25 皇后に火の毒
笹の葉に火垂が舞う。
日が差さないからか、夏でも離舎は肌寒かった。竹敷の屋頂に土壁の、質素な離舎には風鈴もない。晩ともなれば、時々不如帰の声が聴こえるだけで、あたりはしんと静まりかえっていた。
月あかりの窓べに身を寄せて、慧玲は薬碾で植物の根を碾いていた。ふと視線をあげて、彼女は手を停める。何者かが離舎にむかってきていた。微かだが、嗅ぎなれないにおいを感じる。
慧玲は身構えつつ、戸から外を覗いた。
(誰もいない……か)
緊張を解いたのがはやいか、物陰から何者かがつかみかかってきた。悲鳴をあげるまでもなく、縄で喉を締めあげられる。
(暗殺者……! しまった)
抵抗しようと藻掻いたが、男の腕力には敵わない。毒には強くとも、慧玲はただの姑娘にすぎないのだ。意識が霞む。
そのときだ。縄が緩んで、暗殺者が崩れるように倒れた。
噎せながら、なんとか呼吸をする。暗殺者の襟もとからぞろりと、毒の蜈蚣が這いだしてきた。あれは鴆の毒蟲だ。
離舎の屋頂から鴆が降りてきた。
「彼女は僕の、だ。下等な暗殺者ごときが摘んでいい華じゃない」
鴆は草場で息絶えた暗殺者を踏みつける。
「……なぜ、私を助けるの」
「いっただろう。僕は貴女が気にいったんだよ」
彼は口の端をつりあげた。いやな予感をおぼえて慧玲は後退ったが、後ろは壁だ。真横に遁れるまでもなく、脚で退路を塞がれる。
「だったら、愛とでもいっておこうかな。女が好きなやつだよ。これだったら、納得できるんじゃないか」
麗しの風水師に湧きたっていた妃嬪たちであれば、今頃はへなへなと崩れて、魅了されていたに違いない。だが、残念ながら彼女は慧玲だ。
「まったく、これっぽっちも、納得できるものですか」
彼女は思いきり、彼のつまさきを踏みつけた。
鴆は眉の端も動かさない。革靴になにかを隠しているのか、異様なほどに硬く、慧玲が体重をかけた程度ではへこみもしなかった。悔しまぎれに腕を振りあげれば、難なくよけられた。
(……ほんとに腹がたつ)
腕をつかまれ、今度こそ捕らえられた。
「冗談はさておいて、貴女みたいな毒はそうはないからね。そこらの暗殺者に殺されるなんて、くだらない死にかたをされたくないんだよ。死に絶えるなら、その身の毒に蝕まれ、地獄の底で息絶えてほしい」
熱っぽく微笑みかけられて、毒の双眸がせまる。
愛にはほど遠い、呪詛めいた言葉だ。ともすれば、怨んでいるような。
慧玲が言葉をかえすまでもなく鴆が身を離した。誰かが笹を踏みわけ、こちらにむかっている。火垂の群を散らして、提燈が揺れた。
「騒々しい晩だね」
鴆はやれやれといいながら、暗殺者の亡骸を肩に担ぎあげ、暗がりに身を隠すようにその場から離脱した。
「蔡 慧玲」
女官だ。提燈の紋様から皇后つきの女官であることがわかる。ひどく青ざめて、取り乱していた。
声を荒げ、彼女はいった。
「蔡 慧玲、ただちに貴宮に渡れ。皇后陛下が――」
◇
貴宮に渡った慧玲は、皇后の房室に通された。
房室に踏みこんだのがさきか、慧玲は尋常ではない暑さと煙臭さに息をのむ。
大理石造の房室で何かが、青々と燃えていた。
「――皇后陛下」
裸で横たわる欣華皇后がいた。
素肌は絹のかわりに青く燃える火を帯び、うす昏がりにその華奢な輪郭が浮かびあがっている。
皇后が燃えている――女官から報せを受けたとき、慧玲はにわかには想像がつかなかった。白澤の知識としてはそのような毒があることを知っていても、実際にそのような患者を診たことはなかったからだ。
欣華皇后は息も細く、苦痛を堪えるように膝をかかえて硬く身を縮めている。あたかも燃える紙縒にでもなってしまったかのように。
房室に飾られていた月季花の葩が熱風で舞いあがった。皇后の肌に触れた葩は一瞬で燃え落ちる。おおかた纏っていた服も燃えてなくなってしまったのだろう。おそるべき熱だ。
「服から薬、飲み物まで、触れるものをことごとく燃やしつくしてしまわれるのです。水桶につかれば、すこしはやわらぐかとおもったのですが……すぐに煮え立ち、蒸発させてしまって……」
(強すぎる《火の毒》は水を侮る)
慧玲の頭のなかで竹簡がはたはたと捲れる。
火の毒疫。これには、人の身だけがこつ然と燃えてしまうものと、その者が触れたものだけが燃えあがるという二種の症状がある。前者は人体自然発火現象として記録されることもあった。
「でも貴宮に地毒が現れるなんて――いったい、なぜ」
貴宮は風水に護られているはずなのに。
(いや考えるのは後だ)
事は一刻を争う。慧玲は側にいた女官に声を掛けた。
「塩をもってきてください! できれば、岩塩がよいです」
女官が慌てて岩塩を運んできた。慧玲は塩の塊を砕き、飴だま程の大きさにしてから皇后に差しだした。
「どうか、口に含んでください」
皇后は意識がないのか、動かない。
「失礼します」
慧玲は火傷をかえりみず、皇后に触れて強引に口を開かせ、岩塩を放りこんだ。塩は燃えることがない。また温度をさげる効能もある。舌で転がしているうちに熱がさがりはじめた。
皇后が微かに瞼をひらいた。女官たちは慧玲を突きとばして側に寄り、声をかける。
「皇后様! よかった……意識を取りもどされて」
「……ありがとう。心配を掛けて、ごめんなさいね」
こんなときでも他者をねぎらう皇后の人徳に、女官たちがいっせいに涙をこぼす。
「皇后様になにかあれば、私も命を絶ちます……」
「私もでございます。どうかお側に……」
仙女を想わせる風姿に違わず、欣華皇后は慈愛にあふれている。女官たちの瞳からは皇后のためならば殉死するという強い決意が伺えた。敬愛を越えて、信仰に等しい。それも然もありなんだ。
「慧玲」
皇后がおぼつかない様子で視線を動かす。
「はい、ここにおります」
「あなたを信頼しているわ。あなたならば、かならず、妾を助けてくれると」
慧玲は静かに肯った。
「お腹が、減ったの。おいしいものを調えてね」
皇后は微笑み、安堵したように瞳を瞑る。
塩は、解毒にはならない。熱をあげすぎないための、一時凌ぎにすぎなかった。だが毒を解くにはなぜ、どのようにして、いかなる毒に侵されたかを解かねばならない。
後宮に毒を持ちこまれている――鴆が報せた不穏な言葉が耳に甦る。後宮のなかは悪意という毒に充ちている。陛下の寵愛を一身に享けていることで妬まれたのか。
だが、皇后に毒牙を剥けるような妃妾がいるとは想えなかった。
ひとつだけ、胸に刺さった棘のように思いあたることがあった――皇帝にたいする怨みが皇后にむかう。ありえないことではない。
(いや……憶測で考えるのは危険だ)
如何なる毒かはいまだに解らずとも。
「かならずや、薬と致します」