調薬していたときのことを想いだす。

 薬に重要なものは何か解りますか――母親に尋ねられて、慧玲が答えられずにいると彼女はこう続けた。


 ――水ですよ、水は万物のみなもとです。この地域の水を飲んでごらんなさい。硬いでしょう。ですが都の水は軟らかい。おなじように調理しても、水の質によって穀物の食感、香、味わいには違いが現れます。


 水の質を考慮すること。想いかえせば、他の地域では母親はこの果実を調理することはなかった。


(……水か!)


 都の水は湖からの疏水だ。舌触りが軟らかく、穀物の調理、淹茶えんちゃに適している。だが、おそらくは向かないものもある。

 だがどうすれば、硬い水を調達できるのか。


(かためるといえば……例えば、豆乳をかためて豆腐にするときにつかうのは石膏だけれど、あれは臭いがつよすぎる。となれば、にがりか)


 だが、にがりは海水から塩を造る際に取れる副産物だ。海から取り寄せなければならない。他の物で硬水を造れないものか。


(そうだ。あれだったら)


 あることを想いつき、慧玲フェイリンは庖房から飛びだしていった。

 遠くから慧玲の様子を伺っていた女官たちがひとり、またひとりと、木箱を確かめに集まってきた。風変わりな果実を覗いて、疑わしそうに眉を寄せる。女官のなかには火傷があるものもいた。


「妃妾様たちの火傷の薬を造るんだって」

「……ね……、しちゃおうよ」


 声を落として囁きあいながら、彼女らは木箱の中身を取りだした。


 

      ◇

 


 あるじのいなくなった夏の季宮ときみやは、風鈴の音だけが韻々(いんいん)反響ひびき続けていた。

 季妃きひつきの女官も新たな夏妃かひが選ばれるまではいとまをもらっているのか、閑散としている。家畜も都に売られていったようだ。

 フォン妃の暮らしていた房室へやを覗く。夏風がさあと吹きこんで、青の袖がはためく。一瞬だけ、「食医!」という凬妃の溌剌はつらつとした声が聴こえたようで、慧玲は瞳を細めた。

 最後まで怨み続けるといった彼女のことを想う。


(毒を喰らわば……か)


 皇帝がいなければ、ふたつの部族は和解できたと彼女は語ったが、所詮は理想に過ぎない。せかいは、そんなに単純には廻らないものだ。

 彼女はハオ族を愛し、クン族も愛した。どちらも怨みたくなかった。

 だから、他に怨めるものを捜しただけだ。


(いつだったか、父様が宣われた。政とは毒を喰らいながら執るものだと)


 真意の解らぬ腹心にかこまれ、民衆に真綿の縄をかけて操り、情けを絶ちて、私欲を棄て。愛するものを殺さねばならぬこともあろう。望まぬものを欲さねばならぬこともあろう。ひとつを助ければひとつを殺すことになるとしても、最も犠牲の少ない道を選び、呵責という毒を敢えて飲みくだす。民の希望を呑み、怨嗟を呑み、不満を呑み、敬愛を呑み、すべてをたいらげるのが皇帝の器だ。


(毒を喰らいて、薬と為せ。それが父様の言葉だった)


 政はまさに毒を喰らうに等しいものだ。


 だが、いかに堪えがたくとも、飲んだ毒を喀いてはならない。その言葉で、その選択で、民を、国を毒することなかれ――と。


 だが彼は毒を喀き、みずからの言葉を嘘にした。


(新たな皇帝は、どうだろうか)


 徹することができるのか。

 毒の火は山脈を焼き続けている。じきにクン族からも不満の声があがるだろう。後宮の火の毒は、飛火とびひに過ぎない。


(それでも私はいま、私にできることをするだけ)


 凬妃の房室を後にする。続けて、依依イーイー房室へやにむかった。われながら不躾だと想いながら、文卓の抽斗ひきだしを漁る。

 依依イーイー。彼女はどちらの部族も愛してはいなかった。ただ、フォンを愛していた。だから彼女が怨むものを怨み、彼女が愛するものを愛そうとした。


(彼女から凬を奪ったのは皇帝でもなければ、皇后様でもない……凬はただ、自身の怨みの毒に喰われた)


 怨みは毒だ。だがその毒は、時にあまやかに感じるものだ。


「……あった」


 抽斗の端にクン族の耳飾りが転がっていた。慧玲はそれを握り締め、庖房くりやにひきかえす。


 ふと微かにハイタカの声が聴こえた。振りかえれば、房室へやの端に鳥籠が置かれていた。捕らえられた鷂は衰弱して、息も絶え絶えになっている。飢えて息絶えるのがさきか、処分されるのがさきか。


「ふたりの魂を故郷に還してあげて」


 慧玲は竹で編まれた篭から、鷂を解きはなつ。

 鷂は警戒した様子で頭だけを外にだしていたが、よたつきながら翼を拡げた。風をつかんで夏の晴天に舞いあがる。


 慧玲は死者に祈る言葉を持たない。

 母親が命を絶ったときも、父が処刑されたときもそうだった。だからせめて託す。


 鷂は最後にひと声囀って、青に融けた。


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