30 怨みの毒は燃えさかる
緩やかな瞬きを経て、凬の双眸がごうと燃えあがった。
「一族と山脈を焼き、ふたつの民族の希望を絶った皇帝を、アタシは許さない。なんにもなくなっちまった。家族も、故郷も。産まれたばかりの嬰孩だっていたのに。せめて鷂だけは、と逃がしても煙にまかれて、ほとんどが落ちた。許せない……許すものか」
凬妃が呻いた。血潮を喀くように。
理解できない、はずがなかった。あれは慧玲の胸でも絶えず、燃えさかる怨嗟の焔だ。
「ですが、あれは事故だった。皇帝は」
「いいや、火が熾らずとも、皇帝は昊族を民族浄化しただろう」
凬妃は言いきる。
「皇帝の関与によって、もとから険悪だった坤族と昊族の関係が完膚なきまでに崩れた。昊族は皇帝に服った坤族を許さないし、坤族は後ろ盾を得たことで昊族にたいする弾圧を強くする」
もう終わりだと彼女はいった。皇帝が終わらせてしまったのだと。
「燃えあがる昊族の集落から逃げ延びたアタシは髪をそめ、坤族の振りをして、坤族の集落に紛れこんだ。昊族はひとつの集落に集まって暮らしているが、坤族は遊牧の民だ。幾つかの集落に分かれて暮らす。だから、アタシひとりが紛れても、ばれなかった。すべては皇帝への復讐を果たすために。幸運にもその好機はすぐに巡ってきた」
そう、幸か、不幸か。彼女は皇帝への貢ぎ物として選ばれ、後宮に迎えられることになった。
「後宮に入ってすぐ御渡りがあったが……皇帝は、殺せなかった。かの皇帝はずいぶんな臆病者でね。閨にも衛官をつける」
「だから、罪もない皇后陛下を狙ったのですか」
愛するものを焼かれるという同じ絶望を、皇帝に味わわせたかったのだろうか。
凬がひくりと頬を強張らせた。
「はっ、冗談じゃないよ。あれは、化生だ」
想像だにしなかった言葉に耳を疑う。
「どういうことですか」
「……アタシが教えたところで、おまえさんは信じやしないさ」
諦めたようにいって、凬妃は頬に張りつく髪を払いのけた。
「それでどうするんだい。罪を糾弾してアタシを死刑にするかい」
「それは、私の為すべきことではありません」
慧玲は静かにいった。
「だったら、なんできたんだい」
「私は食医ですよ。あなたを解毒しに参りました」
慧玲は鳥篭の裏に隠していた薬を差しだした。
重箱に収められているのはアボカドの唐揚げだ。凬妃の微熱は、あきらかに毒によるものだった。だが、まだ触れたものを燃やしつくすほどには、侵されていないはずだ。
「怨みとは人が持ちうる最も強い毒です。あらゆる毒は薬に転じますが、怨みの毒だけはいかにあろうと薬にはならない――ましてその毒は、あなた自身を蝕み、喰らう毒です」
慧玲も毒に喰われそうなときがある。
だから凬妃には、毒に喰われてほしくはなかった。
「お前さんは……罪人にも薬を差しだすのか」
凬は眉を寄せながら哀しげに微笑んで、薬を受け取った。重たくなった髪からほたほたと濁った雫を滴らせて、彼女は項垂れる。
だが後悔をにじませたのはその一瞬だけだった。
胡服の筒袖を振って、凬は重箱ごと薬を投げすてた。
慧玲は声ひとつあげなかった。きっと、こうなることはわかっていたからだ。ただ、瞳を細めて、凬の選択をみていた。
「毒したものは毒されてしかるべきだ。だから、薬は要らないよ」
何処までも穏やかにそういって、最後だけ、彼女は哀しいほど強く声を張りあげた。
「アタシは、永遠に怨み続ける――!」
捕吏が押し寄せ、橋を取りかこんだ。鴆が報せたのだ。捕吏は凬妃の髪をみて、わずかに戸惑った。
「凬妃、皇后暗殺の疑いで捕縛いたします。御同行を願います」
そのときだ。依依が隠しもっていた笛を吹いた。立ち続けているのがやっとなほどの旋風が吹きつける。捕吏たちが竦む。燃える黄昏の雲を破って、とてつもなく大きな双翼を携えた鷂が現れた。
大鷂は凬の服をつかみ、舞いあがった。
凬は想像だにしていなかった事態に戸惑っている。依依が捕吏に取り押さえられながら、叫んだ。
「凬様、どうか御逃げください! 貴女だけが、わたしの希望なのですから――」
依依は声をしぼりだす。滅びた部族の最期の生き残りだからというだけではない。依依にとっては、凬だけが希望だったのだ。
突如として凬が燃えあがった。
誰もが一瞬、なにが起きたのか、理解できなかった。
慧玲だけが嘆いた。
(ああ、火の毒だ)
燃える火群が凬の身を緩やかに包みこむ。
紐が燃えおちたのか、結わえられていた髪が解けた。紅の髪が、熱風に捲きあがる。その様は翼を拡げながら、緩やかに失墜していく火の鳥を想わせた。
さながら、朱雀の、死だ。
凬は悲鳴をあげなかった。毒するものは毒されるべきだ。そう語った言葉のとおりに火刑を受けいれた。
絶望する依依の絶叫だけが鷂の声のように哀しく響き続ける。
大鷂は最期まであるじを放さなかった。熱に曝され、翼が燃えても、羽搏き続けた。
夏の華は燃えつきていく。ひと晩の盛りを終えた槿が凋むように。
水鏡に映る火の華は眩むほどにあざやかだった。
斯くして、火の毒にまつわる事件は幕を降ろした――はずだった。
火の毒を循る事件はまだまだ続くのです……