24 夏妃の女官は祈る
「薬を調えて参りました」
狗を解毒した翌日、慧玲は朝から夏の宮を再訪した。蒸篭のついた天秤棒を肩に担いで。医官とは想えないその格好に、凬妃が盛大に吹きだしたのは言うまでもない。
「麺か」
「蕎麦でございます」
「へえ、蕎麦というと温かいものだとおもっていたが」
慧玲が調えてきた蕎麦は、水をくぐらせて締めた冷たい蕎麦だった。魚介のだしに薬味の山葵がついている。暑さに茹だる夏でも食欲がそそられた。
蕎麦をだしに浸してから、ひと息に啜った。
「……旨い」
凬妃は喋るひまも惜しいとばかりにまた頬張る。
蕎麦からは芽吹いたばかりの草を想わせる香りが漂ってきた。こしのある細麺は喉ごしもよく、かつお節と昆布でしっかりと取られただしに絡む。
「こんなに旨くて、ほんとに薬になるのかい」
「旨いものこそが薬です」
慧玲はきっぱりと言いきった。
「こちらの蕎麦には柴胡や黄芩などが練りこんであります。凬妃の御身は現在、火が強くなりすぎて水を侮るほどになっております。柴胡、黄芩には昔から火の毒を解毒する効能があり、風邪などではないのに、熱りが続くときに処方されました」
凬妃は感心して、頷きながら聴いていた。
「何食分か打ちましたので、三日ほど続けて御召しあがりいただければ、解毒できるかとおもいます」
「なるほど。他に気をつけることなどはあるかい」
「御茶ではなく、水を飲まれることをおすすめいたします。あとは……失礼ながら大蒜、生姜、唐辛子等を日頃から多量に取られているということはございませんか」
「……う」
凬妃が言葉を詰まらせた。
側にいた女官がここぞとばかりに声をあげた。
「そうなんです! 後宮の味つけでは物足りないと、粥であろうと麺であろうと、すりおろした大蒜をたくさんまぜられて! そんなにいれたら、御身に障りますよと申しあげていたのですが」
「そ、そんなにたくさんはいれてないだろう」
「いえ、もとの味が解らなくなるほどには」
他の女官にもあきれぎみにいわれて、凬妃は肩を落とした。
「わかった。今後は控えるよ」
女官たちが喜びあう。……言葉にはしなかったが、よほどに臭かったのだろう。
◇
蕎麦を食べ終わった凬妃は「おかわりはないのか」といった。
「薬はたくさん食べれば効能があがるものではありませんので」
慧玲は苦笑したが、凬妃はいや、と首を横に振る。
「昊族の女官がいるといっただろう。彼女にも振る舞ってやりたい。私が誘って、一緒に大蒜を食べていたから、彼女にも火の毒がたまっているかもしれない」
「承知いたしました」
昊族の女官は名を依依といった。
三つ編みにされた赤銅色の髪は昊族の証だ。依依は蕎麦をみるなり、おさげを振りまわして奇声をあげた。
「ひっ、こ、このようなもの、わたしのような卑しい女が食べていい食事ではございません……わたしは、蒸篭の裏にひっついたもので結構です、ああぁ」
ごつんごつんと板張りに額を打ちつけだす。
慧玲はなにか儀式でも始まったのかと怯んだが、凬は慣れているのか、あきれながら依依に語りかけた。
「いつもいっているだろう。ここにはお前さんを差別するやからはいないよ。お前さんは季妃の女官だ。胸を張っていいんだ」
依依は泣きながら震える指で箸を取って、蕎麦を食べはじめた。はじめは遠慮がちだったが、よほどに旨かったのか、最後は頬がふくらむくらいに欲張ってほお張っていた。
(……彼女が昊族ならば、昊族の集落で暮らしていたはず。でも彼女の口振りだと日頃から差別を受けていたみたい。坤族の集落に逃げこんだせい? いや、それにしても、昔から虐げられ続けていたような)
髪のあいまから覗く耳には塞がりかけた傷がある。暴力でも受けていたのだろうか。
◇
食事を終えて、再度狗の診察にむかう。
凬は昼から季妃の茶会があるそうで、依依が診察に立ちあうことになった。
「あの」
「ひぃっ、申し訳ございません!」
声を掛けただけで依依は悲鳴をあげて、縮みあがった。渾沌の姑娘だからか、そもそも誰にたいしてもこんな調子なのか。
「謝らないでください。朝のご飯は食べましたかと伺いたかっただけなので」
「えっ、ふぁっ、有難くも、卵を落とした粥をいただきました……」
「っと、その……依依様ではなく、狗のことです」
「申し訳ございません!」
依依は草地に額をつけて、謝罪する。
(うわ……やりにくい……)
急いで診察を終えて帰ろうと慧玲は硬く誓った。
「脈、熱ともに問題ありませんね。無事に解毒できたようです」
「ああぁ、よかった……」
依依は泣きながら喜ぶ。もうだいじょうぶだよと狗の頭を撫ぜまわした。
「凬様のたいせつな家族ですから。死んでしまったら、どうしようかと思っていました。凬様が傷つくのは……つらすぎます」
「凬妃のことを慕っておられるのですね」
実をいえば、意外だった。
勝者たる坤族である凬は昊族にたいして哀れみも抱けるだろうが、敗者が抵抗なくそれを受けいれられるとは想えなかったからだ。
「凬様は……命の恩人なのです。あのような御方は他にはおられません。……わたしは産まれつき、髪がくすんでいて。……昊族は……ほんとうならば、もっとあざやかな紅の髪であるはずなのです」
彼女は喋りながら、暗い赤髪を握り締めた。みずからを縛りつけるいまいましい綱に爪を喰いこませるように。だが指をふっと、解く。
「ですが、凬様はこの髪を褒めてくださいました。ふたつの部族をひとつにしたような髪だと。そうして、それがあるべきかたちなのだと――凬様は仰せになられました。神話によれば、山脈に根づいたふたつの部族は、もとはひとつだったのだといいます。わたしは字を勉強していないので、神話を読むことはできませんが」
頬を紅潮させ、たまに言葉をつまらせながら、依依は懸命に喋った。
「もともと、ひとつだったものは、離れ離れになっても、またいつか、かならずひとつになるはずだと――それが、凬様の望みでした」
ですが、と声が落ちた。
「昊族は滅びました」
「滅んだ? 敗けた、ではなく? どういうことですか」
依依は黙った。
皇帝が昊族を制圧したというのはもっぱらの噂だったが、まさか民族浄化までおこなわれたのか。
「残ったのはわたしだけです」
「……左様でしたか」
皇帝を怨んでいますか、とは問わなかった。
「凬妃が素晴らしい人徳者であることは、私も感じています。私は疎まれものですが……凬妃は、寛大に受けいれてくださっています」
依依は嬉しそうに頷き、含羞む。
「……だから、わたしは凬様には幸せになっていただきたいのです」
申し訳ございません……と最後に癖のようにつけ加えて、依依は言葉の端を結ぶ。
あるじの幸福を祈るその言葉はやけに、重かった。
唐突に日が陰った。振り仰ぐと大きな翼を拡げた鳥が、日を横ぎっていったところだった。耳慣れない鳥の声が夏の晴天になぜか、哀しく響いた。