3 華の舞姫
後宮の春は麗らかだ。
特に春の宮では木蓮や牡丹、芍薬に花桃に瑞香、棣棠、枝垂の桜が一斉に咲き群れ、風が渡るたびに馥郁たる馨りが満ちた。赤い橋が架けられた池の水鏡に映る風景は雅やかな屏風絵を想わせた。
だが春を祝賀する声は例年とは違い、疎らだった。後宮にも地毒の陰が差すいま、それも無理からぬことだ。妃嬪も宦官も総じて浮かぬ顔で、花曇りの春となっていた。
「ねえ、御存知かしら、雪梅様のこと……」
慧玲は、とある妃嬪に呼び寄せられ、春の宮を訪れていた。
春の宮は水清く花歓ぶ雅やかな殿舎である。入り組んだ水路の随処に廻廊や橋が渡され、庭を眺望できる処に水亭が設けられている。水亭とは憩いのために建てられた東屋だ。その側を通り掛かったところで、妃妾たちの姦しい声が聴こえてきた。みれば低級の妃妾たちが寄り集まり、噂話に華を咲かせていた。
ひとくちに妃妾といっても皇帝の情けを賜れる者ばかりではない。
現皇帝が即位してから六カ月、一度も皇帝と縁のない妃妾のほうが遥かに多かった。そんな彼女たちの日頃の娯楽は嘘とも真ともつかぬ噂を紡ぐことだ。
「雪梅様というと華の舞姫と称えられるあの御方ですわよね」
麗 雪梅、位は嬪。各宮を統轄する季妃に続いて高い位を与えられた妃嬪だ。
「なんでも毒疫を患い、臥せっておられるそうなのよ」
「まあ、だから早春の宴でも舞を披露なさらなかったのですね」
雪梅嬪がひと度舞を演ずれば、枯れた梅枝にも花が咲き綻ぶとまで語られ、宮廷で宴が催されると皇帝から舞を披露せよと直々に声が掛かるほどだった。
「でも、真実だとすれば、いい薬だわ」
妃妾がくすくすと悪意のある微笑をこぼす。
「彼女、気位ばかり高くって。舞が巧いだけならば芸妓と一緒だと解らないのかしら」
「皇帝陛下に気にいられているからといって、いつも私達を見くだして。ほんとうに何様なのかしら。陛下の御子を賜ったわけでもないのに」
慧玲は胸の裡でつぶやく。
(その舞ひとつ踊れないから、あなたたちには陛下の御声が掛からないのに。都合の悪いことには素知らぬふりを決めこんで、ほんとうに残念なひとばかり)
妃妾らは裏では悪態を囁きながら、雪梅嬪には媚びて、さも慕っているようにまとわりつくのだから、よけいに質が悪かった。
慧玲は陰口めいたものを好まない。
あれは実に質の悪い毒だ。有毒な生き物は、蛇にしろ蛙にしろ、自身には毒があるとまわりに表すものだ。或いは華やかに毒を誇る。
(もっとも、雪梅嬪が倒れたというのは真実だ)
今朝がた、薬を依頼してきたのは他でもなく雪梅嬪につかえる女官だった。
お喋りに夢中になっていた妃妾たちは慧玲が水亭の前を通りすぎるときになって、あっと声をあげ、あからさまに青ざめた。
「嫌だわ。渾沌の姑娘よ……なんで、春の宮に」
「しっ、聞こえるわよ」
好からぬ噂を囁きあっているときとはまた違った悪意が、じわりと滲みだす。触れては障るとでもいうような。
慧玲は頭をさげ、にっこりと微笑みかけてから水亭の側を通り抜ける。後ろで「呪われた!」と悲鳴があがり、慧玲はあきれてため息をついた。
(あなたたちなんか呪うものか。くだらない。そんな毒にも薬にもならないことをするんだったら、蛙の解剖でもしているほうがよっぽど勉強になる)
だが疎まれることには不服はなかった。先帝の咎を想えば、礫を投げつけられてもまだ易しい。
(……私は疎まれものだもの)
眼下に梅園が拡がる。
宏闊なるこの庭には二百を越える梅の木が植えられている。如月を飾った梅は綻ぶ季節を終えて新緑にかわっていた。 花の季節は訪れては、過ぎゆくものだ。
風が吹きぬけた。馨しい梅の香が漂い、慧玲は視線を馳せる。まだどこかに咲き残っている梅があるのだろうかと想ったが、あたりでは春の葉が騒めくばかりだった。